第十章 消えた写真の中の三人目
文化祭は十一月の第二週だった。
準備が本格的に始まったのは十月の最終週で、学校中が少しずつざわつき始めた。教室の飾り付けの話し合いが始まって、廊下に展示物が並び始めて、体育館では有志のステージ発表の練習が聞こえてくるようになった。
その雰囲気の中で、旧校舎の展示準備が始まった。
文化祭では毎年、旧校舎を解放して写真展をやるらしかった。学校の歴史を振り返る写真が展示されるもので、かなり昔の卒業アルバムや行事の写真が並ぶ、年に一度の企画だった。
透子から連絡が来たのは、その準備が始まって二日目のことだった。
「先輩、写真展の準備を手伝ってた三年生が、具合悪くなったって聞きましたか」
「聞いてない」
「今日の午後、旧校舎の展示室で写真を整理してたら、急に気分が悪くなったって。それだけじゃなくて、写真の一枚に、変なことがあったって」
「変なこと?」
「三人で写ってるはずの写真なのに、一人だけ不自然に消えてるって。フィルムの傷とか、現像の失敗とかじゃなくて、もともとそこにいなかったみたいに消えてるって言ってました」
私は窓の外を見た。今日は晴れていた。文化祭の準備で、校庭を生徒たちが行き来していた。
「写真は今どこに?」
「旧校舎の展示室です。先生たちも確認したらしいですが、フィルムの問題だろうって。でも気分が悪くなった子は、なんか写真に引き込まれる感じがしたって言ってて」
「分かった。行ってみる」
「私も行っていいですか」
「危ないかもしれない」
「危なくなる前に逃げます。情報収集だけなので」
透子の自己保存本能は信頼できると思っていたので、「分かった、ただし指示には従って」と言った。「します」と即答が来た。
放課後、旧校舎の展示室に行った。
依子さんとルチルも一緒だった。透子は入り口の手前で待機することにした。
展示室は旧校舎の二階にある、元は美術室だったらしい部屋だった。壁に沿って写真パネルが並べかけてある状態で、まだ準備途中だった。
入った瞬間に、感応が揺れた。
いつもより強い反応だった。部屋全体に、何かが滲んでいた。一つの怪異というより、複数の感情が重なっているような、複雑な揺れ方だった。
「強い」とルチルが言った。
「どこが核ですか」
「まだ絞れない。部屋全体に広がっている。写真のどれかが発生源だと思うが」
依子さんが部屋を見回した。
「写真パネル、けっこうな量あるね」
「全部に触れますか」
「時間がかかりすぎる。まずは目で見て、異質なものを探して」
三人で分かれて、写真を見ていった。
卒業式の写真、運動会の写真、文化祭の写真。年代はばらばらで、古いものは白黒だった。生徒の顔も、先生の顔も、時代によって雰囲気が全然違う。
透子が言っていた「消えた写真」を探した。
二十枚ほど確認したあたりで、依子さんが「こっち」と言った。
一枚の写真だった。
縦長の写真で、廊下で撮ったらしかった。文化祭の準備をしている場面のようで、背景に垂れ幕が見えた。
三人で写っていた、はずだった。
でも中央の一人だけが、不自然に消えていた。
消えている、というより、そこだけが白かった。人の輪郭が完全に消えて、でも周囲には二人の人物が写っていた。右側の人物は笑っていた。左側の人物は、消えた人物の方を向いていた。
「左側の人物」
依子さんが低い声で言った。
「顔、見て」
私は写真に近づいた。
左側の人物は横顔だった。消えた人物の方を向いて、笑っている途中の顔。
「先輩?」
榊晴澄、だった。
若い、おそらく中学生か高校に入ったばかりくらいの顔だったけれど、間違いなかった。少し面影が薄いが、目の形と顎のラインが同じだった。
「何年前の写真ですか」
依子さんが写真の裏を確認した。
「四年前。先輩が入学した年か、その前後くらい」
「先輩が中学生のときの写真がなんでここに」
「この学校の文化祭の写真じゃないのかも。他の場所で撮ったものが混ざっていた可能性がある」
ルチルが写真を見て、黙った。
「ルチル」
「触れてみろ」と、低い声で言った。いつもより短かった。
「気をつけろ。これは、強い」
「どのくらい」
「今まで触れた中で一番強い可能性がある。引きずられるな」
「分かった」
写真の端に指を当てた。
一瞬だった。
最初の一瞬だけ、普通だった。写真の紙の感触があって、少し日焼けしている感じがあって。
次の瞬間、引きずり込まれた。
引きずられる、という感覚を初めて本当に理解した。流れ込んでくるのではなかった。こちらが引っ張られていく感覚だった。水の中に手を突っ込んだら、流れに腕ごと持っていかれるような。
映像があった。
廊下だった。写真と同じ廊下だった。垂れ幕の準備をしている。楽しそうな声がしていた。文化祭の前日か前々日の放課後で、まだ明るかった。
三人いた。
右側の人物と、左側の人物と、中央の人物。
中央の人物が、笑っていた。よく笑う子だった。明るい笑い方をする子だった。赤いリボンをつけていた。
左側の人物が、晴澄さんだった。中学生か高校一年生くらいの晴澄さんが、その子の方を向いて笑っていた。整えていない顔だった。今より柔らかくて、表情が自由だった。
二人は仲がいい、というより、もっと近かった。並んでいる距離が、友達というより、もっと当たり前に近い距離だった。
中央の子が何か言った。晴澄さんが笑って返した。
そのとき、写真を撮られた。
シャッターの瞬間に、中央の子が晴澄さんの方を向いた。横顔が見えた。
赤いリボンが揺れた。
そこで、感応が激しく揺れた。
映像が割れた。複数の感情が一気に流れ込んできた。後悔、恐怖、「忘れないで」、「行かないで」、「覚えていて」。
誰かが叫んでいた。
誰の声か分からなかった。でも切実だった。
そして何かが、ぶちりと切れた。
「ましろ」
ルチルの声だった。
「手を離せ。今すぐ」
手が写真から離れていた。いつの間にか、ルチルが私の手を写真から引き離していた。小さな体で、思ったより力があった。
床に手をついていた。いつの間にかしゃがんでいた。
「大丈夫か」
「……大丈夫」
「嘘だ。顔が白い」
依子さんが膝をついて、私の顔を覗き込んだ。
「どのくらい入った?」
「映像が見えた。断片的に。でも途中で、何かが壊れて」
「そこで切れたのは、封印があるからよ。これ以上は入れないように、ブロックがある」
「封印?」
「この写真だけじゃなくて、この怪異全体に。誰かが意図的に、核心の部分を見えなくしている」
「誰が」
「保管局が」
依子さんは立ち上がった。表情がいつもと違った。飄々としたところが消えていた。
「この案件、上に報告する必要がある。マズいことになってきた」
「どういうことですか」
「この怪異、ただの学校怪談じゃない。誰かが処理した跡がある。それも、かなり昔に。保管局の手が入っている」
「先輩に関係してるってこと?」
「先輩が、関係している人と、共に写っている写真だ。消えている人物に、封印がかかっている。これは偶然じゃない」
ルチルが写真を見ていた。
動かなかった。黙って、写真を見ていた。
「ルチル」
「なんだ」
「消えてる人、知ってる?」
ルチルが写真から目を逸らした。私の方を見た。
「……今は言えない」
「今は、って何回言うの」
「今は言えない」
「ルチル」
「今は言えない!」
ルチルが声を荒げた。珍しいことだった。怒る時はあるけれど、大きな声を出すことはなかった。
部屋に沈黙が落ちた。
ルチルは写真から離れた。部屋の端の方に行って、背を向けた。大きな尻尾が、丸まった。
依子さんが私に目を向けて、小さく首を振った。今は聞くな、という意味だと思った。
私は立ち上がった。膝が少し震えていた。
写真を、もう一度見た。
消えている部分。中央の人物がいたはずの場所が、白くなっていた。
その白さの中に、さっき一瞬だけ見えた赤いリボンが残っていた。
正確には残っていなかった。写真の上には何もなかった。でも私の中に残っていた。
赤いリボンをつけた、よく笑う子。
晴澄さんの隣に、当たり前にいた子。
定期入れの赤と、ルチルの首の赤と、写真の中に残った赤が、頭の中でひとつにつながった。
ここまで来てようやく、私は気づいた。この学校で拾ってきたものは、全部同じ場所へ戻ろうとしている。
「高槻さん」
後ろから声がした。
振り返ると、晴澄さんが展示室の入り口に立っていた。
生徒会の確認業務で来たのか、書類を持っていた。でも入り口で止まっていた。部屋の中を見ていた。
写真を見ていた。
「先輩」
「今日も、ここに来ていたんですね」
「少し確認を」
「写真展の準備で具合が悪くなった子がいると聞いて、私も確認しに来たんだけど」
晴澄さは部屋に入ってきた。依子さんに会釈した。依子さんが「こんにちは」と言った。
晴澄さんの視線が写真のパネルを流れていって、止まった。
一枚の写真のところで。
消えた写真のところで。
「これ」
晴澄さんが近づいた。
私は何も言えなかった。依子さんも黙っていた。
晴澄さんは写真の前に立って、じっと見た。
長い沈黙だった。
「これ、私ですか」
「……そうだと思います」
「左側の人物」
「はい」
「ということは、私はこの写真を知っているはずなのに」
「覚えていませんか」
「覚えていない。顔が自分に似ているとは思うけど、この写真を撮られた記憶がない」
晴澄さんは消えた部分を見た。中央の白い部分を。
「真ん中、誰かいたんですよね」
「はい」
「誰が」
「分からないです」
嘘だった。正確には、映像で見た。でも言えなかった。言う準備が、できていなかった。晴澄さんの準備も、できていない気がした。
「なんで消えているんですか」
「調査中です」
「それは本当のことですか」
私は少し間を置いた。
「調査中、というのは本当です。ただ、まだ言えないことがあります」
「まだ言えない」
「はい。申し訳ないですが」
晴澄さんは私を見た。目が少し違う表情をしていた。整えた顔の中で、目だけが追いかけてくるような。
「この写真に写っている、隣の誰かのことを」
「はい」
「あなたは知っていますか」
「……少しだけ」
「少しだけ」
「断片的に」
「教えてもらえますか」
「今は」
「まだ言えない?」
「はい」
晴澄さんが目を伏せた。写真から視線を離した。
そのとき、起きた。
晴澄さんの顔が変わった。青ざめた。手が写真パネルの端を掴んだ。
「先輩」
「……頭が」
「頭痛ですか」
「ひどい。今まででいちばん」
依子さんが素早く動いた。晴澄さんの腕を支えた。
「椅子、どこかに」
「廊下に」
ルチルが言った。部屋の端から声だけが来た。
依子さんが晴澄さんを廊下の椅子まで連れていった。私も続いた。
晴澄さんが椅子に座った。目を閉じていた。顔が白かった。
「大丈夫ですか」
「……少し待って」
しばらく待った。廊下に夕方の光が差していた。窓から校庭が見えた。文化祭の準備で、まだ生徒が残っていた。
二分ほどして、晴澄さんが目を開けた。
「落ち着いた」
「よかった」
「いつもより強かった。あの写真の前に立ったとき」
「写真に、何かが」
「反応している気がした。私が近づいたとき、何かが私に向かってきた感じがして」
依子さんが私を見た。私も依子さんを見た。
「先輩の近くで怪異の活性化が起きているのは、以前から気づいてました。ただ今日のは、あの写真との反応が直接的に強かったと思います」
「私が特別な理由があるんですか」
「……調査中です」
「みんな、調査中って言うのね」
晴澄さんが突っ込んだ。皮肉ではなかった。ただ疲れた声だった。
「先輩」
「なに」
「今日は早く帰ってください。頭痛がひどいなら」
「まだ仕事が」
「志季さんに頼めますか」
「志季に頼むのは」
「志季さんは頼りになる人です」
晴澄さんが私を見た。少し驚いた顔だった。
「あなた、あの子とそんなに仲良くなったの」
「仲良くはないけど、頼りになるとは思います」
「……そうね」
晴澄さんはしばらく考えた。
「志季に連絡する」
「よかった」
「でも」
晴澄さんが立ち上がった。まだ少し顔色が悪かったけれど、自分で立てた。
「あの写真に写っていた人のことを、あなたが知っているなら」
「はい」
「いつか、教えてもらえますか。準備ができたときに」
私は晴澄さんを見た。
「準備が、先輩にとっての準備ですか、私にとっての準備ですか」
「両方」
「……はい」
「約束してもらえる?」
「します」
晴澄さんは少しだけ、ほっとした顔をした。ほんのわずかだったけれど、見えた。
「ありがとう」
廊下を歩いていった。今日は手を壁につかなかった。ゆっくりだったけれど、自分で歩いた。
晴澄さんが見えなくなってから、依子さんが言った。
「真壁さんに報告する。今日の件は、私の判断だけで動けない」
「どういうことですか」
「保管局が過去に処理した案件に触れた。それも、かなり大きな処理の痕跡がある。私はその処理の詳細を知らない。上に確認しないといけない」
「真壁さんは知ってるんですか」
「分からない。でも知っている可能性がある」
「もし知っていたら」
「どういう処理だったかを教えてもらえる。あるいは」
依子さんは言葉を止めた。
「あるいは、教えてもらえない可能性もある」
「なんで教えてもらえないんですか」
「関与を制限される可能性がある。私たちの」
「制限?」
「保管局には、一度処理した案件を再処理しない原則がある。封じたものは封じたまま、という考え方。それに触れることは、原則として禁止されている」
「原則として、ということは例外もある?」
「あるけど、上の判断が必要」
「上が認めなかったら」
「関与できなくなる」
私は廊下の端のルチルを見た。ルチルはまだ背を向けていた。大きな尻尾が丸まったまま、動かなかった。
「ルチル」
返事がなかった。
「ルチル」
「……なんだ」
「今日見えたものを、言っていいですか」
「何を言う気だ」
「写真の中に、赤いリボンをつけた女の子がいた。それだけ」
ルチルの尻尾が動いた。ゆっくりと、一回だけ揺れた。
「言うな、と言えるような立場ではない」
「じゃあ聞いてもらえますか」
「……聞いている」
「赤いリボンをつけた、よく笑う女の子が写っていた。晴澄さんの隣に、当たり前にいた。写真に封印がかかっていて、誰かが消そうとしたみたいだった。でも完全には消えていなかった」
ルチルは動かなかった。
「その子が、この学校の怪異の中心にいる気がします」
「……そうかもしれない」
「ルチルの首の赤いリボン」
「なんだ」
「関係してますか、その子と」
長い沈黙があった。
依子さんが息を呑む音がした。
「……今は」
「言えない、でしょ」
「そうだ」
「分かった」
「分かったのか」
「分かった。今は聞かない」
ルチルがゆっくりと振り返った。丸い目が、夕方の光の中で光っていた。
「高槻ましろ」
「なに」
「おまえは今日、かなり危険なものに触れた。引きずり込まれかけた。それでも手を離せた」
「ルチルが離してくれた」
「最後は自分で離した」
「……そう?」
「そうだ。あたしが引き離す前に、おまえの手が写真から浮いていた」
「気づかなかった」
「気づいていなくても、できていた。それは力になっている」
ルチルがまた前を向いた。
「急ぐな。順番がある」
「順番?」
「知っていいことと、知ってはいけないことの順番ではない。知るための準備の順番だ。おまえが強くなれば、見えてくるものが増える。そういう順番だ」
「ルチルが教えてくれる?」
「……教えられることは、教える」
「約束?」
「約束だ」
依子さんが「私も約束に入れて」と言った。ルチルが「黙れ」と言った。依子さんが「入れてよ」と言った。ルチルが「……入れる」と言った。
夕方の旧校舎の廊下で、三人と一匹の約束だった。
ちゃんとした約束の形ではなかった。でも本物だと思った。
外から、文化祭の準備をしている生徒たちの声がした。明るい声だった。
私はその声を聞きながら、写真の中の赤いリボンを思っていた。
消されていたけれど、消えていなかった。
封印されていたけれど、完全には封じられていなかった。
誰かが消そうとして、でも消えなかった。
それがどういう意味を持つのかは、まだ分からなかった。でも確かなことが一つあった。
失くされたものは、なかったことにはならない。
それが、私がずっと信じてきたことだった。
あの写真の中の子も、消されながら、消えていなかった。
それだけで、まだ間に合う気がした。
何に間に合うのかは、まだ言葉にならなかったけれど。




