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「……これは、ひどい」
私たちがロナデシア本邸の正門に辿り着いた時、目の前に広がっていたのは地獄の光景だった。 屋敷を中心として渦巻く黒い奔流が、周囲の空間ごと捻じ曲げている。美しい庭園は枯れ果て、空は紫色の亀裂が走り、そこから名状しがたい異形の影――下級の魔物たちが這い出し始めていた。
「ひるむな! 陣形を組め!」
アルドの号令と共に、彼に従う兵士たちが剣を抜き、影の群れに立ち向かう。 ヨーデルもクワ(どこから持ってきたの?)を構え、私を守るように前に立った。
「アメリス様、離れないでください! この黒い霧に触れると、生気を吸い取られます!」 「ええ、わかっているわ! でも、屋敷までどうやって近づけば……」
屋敷は黒いドーム状の結界に覆われており、近づくことすらままならない。 魔物の数は増える一方だ。マリスが自身の魔力(魅了の応用らしい)で数体を同士討ちさせているが、多勢に無勢だ。
「くっ……このままじゃ、ジリ貧よ!」 「道を開けます!」
アルドが気合の咆哮と共に斬り込むが、影は切っても切っても再生する。 万事休すかと思われた、その時だった。
『――全軍、放てッ!!』
ズドドドドーン!! と大地を揺るがす轟音が響き渡り、屋敷を取り囲む影の群れが一瞬にして吹き飛んだ。 硝煙の向こうから現れたのは、整列した数百名の重装歩兵と、巨大な魔導砲を牽引した馬車部隊。 そして、その中央で優雅に指揮棒(という名の扇子)を振るう人物。
「アサスお姉様!?」
銀髪をなびかせ、眼鏡を光らせた長姉、アサス=ロナデシアその人だった。
「遅くなりまして? 私としたことが、傭兵団との契約金交渉に手間取りましたわ」
お姉様は戦場に似つかわしくない優雅な足取りで、私の元へと歩み寄ってきた。
「アサスお姉様、どうしてここに……?」 「勘違いなさいな。これは『投資』ですわ。領地が魔界に飲み込まれては、私の資産価値がゼロになりますもの。……それに、妹二人に借りをリセットする良い機会だと思いましてね」
お姉様は私とマリスを交互に見て、ふっと口角を上げた。
「マリス、そのだらしない顔をおやめなさい。化粧が崩れてますわよ」 「う、うるさいわね! 助けてくれたことには感謝してあげるわよ!」
マリスが涙目で言い返す。三姉妹が、初めて同じ戦場に立った瞬間だった。
「さあ、魔導砲で結界に穴を開けますわ。一発あたり金貨五千枚の特注弾です。心して通りなさい!」
お姉様の合図で、魔導砲が火を噴く。金貨の輝きのような閃光が結界を穿ち、人が通れるほどの亀裂を作った。
「行くわよ!」
私はヨーデルの手を引き、亀裂へと飛び込んだ。続いてアルド、マリス、ローナが続く。 目指すは儀式の間――かつて家族団欒の場であったはずの、大広間だ。
◇
屋敷の中は、外以上に異様な空間と化していた。 廊下は脈打つ肉壁のように変質し、壁に飾られた歴代当主の肖像画が、不気味な嘲笑を浮かべてこちらを見ている。
「気持ち悪い……これが私たちが育った家なの?」
マリスが青ざめる。 私たちは最短ルートで大広間を目指したが、大階段の前で足を止めざるを得なかった。 そこには、あの「黒いコートの男」が待ち構えていたからだ。
「やあ、歓迎するよ。まさか『失敗作』の娘たちが揃ってここまで来るとはね」
男は空中に浮遊し、手には赤黒く脈打つ心臓のような魔石を持っていた。
「ここから先は『聖域』だ。不純物は排除させてもらう」
男が手をかざすと、空間が歪み、見えない圧力が私たちを押し潰そうとする。 動けない。息ができない。これが、人智を超えた魔術師の力なのか。
「くっ……お前が、私の村を……!」
ローナが歯を食いしばり、男を睨みつける。
「ああ、あの実験場の生き残りか。良いデータが取れたよ。感謝している」 「ふざけるなッ!!」
ローナが飛び出そうとするが、重力に縛られて一歩も動けない。 男は冷酷な笑みを浮かべ、私に指先を向けた。
「まずは『器』を回収しようか。中身の魂はいらない。空っぽにしてから、魔王様をお迎えしよう」
死の予感が背筋を走る。 その時、私の前に立ちはだかる背中があった。
「させません!」
ヨーデルだった。彼は重圧に全身の骨をきしませながらも、一歩も引かずに私を庇っていた。
「どけ、農民風情が。貴様のような虫ケラに何ができる」 「虫ケラでも……土に根を張る強さはある! アメリス様は、俺たちの太陽だ! 太陽を隠そうとする雲なんて、俺が吹き飛ばしてやる!」
ヨーデルの体から、黄金色の光が溢れ出した。それは魔力ではない。彼が大地と共に生き、命を育んできた、純粋な生命の輝きだった。
「なっ……!? 魔術を弾くだと!?」
男が驚愕する。ヨーデルの作った光の領域が、男の重力魔法を中和したのだ。
「今です、アメリス様! 行ってください!」 「でも、ヨーデル!」 「俺たちはここでこいつを食い止めます! ローナ、アルドさん、力を貸してください!」
アルドが剣を構え、ローナがナイフを取り出す。
「アメリス、ここは任せて! あんたは親玉をぶっ飛ばしてきな!」 「御武運を、アメリス様!」
私は唇を噛み締め、頷いた。
「わかったわ! 絶対に、死なないでよ!」
私はマリスの手を取り、階段を駆け上がった。背後で激しい戦闘の音が始まる。 信じている。彼らなら、絶対に負けないと。
◇
大広間の扉を蹴破ると、そこには異界への門が開かれようとしていた。 部屋の中央、魔法陣の上に浮いているのは、変わり果てた姿の両親――バルトとテレースだった。
二人の体は半ば黒い霧と同化し、虚ろな目で虚空を見つめ、ブツブツと呪文を唱え続けている。
「……完全なる器……至高の力……我らが悲願……」
「お父様! お母様!」
私の叫び声に、二人の視線がゆっくりとこちらを向いた。 その目には、かつて私に向けられた無関心も、マリスに向けられた溺愛もなかった。ただ、底なしの飢餓感だけがあった。
「おお……アメリス……我が最高傑作……」
お母様――テレースが、ひび割れた唇で笑った。
「戻ってきてくれたのね。さあ、こちらへいらっしゃい。お前がその身を捧げれば、全てが完成するのよ」 「断るわ!」
私はきっぱりと言い放った。
「私は誰かのための器じゃない! アメリス=ロナデシアという一人の人間よ! あなたたちの野望のために、この世界を、私の大切な人たちを犠牲になんてさせない!」
「愚かな……。我々には『力』が必要なのだ。他国に脅かされぬ、絶対的な力が!」
お父様――バルトが叫ぶ。その声には、弱小貴族として生き残るために心をすり減らしてきた、哀れな男の悲哀が滲んでいた。
「力なんて、そんなものに頼らなくても手に入るわ! 仲間を信じ、手を取り合う力があれば!」 「綺麗事だ! 力こそ正義! 支配こそ安寧!」
両親の叫びと共に、魔法陣が輝きを増す。 巨大な重力が私を吸い寄せようとする。これが、本命の儀式。
「きゃあああっ!」
マリスが吹き飛ばされ、柱に叩きつけられて気を失った。 私一人だけが、魔法陣の中心へと引きずり込まれていく。
「くっ……!」
必死に床に爪を立てるが、止まらない。 目の前には、漆黒の闇が口を開けている。あの中に入れば、私は消える。アメリスという存在が消滅し、魔王が降臨する。
(ダメ……引きずり込まれる……!)
意識が遠のきかけた、その時。
『――まったく、世話が焼ける子ね』
脳内に、あの声が響いた。 夢の中で出会った、もう一人の私。淫魔の衣装を着た、ドッペルゲンガー。
時間が止まったような感覚の中、彼女は私の前に現れ、呆れたようにため息をついた。
『あんた、自分が何者かまだわかってないの?』 『私は……アメリスよ』 『そうよ。でも、ただの人間じゃない。あんたは、魔界の王族の魂を宿して生まれた突然変異。両親が求めていた「器」そのものにして、すでに中身が詰まっていた「完成品」なのよ』
彼女はニヤリと笑った。
『あんたの不器用さも、ドジも、魔法が効かないのも、全部あんたの魂が強大すぎて、人間の体がついていけてないからよ。……認めなさい。自分の中の怪物を』
彼女が手を差し出してくる。
『力を貸してあげる。その代わり、約束しなさい。その力で、あんた自身の「欲望」を叶えるって』
私の欲望? 私の望みは……。
『……私は、みんなと笑って暮らしたい。ヨーデルと美味しい野菜を作って、ロストスたちと商売をして、姉妹で喧嘩して……そんな当たり前の明日が欲しい!』
『……ぷっ。相変わらず安っぽい欲望ね。でも、悪くないわ』
彼女は私の手を取った。
『いいでしょう。契約成立よ、アメリス』
カッ!!!!
私の体から、眩いごとき紅蓮の光が噴き出した。 闇を切り裂く、真紅の魔力。 私は床を踏みしめ、魔法陣の引力に抗って立ち上がった。
「な、なんだその光は!? あり得ない、器が覚醒しただと!?」
両親が狼狽える。 私はドレスの裾を翻し、二人を見据えた。
「お父様、お母様。あなたたちの教育方針には、以前から不満がありました」
一歩、前へ。
「子供を道具扱いすること。姉妹を比較して傷つけること。そして何より……」
もう一歩、前へ。 溢れ出す魔力が、私の拳に収束していく。
「私の大切な人たちを巻き込んだこと!! お説教の時間ですッ!!!」
私は跳躍した。 ヒールが壊れ、裸足になっても止まらない。 魔力を込めた右ストレートが、空間ごと魔法陣の核を打ち抜く。
「これが! 私の! 全力だぁぁぁぁぁぁッ!!!」
パァァァァァァァァンッ!!!!
世界が白く染まった。 魔法陣がガラスのように砕け散り、黒い奔流が霧散していく。 両親の絶叫と共に、異界への門が強制的に閉じられていく。
◇
「……ん……」
気がつくと、私は瓦礫の上で寝転がっていた。 空には、美しい朝焼けが広がっている。黒い霧は晴れ、澄んだ空気が満ちていた。
「アメリス様!」 「アメリス!」
駆け寄ってくる足音。 ボロボロになりながらも生き残ったヨーデル、アルド、ローナ。 そして、マリスと、後から追いついてきたアサスお姉様、ロストス、ルネ。
みんな、無事だった。
「よかった……みんな、無事で……」
安堵と共に、力が抜けていく。 ヨーデルが私を抱き起こし、力強く抱きしめてくれた。泥と汗の匂いがする、安心する匂いだ。
「終わったんですね、アメリス様」 「ええ……終わったわ」
少し離れた場所には、魔力を失い、ただの抜け殻のようになった両親が倒れていた。 二人はもう、二度と目覚めることはないかもしれない。あるいは、目覚めたとしても、全ての記憶を失っているかもしれない。 その処遇は、これから私たちが決めなければならない。
「……これから、忙しくなりますわよ」
アサスお姉様が、眼鏡を直しながら言った。
「屋敷の修繕費、兵士への補償、マスタールへの賠償……計算しただけで頭痛がしますわ」 「ふん、手伝ってあげるわよ。私の人脈を使えば、寄付金くらいすぐ集まるわ」
マリスが強がりを言いながら、お姉様の隣に立つ。
「僕たちも協力しますよ。アメリスさんには、大きな借りができましたからね」
ロストスがウィンクをする。
私はみんなの顔を見渡し、満面の笑みを浮かべた。
「ええ、やりましょう! 私たちの、新しい国作りを!」
立ち上がろうとした、その時。 ぐぅ〜〜〜〜。 盛大な音が、私のお腹から鳴り響いた。
一瞬の静寂の後、全員が吹き出した。
「あはははは! やっぱりアメリス様だ!」 「最後の最後で締まらないなぁ!」 「もう、恥ずかしい……!」
私は真っ赤になって顔を覆った。 でも、その隙間から見える世界は、今まで見たどんな景色よりも、輝いて見えた。




