第一章 赤いリボンの落としもの
雨上がりの朝だった。
通学路のアスファルトはまだ濡れていて、電柱の影をぼんやりと映している。水たまりを避けながら歩くたび、足元に制服姿の自分が揺れた。肩につかないくらいの黒髪が少しだけ跳ねていて、眠たそうな顔まで頼りなく映る。
道の端で、赤いものが目に入った。
リボンだった。
正確には、赤いリボンのついた、紺色の古びた定期入れ。
こういうとき、見ないふりができればいいのに、といつも思う。
でも私はたいてい、できない。
誰かが落としたのだろう。そう思って屈みこんで、指先がそれに触れた瞬間だった。
――行かないで。
声ではなかった。けれど、たしかにそう聞こえた。
正確に言うと、私には少し変なところがある。
落とし物に触れると、そこに残った誰かの感情が、流れ込んでくるのだ。
匂いみたいなものだとよく思う。あるいは、水に溶かした絵の具。形はないのに、たしかに色がある。傘を拾えば、忘れた日の苛立ちや、誰かへの遠慮が染み出てくる。手袋を拾えば、急いでいた朝の焦りが滲んでくる。消しゴムだって、テストの緊張が残っていることがある。
ほとんどは薄い。気のせいかな、と思える程度。
でもたまに、強いものがある。
今朝の定期入れは、後者だった。
「行かないで」という感情は、手のひらを通じて胸のあたりまで這い上がってきて、肺のそばで小さくなった。他人の感情なのに、自分が置いていかれたみたいな、ひどく心細い気持ちだった。
私は定期入れを道端に置きなおすことができなかった。
ひとまず持ち主を探さなければ、と立ち上がって、駅の方を見た。
朝のラッシュ時間帯、久瀬ヶ丘駅は通勤客と通学生で混み合っていた。私の学校、私立久瀬ヶ丘高校は駅から徒歩十分ほどで、この道は通学路として使う生徒も多い。でも定期入れの持ち主が今もここにいるとは限らない。どこかに落として、もう行ってしまったのかもしれない。
とりあえず駅に届ければいいか、と思って歩き出した瞬間、なんとなく改札の方が気になった。
嫌な予感、というのでもない。ただ、そちらを見なければいけない気がした。
ICカードのタッチ音が連続している。それ自体はおかしくない。でも、どこかリズムがおかしかった。タッチ、タッチ、タッチ、タッチ――同じ人が何度もやっているみたいな、ループするような音の繰り返し。
改札を見たら、サラリーマンの男性が同じ改札にICカードを何度もかざしていた。通れているはずなのに、体がそこから先へ進まない、というように。扉は開く。男性が一歩踏み出す。でも次の瞬間には、また改札の手前に立っている。
男性の隣では、別の女性が同じことをしていた。
その隣も。
その隣も。
改札を通ろうとするすべての人が、まるで同じところにテープで貼り付けられたように、同じ動作を繰り返していた。ループ、ループ、ループ。でも当人たちは気づいていない。顔に焦りも困惑もなく、ただ黙々と改札に向かっている。
私は立ち止まって、手の中の定期入れを見た。
「行かないで」
誰かがここで、誰かを待っていた。
その感情が、今も現実を歪めている。
「やっと気づいたか。のろいなぁ、おまえ」
声が聞こえた。
下から、だった。
見ると、私の足元に何かいた。
――何か、というのが正直なところだった。リスかと思ったけれど、耳がちょっと大きすぎる。猫かと思ったけれど、顔が少し丸い。フェネックかと思ったけれど、尻尾が異常に大きかった。全体的にふわふわとしていて、ぬいぐるみにしか見えないのに、目がちゃんと動いていて、口も動いていた。
首に赤いリボンをしていた。
「……動物が、しゃべってる。かわいい声で」
「動物じゃない。あたしは霊獣だ。ルチルという。おまえが今持っているそれは、"未練を帯びた遺失物"だ。持ち主の感情が怪異化して、周囲に影響を及ぼしている。分かるか?」
「ぜんぜん分からない」
「まあそうだろうな」
自分で言って、自分で納得したらしかった。ルチルと名乗った生き物は、私の足元で大きな尻尾をゆったりと揺らした。
「簡単に言う。その定期入れに残った感情が強すぎて、現実が歪んでいる。あの改札の人間たちは、しばらく自力では抜け出せない。このまま放置すれば範囲が広がる。おまえが今すぐ何とかしなければならない」
「私が?」
「おまえ以外に誰がいる」
見渡すと、改札以外の通行人はまったく気づいていないようだった。現象を素通りしている。私の隣を、中年の女性がスマートフォンを見ながら歩いて行った。改札のループには目も向けない。
「あの人たちには見えてないの?」
「おまえとここの感応が共鳴している。だから影響が見える。それだけのことだ」
感応、という言葉が、さっきから引っかかっていた。
「それって、落とし物を触ると感情が分かるやつのことですか」
「そうだ。おまえの体質、正式には遺失感応という。遺失物に残った未練・後悔・願いの断片を読む力だ。生まれつきのものだろう、おまえの場合は」
「……なんで知ってるの」
「あたしが拾いに来たからだ。スカウトだと思え」
ルチルは小さな手足で歩き出し、改札の方をちょこんと見た。
「今はとにかく、あれを何とかしろ。詳しいことはそのあとだ」
「何とかしろって言われても……」
「おまえは今、その定期入れの持ち主の感情を読んだはずだ。何が見えた」
私は手の中の定期入れをもう一度見た。
「行かないで、って感情が」
「それだけか」
目を閉じると、さっき触れたときの感覚がまだ残っていた。ただの寂しさではなかった。もっと具体的な何かがあった気がする。改札。誰かを待つ。行かないで。行かないでって、誰かに言いたかった。
「……改札で、誰かを待ってた。朝の時間帯。ここで待っていた。でも、来なかった」
「もっと」
「女の子だと思う。たぶん若い。怒ってるわけじゃない。ただ、まだここにいてほしくて」
「そうだ」
ルチルの声が少し変わった気がした。偉そうなのは変わらないけれど、わずかに、何か別のものが混じったような。
「その感情の核を、受け取ってやれ。取り除くんじゃない、受け取るんだ。持ち主が置いていったものを、ちゃんと誰かが拾った、と知らせてやれ。それだけでいい」
「……それで止まるの」
「止まる」
根拠を問い返す暇はなかった。改札のループが少し激しくなっていた。タッチ音の間隔が短くなって、人の数も増えている気がした。
私は定期入れを両手で持った。
目を閉じた。
また流れ込んでくる。朝の駅。改札の前。学校に行かなければいけない時間なのに、足が動かなかった。待っていたのだ。来るかもしれないから。いつもここで別れていたから。最後にもう一度、顔を見たかった。でも来なかった。来なくて。改札を通った先には、もう会えない何かがあった。
行かないで、と思った。
もう少しだけ、行かないでいてほしかった。
私はその感情を飲み込むように、ゆっくり息を吸った。
分かった、と思った。言葉にはならない。でも、そういう気持ちだった。あなたがそこにいたこと、待っていたこと、行かないでほしかったこと、全部ちゃんとここに残ってた。見つけた。受け取った。
タッチ音が、止まった。
目を開けると、改札の前に立っていた人たちが、きょとんとした顔で周囲を見回していた。それから何事もなかったように改札を抜けて、それぞれの方向へ歩いていった。
静かになった。
私はしばらく定期入れを持ったまま立っていた。
「まあ、及第点だ」
ルチルが言った。
私はこの子をもう一度見た。見るたびに、こんなにかわいい見た目の生き物が本当にしゃべっているのか、という気持ちになる。
「えっと……何が起きたのか、もう少し説明してもらえますか」
「だから言っただろう。その定期入れは未練を帯びた遺失物だ。放置すれば怪異化して現実を歪める。おまえはその感情の核を受け取ることで、怪異を鎮めた。以上だ」
「以上って」
「難しいことを言っても理解できないだろう」
「そんなことない」
「では聞くが、霊質飽和と感応干渉の違いを説明できるか」
「……それは分からない」
「だろうな」
勝ち誇った顔をされた。ぬいぐるみみたいな顔なのに、勝ち誇った顔というのはちゃんとできるらしい。
「おまえを連れて行く場所がある。詳しいことはそこで話す」
「待ってください。あなた、さっきスカウトって言いましたよね」
「言った」
「私はまだ何も了承してないんですけど」
ルチルは私をちらりと見上げた。
「おまえ、さっき目を閉じて感情を受け取ったとき、どういう気持ちだったんだ」
「え」
「怖かったか。嫌だったか」
「それは……」
言葉に詰まった。怖かったのは最初だけだった。定期入れの持ち主の感情が流れ込んできたとき、痛かったし、知らない悲しさで息が詰まりそうだった。でも同時に、これを誰かが拾ってあげなければいけない、と思っていた。
「おまえは放っておけない。そういう性質だ。見えてしまう以上、知らないふりはできない。あたしには分かる」
「……なんで」
「あたしにも、似たような事情がある」
その言い方だけ、急に声の奥行きが変わった。
うまく隠したつもりなのに、そこだけ薄く傷が見えた気がした。
私が聞き返す前に、ルチルは歩き出した。
「来い、高槻ましろ」
「……名前、知ってるの」
「当たり前だ。調べてきた。個人情報の概念は一応ある」
「一応って言い方が怖い」
「うるさい。来るか来ないか、どっちだ」
私は手の中の定期入れを見た。
改札はもう正常に戻っている。さっきまでそこにいた人たちは、全員どこかへ行ってしまった。誰も何も覚えていない。怪異があったことも、私がそれを受け取ったことも。
でもたしかに、誰かがそこで誰かを待っていた。行かないでほしかった朝があった。それは本当のことだった。
「……定期入れは、どうするんですか。持ち主に返せないの」
「保管局が管理する。失くされたまま誰にも見つからなかったものたちを、あたしたちは保管している。それが仕事だ」
『終末保管局』という言葉を、その時初めて聞いた。
私は定期入れをそっと持ち直した。
「……分かりました。行きます」
「賢明な判断だ」
「でも一つだけ言わせてください」
「何だ」
「あなた、かなりかわいい見た目なのに、しゃべり方がすごく偉そうですよね」
ルチルは尻尾をぱっと立てた。大きな尻尾が怒りで逆立ちそうになっている。
「うるさい。関係ない。歩け」
「はい」
学校には遅刻の連絡を入れた。
ルチルに導かれてたどり着いたのは、久瀬ヶ丘駅から路地を二つ曲がった先にある、古びた雑居ビルの三階だった。表札には何も書いていないけれど、ドアを開けると、意外に広い事務所のような空間が広がっていた。
書類の束。棚にずらりと並んだ封筒や箱。奥の方に保管棚のようなものがあって、透明なケースの中にさまざまな物が収められていた。古いボタン、片方だけの手袋、鍵、ハンカチ、カセットテープ。
全部、誰かが失くしたものだった。
そう直感した。触れてもいないのに、なんとなく分かった。
「来たか」
棚の奥から声がした。
飄々とした、大人の女の人の声だった。現れたのは、ゆるいスーツを着た二十代後半くらいの女性で、口には棒付きのキャンディをくわえていた。煙草ではなく、キャンディ。そのちぐはぐさが、妙にこの人に似合っていた。
「終末保管局・久瀬支部、調査官の冬月依子です」
彼女は名乗ると、私を頭のてっぺんから足先まで見て、ふうん、と言った。
「遺失感応か。久しぶりに見た。というか、現役でこの能力持ちがいるのは初めてかも」
「冬月」
別の声がした。事務所の奥の席に、男性が座っていた。四十前後だろうか。書類から目を上げることもなく、端的に言った。
「余計なことを言うな。説明は必要最低限にとどめろ」
「はーい」
依子さんは軽く返事をして、私に向き直った。
「あっちは真壁主任。こわい顔してるけど、仕事はできます。まあ私も仕事はできますけど」
「自分で言うのか」
「言っていい資格があるから言ってます」
この人たちは仲がいいのだろうか悪いのだろうか、と思いながら、私はルチルを見た。ルチルは棚の上に飛び乗って、偉そうに足を組んでいた。組める構造なのか、あの小さな体で。
「遺失感応について説明します」
依子さんが続けた。キャンディを口の端に寄せながら。私が肩に力を入れているのに気づいたみたいに、わざと少しだけ明るい声を出した。緊張をほどこうとしてくれているのだと、そのとき遅れて分かった。
「人が何かを失くしたとき、強い感情を持っていると、その感情が失くした物に残ることがある。後悔、未練、願い。それが一定の濃度を超えると怪異化して、現実に影響を出す。今朝あなたが経験したやつ」
「……改札のループ」
「そう。ああいう怪異化した遺失物を回収して、鎮めて、保管する。それが終末保管局の仕事。久瀬市内だけでも、月に十数件は発生してる」
「そんなに」
「増えてます、最近は」
真壁と呼ばれた男性がそう言って、初めて書類から目を上げた。
「高槻ましろ。十六歳、私立久瀬ヶ丘高校二年生。遺失感応の体質は先天性。幼少期から落とし物への過反応が記録されている。学校のカウンセラーに相談した記録もある」
「……調べてあるんですね」
「把握が仕事だ」
そう言って、また書類に視線を戻した。
「あなたの能力は、怪異の核に直接触れることができる。通常の回収官では感知にとどまるものを、あなたは読んで受け取ることができる。非常に珍しい」
「それって」
「怪異の中心に最も近づける、ということでもある。危険性も高い」
依子さんが補足した。
「感情の強いやつに触れると、引きずられる。今日のはまだ軽い方。本格的なやつだと、意識が持っていかれることもある。あなたの体質は特別だけど、それだけ負荷も大きい」
「……断れるんですか」
尋ねたら、依子さんとルチルが同時に私を見た。
「断れる。強制はしない。でも」
「どうせできない。見えてしまうから、知らないふりが」
ルチルが、横からかぶせるように言った。私は反論出来ずにしばらく黙った。
窓から外を見ると、久瀬ヶ丘の朝の街が見えた。人が歩いている。電車が走っている。誰も知らない場所で、誰かが失くしたものが、誰かの感情を滲ませたまま転がっている。
「……やります」
「いい返事だ」
依子さんは微笑んだ。
「のろいが、まあ正解だ」
ルチルにそんなことを言われたので、私は言い返した。
「態度が悪い」
「うるさい」
久瀬ヶ丘高校に着いたのは、三時間目が始まる直前だった。
遅刻届を出して、昇降口を入ろうとしたとき、廊下の向こうから声がした。
「二年の生徒、ここで何をしている」
振り返ると、制服の上からきっちりと生徒会の腕章をつけた、背の高い女の人が立っていた。
三年生だと分かった。
顔を見たことはある。
でも、それだけじゃない気がした。
どこで見たのかは思い出せない。ただ、名前を口にしようとすると、胸の奥がかすかにざわついた。変なの、と思ったけれど、そのときはそれ以上気にしなかった。
生徒会長の、確か――榊晴澄さん。
「遅刻届を出しに」
「見れば分かる」
冷静な声だった。怒っているわけではない。ただ、とても整った表情をしていた。乱れのない顔というのは、こういうことを言うのだろうと思った。
「具合でも悪かった?」
「いえ、少し寄り道を」
「寄り道」
彼女はわずかに眉を動かした。おかしい、と思っているのか、あるいは呆れているのか。どちらでもないような気もした。
「気をつけなさい」
それだけ言って、彼女は廊下を歩いていった。
後ろ姿を見ながら、私はなんとなく、胸の奥に引っかかりを覚えた。
落とし物のときとは違う。感情が流れ込んでくるわけじゃない。でも、何かある気がした。何かを、失くしている気がした。




