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「すみません。その……」
恐る恐る掛けた声が小さくなってしまった。場合が場合でも、相手が上司では実際、明日からが面倒だろう。
しかし係長は「ふん」と鼻で返事をしただけで、事務的な動作でプラスチックのボックスを出し、中からビニールの袋に入った茶色の物体を取り出した。
「これが、犬の骨だ」
犬の骨は長さ十二インチ(約三十センチ)程度だった。ルイスがキャシーを目撃したときには、大きさまで確認するゆとりがなかった。
「思ったより、小さいな」
冷静な声で三春が呟き、密封された袋を開けた。巨大な三春の手に、犬の頭骨はすっぽり入った。
「役に立つかい?」
「何とか、役立ててみせます」
勢いよく頷いてみせたものの、自信は今一つだ。
係長が上司に鉄拳を振るってまで都合してくれた骨が役立たずだったら、NAUの株が下がる。もうすでにスコット刑事には「ガセネタ」と怒られたし。
「このヒト、ウンともスンとも言わないね。ご主人様は、唄ったり、物音を立てるのにさ」
先ほどの殺気はどこかへやった三春が、顔の前に犬の骨を持って、矯めつ眇めつしていた。
「すぐには反応しないだろう。とにかく、タールピットに持って行こう。サラはラ・ブレアのピットって言ってた」
ルイスも、犬の骨があまりにもただの物体のようで、内心不安になっていた。しかし、外に方法も思いつかない。
三春はまだ犬に顔を近づけて、「協力してくれるかなあ?」と猫撫で声を出したりしていた。
少々気持ちが悪い。だが、ピクリとでも動けば、大いに期待は持てる。隣で係長も息を詰めて三春を見ていた。
四、五分も撫でたり声を掛けたりしていたが、犬の骨は何の反応もしない。三春は、まるで、ただの怪しい人だ。思案顔になった三春が、再度、犬の骨に顔を近づけた。
「お前のご主人様の仕事だろ。協力しないなら、そんな役立たずは食ってやる」
本気で脅しつける風に怒鳴って、骨に噛み付こうとした。アスファルトの味がするんじゃないかと思った。
ところが、三春は次の瞬間「ぐわっ」とも「どあっ」ともつかない奇声を上げて、骨から口を離した。
「やった」
半分渋い顔のまま右手をルイスに向ける。
手の中で犬の骨がカタカタと震え、欠けた歯を鳴らしていた。
「いい子だ。ご主人様の仕事をするんだぞ」
三春が嬉しそうに額の辺りを撫でる。隣で係長の口が、大きく0の字に開いていた。
ラ・ブレアのタールピットまでは、七マイル(約十一・二キロ)で、徒歩では時間が掛かり過ぎる。ルイスは係長に縋った。
「あれこれ頼んで申し訳ありませんが、バイクを一台、貸してください」
黒と白のポリスカーでは目立ちすぎるが、警察のバイクは車ほどではない。
部外者への貸し出しについては、半ば自棄気味に了承してくれた係長は、行き先がラ・ブレアだと知ると、ひどく複雑な顔をする。
ウェスト・ハリウッド保安官事務所ステーションから包囲網を突破して出た保安官補佐官たちと、追撃するビバリーヒルズ市警、FBI連合軍の市街戦になりつつあると説明した。
何を聞かされても、延期できる状況ではなかった。「じゃあ、明日」とでも言えば、さっきのスーツ男と同じになってしまう。
NAUの軽率コンビの軽はずみぶりを発揮するときだ。
「大丈夫ですよ。何とかなりますよ」
首を振り振り係長は、ルイスたちを連れて車庫に降りた。
バイクを貸すよう頼んだ時は、全く考えていなかった。
しかし、警察のバイクが後部に人を乗せる事態が想定して設計されている訳がなかった。スタイリッシュなシートの後ろは、プラスチックのカバーが掛けられた物入れだ。
ドイツのメーカーの大きなバイクを前に、ルイスは考え込んだ。運転自体は全く問題ないが、三春をどこに乗せればいいのだ。
「念のために聞くけど、バイクの運転ができる、なんてことは?」
「原付なら」
大真面目で三春は答えたが、三春の巨体に乗られる原付は、さぞかし重労働だろう。ともかく、一人一台で行く案は消えた。市警に原付はないし、自転車で行くよりは、三春の尻に二十分ちょっとの苦行を強いたほうが早い。
ウインド・ブレーカーを敷いて、二百パウンド(約九十キロ)ほどもありそうな三春が腰を下ろすと、後部のプラスチックは、みしり、と嫌な音を立てた。
係長には聞こえなかったか、あるいは、聞こえなかったふりをしてくれた。
「気を付けて」
「はい。お約束通り、無線には触りませんから」
係長に見送られ、重量オーバーのバイクをルイスは慎重に操ってファースト・ストリートに出た。
やはりバイクにして正解だ。車通りはない代わりに、地割れがあったり、割れた窓ガラスが散乱していた。
路上駐車の車が地震でずれたらしく、大きく車道に出ている。パニック映画で見られる光景だけれど、現実なのが嬉しくなかった。
通常なら、一度、北西に向かってからウィルシャー・ブールバードに入って直進すれば、ペイジ博物館とラ・ブレア・タールピットに着く。ウィルシャーは道幅が広い大きな道路だから、アスファルトや地割れの被害があっても、すり抜けが可能だろう。
すでにヘンダーソン刑事と一緒に経験した狙撃手や、ウェスト・ハリウッド保安官事務所ステーションの問題がなければ、良いルートだ。
ルイスは考えた末、ウィルシャーではなく、平行して西に走っているサード・ストリートを通る予定にした。細い道でもない。サードに曲がる際に、「曲がるよ」と三春に声を掛けた。
ルイスたちは警備中隊から借りたヘルメットを被ったままで、フルフェイスではない。しかし、防弾なのは心強かった。
サードに入ってすぐ、三春が右手をルイスの背中から離して、三春の腹の辺りを探り出した。一瞬、尻ポケットにねじこんだ物がバレたかと思ったが、違ったようだ。
「何やってんだよ。ちゃんと掴まってないと、危ないよ」
スピードを落としてはいるけれど、地割れ、アスファルト、攻撃のために、いつ急ハンドルを切るか分からない状況だ。
「いや、それが、変なことになってて……」
返事は歯切れが悪く、三春にしては珍しく焦っているようだ。
「どうしたのさ? 停めようか?」
「停めなくていい。このワン公、俺の手に貼りついちゃった」
「はあ?」
停めなくていいとは指示されたが、ルイスは思わずブレーキを掛けた。
まだ韓国街にも入っていない。ラ・ブレアには、韓国街の北側を通って行くルートだった。
外に車がないのを良いことに、ゆっくり路肩に寄せて停まった。三春は左手だけを使って降りた。
「ほら、見てみ」
差し出された右手の上には犬の頭蓋骨が載っている。三春が掌を下に向けても、全く動く様子がない。本当に接着剤でくっ付けたようだ。
「さっき食べる真似をしたからだよ。懐かれちゃったんだ」
「タールピットにつけたら、離れるかな? それでも離れなかったら、どうすりゃいいんだ?」
誰にともなく訊いて、三春が左手でバイクを指差した。一刻も早くタールピットに行くべきだろう。
「サラが来れば、色々と分かるよ、きっと」
気休めを口に出してみたものの、サラはいつ来るのか、ロサンゼルスまで辿り着けるかは、全く分からない。
ルイスの背後に再び三春が、物入れを軋ませて跨った。
低速で走るバイクは、間もなく韓国街に入った。南側は韓国街、北側はメキシコ系やバングラデシュ系が多いエリアだ。日ごろは活気のある街が、不気味に静まり返っていた。
遠くで消防車のサイレンの音がしていた。交差点の信号は、もう機能していない。
ふいに道の左側から「おおい」と呼ぶ声がして、ルイスはスピードを緩めた。歩道で黒い影のような物体が三体、ゆらゆらと動いていた。
息を呑んだルイスの肩を三春が背後から叩いた。
「ビビるな。人だよ。アスファルトを被っちゃったんだよ」
指摘されてよく見ると、顔の部分は若干だが肌色が覗いていた。しかし、ほとんど老若男女の区別もつかない有様だ。
天然アスファルトが肌に付いても、すぐに人体への害はない。恐ろしいのは、一緒に噴出するメタンガスだ。
「大丈夫ですか? ダウンタウンまで行けば、警察本署は機能してますよ」
係長に殴られたスーツは消防署が管轄だと口走ったが、今、消防署がどの程度まで動いているのかは、分からない。
ルイスの言葉に、「おお」と驚きとも溜息ともつかない声を洩らした相手は、手を振って「危ない、あっちに行くな」と、渋い声を出した。訛りからすると、韓国系の男性らしい。
「急に、この黒いドロドロが出て来た。波に捕まると、終わり。一人、やられた」
男性の言葉の後半に、残りの二人から泣き声が加わった。一人は女性のようだ。
どういう状況だったか分からないが、突如「波」のように襲ってくる天然アスファルトは、想像を超えていた。
「お気の毒です。ご忠告、ありがとう。私たちは、どうしても、ラ・ブレアに行かなくてはならないので。気を付けて、ダウンタウンに向かって下さい」
どうしても、の部分に力を込めると、相手は何か韓国語で、ぼそぼそと言い合いながら、またゆっくり歩き始めた。ルイスもバイクを発進させた。
韓国街から先はさらに道が悪かった。突然アスファルトが噴出することはなかったけれど、大きなコンクリート片が転がっている場所も、少なくなかった。
普段なら二十分で着くルートに軽く四十分以上も掛け、バイクがサード・ストリートとラ・ブレア・アベニューの交差点に近付いたときだ。
ガガガッと炸裂音がして、道路のコンクリートが弾けた。
発射した相手を確認する余裕はなかった。ブレーキと急ハンドルで、ルイスは左手の路地に飛び込んだ。車がすれ違えるかどうかの、狭い通路のような道だ。
「交差点のスーパーの上から撃って来たぞ。ウェスト・ハリウッドの連中だろ」
後ろから三春が叫んだ。
ルイスとしては、路地が行き止まりだったり、建物の倒壊で塞がれていない状態を祈るばかりだ。
数秒後に北側のフォース・ストリートらしい道が見えてきたのと、背後からエンジン音が聞こえてきたのは、同時だった。
フォース・ストリートに出ると、道の向こうにまた同じ路地が続いていた。見通しのよいフォース・ストリートに曲がるのは恐ろしくて、ルイスはフォースを横切って路地に入った。
何とか路地がウィルシャー・ブールバードまで続いていないものか。ウィルシャーに着けば、タールピットは目と鼻の先だ。
やけくそでルイスはスピードを上げ、続いて出たシックス・ストリートにも曲がらずに、路地を辿った。
路地はいよいよ細くなって舗装が悪く、タイヤから来る振動も大きかった。大丈夫かと心配した目に、大きなビルが行く手を塞いでいる光景が入った。
万事休すかもしれない。だが、左側が明るい。低い建物なら徒歩で乗り越えられると、心を励ました。
路地は行き止まりではなく、九十度で左右に分かれていた。咄嗟に左折し、すぐにぶつかった道を右折する。数ヤード先は、もうウィルシャー・ブールバードだった。
派手にタイヤを鳴らして、ウィルシャー・ブールバードに出た。
半マイル(約八百メートル)ちょっとで、タールピットだ。後ろで同じようにタイヤが鳴ったのを聞きながら、ルイスは思い切ってスピードを上げた。
しかし、一ブロック一ブロックが後ろに遠ざかるのが、泣きたいほど遅い。
あともう数ブロックと思ったときに、肩の脇にスタンガンを当てられたような衝撃が来た。弾が掠っただけだが、拳銃とは威力が違う。姿勢を低くしようとして、すぐ思い直した。できるだけ身体を倒さずに、顔だけ下に向けた。
「三春、伏せろ」
撃っているポイントは、前方の交差点にある建物だろう。反対車線に飛び出したいが、生憎と大きな中央分離帯があって無理だ。目いっぱいスロットルを開けて交差点に近付き、フルスピードで反対車線に飛び込んだ。
胸と肩に凄まじい衝撃があったけれど、ルイスにしがみ付いている三春の腕がびくっと震えた振動が何倍も恐ろしかった。
「三春?」
「平気だ」
狙撃のポイントは抜けたが、背後からはエンジン音が続いている。しかし、ペイジ博物館に面しているカーソン・アベニューの交差点は、すぐそこだ。右手前方にパームツリーや博物館の建物が見えた。
息を吐きそうになったが、後部車輪に衝撃が走った。たちまちバランスが崩れた。立て直そうにも、後部タイヤを撃ち抜かれたらしく、嫌な感触が響いてくるだけだ。
投げ出されないようにして、ルイスは必死でハンドルを真っ直ぐ保とうとした。しかし、道路の状態が許さずに、バイクが横滑りする。瞬きほどの間に、バイクはコントロールを失って路肩に流れ、路上駐車の群れに突っ込んだ。
スピードが多少は落ちていた点が、せめてもの救いだった。
ルイスが激突した業務用バンの横腹は、見事に凹んだ。当たったときに左膝を打ち付け、それから上半身がバンに叩きつけられた。
しかも三春の上半身とバンの間に挟まれる形で、一瞬、呼吸が止まった。
「ごめん、ルイス」
「謝ってる場合じゃないぞ」
咳き込みながらも、何とかバイクから離れた。左膝に力が入らないので、折れたかもしれなかった。
幸い、三春は動作に問題はなさそうだ。ただ左の肩からは派手に血が出ていた。犬の骨につけないように、右手を離している。
近付いて来た三春が口を開こうとしたとき、足元で噴出音がしてコンクリートの破片が飛び散った。身体を反らそうとして、踏ん張りが利かず、ルイスは左足から地面に崩れた。
路上に手を突いたルイスの上に、びしゃびしゃと音を立ててアスファルトが掛かった。大した量ではないが、こうやって市内の至るところでアスファルトが噴き出しているわけだ。
「俺は歩けない。三春、ここから先は、一人で行って」
見上げた三春の額は、今の破片が当たったらしく額から血が出ていた。降りたときにヘルメットのバイザーを上げたせいだ。いよいよフランケンシュタインそのものだ。
三春の向こう、今来たウィルシャー・ブールバードの方向からは、バイク以外に車も見えた。
ルイスは右手で尻ポケットを探った。ヘンダーソン刑事の机から失敬して来た拳銃は、落ちずにあった。
かつて祖父と過ごした期間、熱心に教えられたのは、射撃だ。サンディエゴで過ごすときは、祖父と射撃場へ日参した。今はもう興味はないけれど、教えられた内容は覚えている。
たかが拳銃一丁で、マシンガン装備の連中を止められるわけがない。しかし、少しくらいの時間は、稼げるだろう。
「早く行けよ」
言いながら、ルイスはペイジ博物館をちらりと見た。正面ゲート付近に生えていたはずの木がなくなって、タールピットまで見渡せた。
タールピットも溢れて大きくなっているし、地震のせいか、周囲に建てられていた柵がない。三春の仕事は難しくないはずだ。
「手の皮が破れてもいいから、犬の骨を外して、ピットに投げ入れればいいよ」
「外せないみたいだ。こいつ、一緒に行く誰かが必要らしいよ。俺なら適任」
聞き返す時間はなかった。近付いて来た連中が撃った弾丸が、路上に倒れたバイクに当たった。
「じゃ、行くよ」
三春が巨体を翻すと、すごい勢いで遠ざかって行く。走りっぷりは、フットボールのランニングバックも顔負けだ。
ルイスは頭を振って、身体の向きを変えた。三発、立て続けに走って来るバイクに向けて撃ち、右足で飛んでバンの陰に回った。予想した通り、連中は進むのを止めて、止まった位置から狂ったように撃って来た。
突如、中央分離帯のパームツリーが抜けて飛んだ。
道路が大きく割れて、黒い壁が立ち上がった。まるで動物が伸びをするように、滑らかな動きで見る見るうちに左右のビルよりも高くなった。
アスファルトが街を呑もうとしている。
なす術もなく凍りついたルイスの耳に、三春の声が遠く響いて消えた。多分「美紗子」と叫んでいた。
黒い壁の動きが止まった。
次の瞬間、壁は、ただの液体になって流れ落ちた。幸い、ほとんどが蜂起軍側へ降り注ぎ、ルイスに掛かったのは、飛沫程度だ。
蜂起軍の連中が動きを止めている間にと、ルイスは真っ黒な路上を這うようにバンの陰から出た。
三春は「外せない」と説明したし、叫び声は聞こえた。けれど、もしかしたら犬の骨は手から無事に離れたかもしれない。三春とペイジ博物館か、郡立美術館に逃げ込んで、明日の軍介入を待てるだろう。
最初、動く度に痛みが走っていた左膝は、感覚がなくなってきた。地団駄を踏みたいほどゆっくり、ルイスは博物館に近付いた。
ウィルシャー・ブールバードから見えるタールピットは水位が上がり、道路に溢れんばかりだ。道路沿いの柵が壊れた部分から、ルイスは博物館の敷地に身体を押し込んだ。
タールピットは静まり返っていた。天然アスファルトの臭気だけが強い。
水面の漣が、しだいに小さくなっていた。
さっき、大きなパームツリーが根こそぎ飛ばし、道路を音を立てて割った天然アスファルトが、まるで別の物質だ。犬の骨は、間違いなく有効だった。犬を連れていたのは。
「みはるーっ」
精一杯の声を上げたルイスに、返事はなかった。
全身の力が抜けて、ルイスはパームツリーの根方にへたり込んだ。あれほどスティーブやジョセフが心配したのに、三春を無事に帰すことができなかった。
あまりにも静かな水面を、ルイスは、ただ見つめた。
どれくらい放心していたか分からなかった。やがて、大きくなっているタールピットのほぼ中央に泡が浮き始めて、ルイスは我に返った。
元々タールピットに湧くメタンガスならいいが、別のトラブルならばお手上げだと思いつつ、凝視する。
泡に続いて、何かが下から上がって来ようとしていた。
マンモスですら足を踏み入れたら抜けられないタールピットで、浮き上がるのは気体であるガスがせいぜいのはずだ。確かに以前、動物の前足のようなものが出るのを見はしたが。
タールピットの物体は、以前に見た前足とは違って、ゆっくりと上がり、水面に形を現した。大きなスクラップか、ごみの塊のようだ。
スクラップが、徐々に岸辺に向かってくる。水面の辺りには、びっしりと虫らしき物が付いていた。
黒いタールの上を、少しずつ近づく奇妙な物体からルイスは目が離せなかった。次第に大きくなる物体が、ルイスの脳内で形を結んだ。
スクラップは身体を横にして丸まった人間で、虫だと思ったのは、何百もの人間の手だった。人の手がタールピットの中で、人の身体を支えて運んでいた。
あり得ない。
瞬きもせずに見守るルイスの前に、ついに物体が着いた。
まるでルイスがいるのが見えていて、運んで来たかのようだ。岸辺と水面はほとんど段差がない。手たちが運んで来たものを押し上げる動作を、ルイスは夢中で手伝った。
手が仕事を終えて次々と離れて行く中、ルイスは一本の細い手が、運ばれた人間の手をしっかりと握っているのに気が付いた。
身体が岸辺に上がる最後の一瞬、細い手は力を込めて相手の手を握り、静かに離してアスファルトの中に消えた。
同時に、岸辺に上がった人間が、ごほっと大きく噎せた。
何度も苦しそうに咳をして口からアスファルトの混じった唾を吐く三春の顔を、ルイスは泣きながら、上着で拭った。
「意識が途切れたと思ったら、たくさんの人の気配がして」
途切れ途切れに三春が口を開いた。
「ずっと昔、ここに住んでいたネイティブかな。なんか懐かしい感じがしたけど……」
言葉が出てこないルイスとの間に、沈黙が落ちた。三春が言葉通り、あの手は、かつてのネイティブの魂だろうか。
実は今までにも、タールピットに落ちて助けられた人がいたかもしれない。では、最後まで三春の手を握っていた細い手は、なんだろう。
ふいに三春がぐっと喉を詰まらせた。近寄ろうとするルイスの手を払って、三春が泣いた。
「俺は、こんな風に助かるつもりなんて、なかった」
拭いても黒い顔に大量の涙を溢れさせて、三春は咆哮し、地面を叩いた。
タールピットに飛び込んで全てを終わらせる気になっていた三春は、もう大丈夫と言いながらも、大丈夫じゃなかった。
「これで、これで胸を張って皆のところに行けると、思ったんだ。俺は、美紗子に会いたいんだよ」
後は言葉にならず、泣いて日本語で何か喚く三春の背中を、ルイスはただ撫でた。さっき見た細い手の話もしてやりたかったけれど、そうしたら三春は今すぐ、またタールピットに飛び込みかねないだろう。
手の持ち主が誰でも、三春に生きていて欲しいのに違いなかった。
三春が落ち着くまで、蜂起軍が現れなかった事実は、本当に幸運だった。もしかしたら、連中もアスファルトの変化を感じ取ったのかもしれないが、油断は禁物だ。
ルイスの銃には残弾が少ないし、ただでさえ、歩くこともままならない。今になって気が付いたが、肩からも出血していた。
「さっき、犬と繋がってアスファルトに飛び込んで分かったんだけど」
今は半分ぐらい魂が抜けたような三春が、ぼそりと口を開いた。
「犬だけじゃ、アスファルトをずっと抑えられないんだ。今は、とりあえず頑張っているけど、早くLWを連れてこないと、アスファルトが勢いを盛り返すよ」
「どれくらいの期間? だってLWは、人の血を被ったかもしれないんだぜ」
犬が長く保たないとなると、何としてもスティーブと連絡が取れない状況が痛い。
ルイスは奇跡的に無事だった携帯を取り出した。見事にアンテナは一本も立っていなかった。念のために確認した三春の携帯は、さすがに本当のスクラップと化していた。
「スティーブに連絡を取らなきゃならないけど、俺たちもずっとここには、いられないな」
タールピットの手たちの意思もあった。せっかく助かった三春の命は永らえさせてみせる。笑顔を三春に向けたルイスは、近付いて来る数人の足音を聞いて、銃を取り出した。
三春は走れるはずだ。