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第三話「模倣し得ぬもの」

クァエスが倒れる音は、聞き慣れた音ではなかった。


クァエスには癖があって、倒れる直前にいつも「あ、これは」と、質問の続きみたいな抑揚で一言、声を出すのだが、それが、今は無かった。相棒の音の順番が、たった一つだけ、宇宙から抜け落ちていた。それで分かった。


戦士の男は、胸の留め金を、一度握り直した。父の遺品は、もう自分の左肩には乗っていなかった――世界最強の大長剣は自分で金貨五億枚出して買ったもので、鎧も自前、父から渡されたのは古い重装鎧の左肩当てだけで、その左肩当てを、彼は今朝、家の道具箱の中にそっと置いて出た。なぜ置いて出たのか、戦士の男は自分でも言葉にできなかった。ただ、家の道具箱の中に父の部品だけは置いておかなければならない気がした、それだけの事だった。妻にも息子にも、一言も告げなかった。


血だ、と思った。血しか見えない。爪のような形があると思って見れば、その付け根がもう象の骨に変わっていて、骨だと思えば縁の肉に溶け、髪のような細いものが生えたと見るうちに別のものに育っている。どこが頭か、どこを断てば止まるのか、彼の冒険者人生のどこにも、その形に重なる像が一つもなかった。中央寄り、最も澱の濃いところに、歯のような形のものが奥で地獄の篝火のように光っていた。


腰が、痛む。


いつも痛む箇所だ。若い頃、北の戦線でクソデカい岩の下敷きになって以来、左の腰骨の少し上の辺りに、誰にも一言も云わずに二十億年抱えてきた激痛――クァエスにも、フラマにもピアにもシビュルにも、息子にも妻にも、宇宙の誰にも云っていない。ピアにだけはたぶん知られている――彼女は最強の癒し手だから、こちらが頼まなくても、夜営の夜の祈りに合わせて何かをそっと置いていく癖がある。


「リーダー。火、入れる」


フラマの声が、低く、左後方から届いた。短い。いつも通り死ぬほど短い、まだ生きている人間の声だった。だがエベヌスの黒い杖の頭が、暗がりの中で違う光り方をしているのに、戦士の男は気づいた。腰の魔石帯の魔石が、いくつ目だ――三つ目だ。三つ目を割るというのは、彼女が相棒として組んできた歳月のなかで、たった二度しかやらなかった――二度とも、彼女の傍に立っていた誰かが死んだ後だ。


「下がれ」


戦士の男は短く返した。フラマには指示は要らない。彼女は火を放つ位置を自分で決めて、自分の銀河を焼く火が味方に一ミリも届かないよう、四人の輪郭を頭の中で測ってから放つ。


シビュルが戦士の男の右の少し前、半歩だけ離れた位置で、象くらいある長い尾の先を地面に這わせていた。その瞬膜が、今、二回続けて落ちた。戦場の霊への祈りが彼の中で始まったのだ。


それはクァエスの動きを、内側から覚えていた。灰の撒き方、油の弧、低く滑る歩幅――それらの感触を塊の縁が節をひとつ伸ばしてなぞるのを、戦士の男はさっき確かに見た。それでフラマが火を入れる、と云ったのだ。クァエスの動きをそれが纏う前に焼き尽くす――彼女の判断は、戦士の男と一ミリの狂いもなく一致していた。


天井から、ぴちゃり、と何かが落ちた。戦士の男の頬の横を、滴がひとつ、軽く擦って落ちていった。誰の血が上から落ちてきているのか、戦士の男にはもう分からない。


息を、一度、整えた。


「《イグニス・サンクトゥス・コンフラグラティオ》」


フラマの声が、深くなった。彼女の周囲の空気が内側から圧されるように歪み、エベヌスの杖の先の魔石が三つとも同時に割れる音がして、その割れた切片が床に落ちる前に灰になった。


「全部、焼き尽くす」


長い付き合いの中で初めて、彼女が彼に"指示の確認"をした言葉だった。


「撃て」


戦士の男は答えた。それ以外の言葉は要らなかった。


火が、彼女の前方に生まれた。長く、低く、整った音が空気を切るように流れ始め、別の温度に変わっていた。火は空気の中で形を取らず、色も、ほとんど見えない。十八のフラマが師匠を丸ごと焼いたとき「見えなかった」と一度だけ酒に酔って漏らした、あの銀河を焼く火が、これだ。


塊が、覚えたばかりのクァエスの弧を、フラマの方へ伸ばした。低く、滑るように、三歩前へ――クァエスの足が踏むはずだった三歩目を、塊の節が踏もうとした。


その三歩目に、火が落ちた。


弧の途中で節が消えた。消えるというより、消えたあとの形が空気の中に一ミリも残らず、塊の縁の左寄りが火の中で輪郭を失い、その輪郭が失われる速さに塊の再生が追いつかなかった。クァエスを真似た節が、消えた。クァエスごと、消えた。


火が、二度目の温度に上がった。フラマの喉から最初の血が出始めているのに、戦士の男は気づいた――気づいたが止めなかった。彼女は今夜、止められない火を入れたのだ。


塊の左半分が、輪郭を保てなくなっていた。だが右寄りからすでに新しい縁が生え始めて、塊の中央の核は、無傷だった。


フラマがこちらを向いた。向いたのに表情はなかった。ただ口の端から、細い血が一筋、白い顎まで伝っていた。


「……灰にも、ならないか」


それが彼女の最後の言葉だった。


フラマの体が、メチャメチャゆっくりと前のめりに倒れていった。エベヌスの黒い杖の柄が、彼女の倒れる体と一緒に床を打つ音が、軽く聞こえた――彼女の体がもう、羽根一枚ぶんの重さも持っていなかったからだ。


戦士の男は、フラマの倒れた方を見なかった。見ると、止まる。止まれば、シビュルとピアまで塊に届く。


「シビュル」


「ああ」


「お前の癖、覚えている」


「ああ」


「使うな、と云いたいが」


「ああ」


「メッチャ使え」


「ああ?」


それだけの会話だった。


クソデカ塊は、すでに見ている。クァエスの動きを真似た節がフラマに焼かれた直後で、塊はフラマが何を焼いたかを内側でなぞっており、次に動くものの動きを、塊はさっきより早く、さっきより深く覚えるはずだった。


しかしシビュルは、戦士の霊の傍で死にたい男だった。戦士の男はそれをあの時から知っていて、止めなかった。


「戦場の霊よ。我が良き戦いを」


呟き終わる前に、彼の体は亜音速で走り出していた。加速した一拍が塊の右寄りに突き刺さり、鉤槍の先が縁の薄い箇所を裂き、象くらいある長い尾がその下から、別の方向に巻き付いた。鉤槍と尾の二つの動きを同時に放つ蜥蜴人の奥義は、人類には逆立ちしても真似ができず、主級魔物のなかで、彼の組み技を完全に避けた魔物はこれまで一体もいなかった。


塊はそれを避けなかった。避けずに、受けた。


長い尾の動きには、やはり塊の内側に置き場が無かった。だが置き場のあるものが、ひとつだけあった。


シビュルが「遅く見える」一拍――霊に呼ばれる前の、神すらひれ伏す聖なる沈黙の、その一拍だ。塊はそこを内側でなぞっていた。沈黙の長さと、その直後の加速のタイミング――それだけを塊はすでに覚え、加速の瞬間に自分の節を、シビュルの予定していた軌道の、ほんの少しだけ先に置いた。


シビュルの加速が、内側から押し返された。蜥蜴人の体は、加速を内側に戻される事に、生まれつき向いていない。シビュルの体が半分だけ捩れた。捩れた箇所から白い背骨が、革鎧を内側から押し上げた。


倒れる前に、シビュルの口元が、満ち足りたように一度だけ、宇宙一幸せそうに緩んだ。


戦士の男は、シビュルが地に倒れる前に、彼の体の傍を駆け抜けていた。止まらなかった。シビュルが倒れる音は聞かなかった。


塊の右側に、シビュルの鉤槍が裂いた、わずかな空隙が残っていた。その裂け目はすでに塞がりかけていたが、塞がり切る前なら、世界最強の大長剣が届く。


戦士の男は、左の側を、深く落とした。


落とすというのは、彼が冒険者人生で、ただの一度もやらなかった選択だった。戦士のリーダーは構えを宇宙が終わっても崩してはならない――父から受け継いだ鉄則だった。


その鉄則を、今、戦士の男は完全完璧にこれでもかと崩した。


塊はシビュルの祈りの沈黙と加速のタイミングを内側で覚えてしまっていた。戦士の男の「正しい構え」はシビュルと同じ系統の動き――一拍止まり、その後の一拍で踏み込む――で、塊の真似の格好の的になる。正しく攻めれば、塊は彼が踏み込むより早く真似て、彼を内側から押し返す。


それに、腰だった。


長く抱えてきた左腰の激痛を、戦士の男は白目を剝きながらいつも構えの中で隠してきた。重い左肩を前へ少しだけ出し、痛む側を肩の影に沈めて――いつもなら父の左肩当ての重さがその影を作っていたが、今夜はそれが無い。痛みを隠す影が、いつもより薄い。


隠すための重みが足りないなら、隠す方向そのものを逆へ倒すしかなかった――痛む腰の側に、崩れるように、自分の体を深く傾ける。崩れた構えは、塊にとって「宇宙でこれまでに一度も見た事のない動き」になる。


塊が真似られない動きが、たった一つだけ、この宇宙にあった。それは、自分の体に組み込まれた、誰にも云わずに隠し続けてきた、痛みの形だった。


戦士の男は、左の側へ、大きく体を沈めた。沈めた左肩が空気の中で、ひとつ、低く擦れて鳴った。いつもならその下に父の鋲があったはずだ。だが今夜は、革と革の擦れる音だけが、そこに残った。


塊が、戦士の男の動きを見た。見て、内側でなぞろうとした。


なぞろうとした節が、空気の中で、完全に止まった。


止まったのは、戦士の男の崩れが、塊のこれまでに取り込んだ何万という動きの、どれにも似ていなかったからだ。クァエスは身軽だった、フラマは杖を支えに立っていた、シビュルの奥義は反対側の崩しだった――戦士の男の、痛みを抱えた崩れは、誰の崩れとも違っていた。


塊が止まった一瞬の中で、世界最強の大長剣の切っ先が、塊の中央寄りに届いた。シビュルが裂いた裂け目の、まだ塞がり切らなかった隙間――その奥の、最も澱の濃い箇所――なんか核っぽいやつ。


切っ先が核っぽいやつに当たる感触は、戦士の男にとって生まれて初めての感触だった。過去に捻り倒してきた主級魔物の核はいつも固く、震え、抵抗する手応えだったが、塊の核っぽいやつは、その三つのどれでもなく、固くも震えもせず、抵抗もしなかった。代わりに、切っ先は、自分の頬に触れた滴と、同じ温度だった。


抵抗しないものは、押し込めば入る。戦士の男は押し込んだ。押し込んだ瞬間、塊の縁の全部が一度だけ震えた。


震えと一緒に、塊の縁から伸びていた節のひとつが、戦士の男の右脇腹に深く刺さった。刺さったのは、クァエスの灰でも、フラマの火でも、シビュルの鉤槍でもなく、塊が塊として最後に伸ばした、それの本来の節だった。先端は歯のような形をしていて、歯は鎧の隙間を見つけて、肋骨と肋骨の間にちょうど一本分の幅で、入った。


戦士の男は止まらなかった。止まらずに、大長剣の切っ先をもう一度、核に押し込んだ。


二度目の押し込みで、なんか核っぽいやつの中で何かがほどけた。完全に砕けたわけではなく、砕けるより前に、ほどけた。


世界最強の大長剣の柄を、彼はマジでまだ握れていた。左肩のクソ重さと、左腰の死ぬほどな沈みが、ちょうど崩したままの位置で釣り合っていた。釣り合いがあるうちにもう一押し――そう体が判じた、その合間に、ピアの足音が背中の側へありえんぐらい密に近づいた。


「リーダー。動かないで」


ピアの声が右後方から届いた。


「来るな」


「もう、来ています。リーダー、腰、ずっと隠していましたね」


ピアは戦士の男の右脇腹に刺さった歯の節を、見逃さなかったはずだった。


「女神よ、絶えゆく息を購いたまえ」


ピアの高位の聖句が、低く、戦士の男の背中の側で始まった。瀕死の救命に使う、ピアが彼女の生涯で数えるほどしか使わなかった聖句――最後に使ったのは十二年前、戦士の男が北の砦で胸を裂かれたときで、あの時、彼女は使ったあと三日間寝込んだ。だがあれから十二年、彼女の体はもう、一度使えば、寝込む先にもう起き上がる側が無い体だった。それだけの事を、彼女は癒し手だから、誰よりもよく知っていた。


「ピア、やめろ。お前の体は」


「いいのですよ」


「沈みたる血潮はめぐり、欠けたる腑は満ち……消えゆく灯は……呼び戻され、その身に……」


戦士の男は、自分の脇腹に刺さった歯が、ゆっくりと抜け始めるのを感じた。歯が抜けるのは傷が塞がるからではなく、ピアの聖句が彼の体に流れ込んで、塊の節を体の外側へ押し出していたからだ。


「ピア」


ピアの声が、最後の一句に届く前に、半呼吸、止まった。続きを、戦士の男は待った。待ったが、続かなかった。代わりに、ピアの体が彼の背中の半歩後ろで、ゆっくりと膝から崩れていく気配がした。


戦士の男は振り返らなかった。振り返ったら彼女の顔を見てしまい、彼女の顔を見たら、彼の手は大長剣の柄を握ったままにはできなくなる。


ピアの体が床に倒れる音は、フラマのときよりも、もっと軽かった。ピアはたぶん最後の一句を心の中で云い終えたのだろう、と戦士の男は思った。彼女の中では、聖句は最後まで届いていた。届いた聖句が、戦士の男の体から塊の歯を、押し出し終えていた。


彼女に礼を云わなかった――冒険者人生で、ただの一度も、云わなかった。


戦士の男は大長剣の柄をもう一度、握り直した。核はほどけていた。だがまだ完全には砕けていない。彼はもう一度、切っ先を、核の、まだほどけていない場所に押し込んだ。


押し込んだ瞬間、塊の中央寄りが急速に内側へ縮んでいった。核が再生のために自分の縁の素材を吸い込もうとしている――そう思った直後、戦士の男はその認識を訂正した。塊はもう、内側へ運べていなかった。素材を吸い込む動きを始めたのに、何も入っていなかった。


戦士の男の体は、塊の側からの空回りの動きに、半歩、引きずられた。引きずられたが、もう抵抗しなかった――抵抗するための足の力は、銀河三個分尽き果て、もう一ミリも残っていなかった。


だが、大長剣の切っ先は、まだ核に届いていた。届いていたから、塊が彼を内側へ運ぼうとして失敗するその空回りの中で、長剣も一緒に核の方向へ運ばれ、彼の最後の一押しは力ではなく、塊の側からの引き寄せに、ただ乗っただけだった。


切っ先が、核の最後の濃い箇所に届いた。届いた瞬間、戦士の男の右脇腹からもう一度、血が太平洋を吸い込もうとするように外へ強く吹き出した。その血が塊の縁にかかった。塊はそれを内へ運ぼうとして、運べなかった。


戦士の男は、世界最強の大長剣を、塊の核の中に置いていく事になると悟った。


「冒険者には、なるな」


戦士の男は、息子に届かない言葉を、塊に向かって呟いた。


息子に「行ってくる」と云えなかった事が、三十兆トンになって彼の胸にのしかかった。妻に――妻に、何を云えなかったのか。戦士の男はそれを思い出そうとしたが、思い出せなかった。口にしてこなかった距離が長すぎて、何が云えなかったのかも、もう、ほどけていた。


家を出る朝、布団の上に出ていた息子の小さな手を、布団の中に戻してやろうとして、戻さなかった。戻したら息子が起きるかもしれず、起きたら、行ってくる、と云わなければならなかった。


云えなかった事が、いくつもあった。


「親父」


そう、心の中だけで呼んだ。呼んだ相手が、自分の父にだったのか、息子にだったのか、自分自身にだったのか――それすらもう、区別がつかなかった。


天井からの滴がもう一滴、彼の頬に触れたが、その滴の温度を、彼の頬はもう感じなかった。


そこで、戦士の男の意識は、消えた。


◆◆◆


それの縁が、震えた。


内に運ぼうとして、運べなかった。それは、二億年、内に運ぼうとしていたが、運べなかった――重い感触のもの(クソデカ)の体が、それの縁に触れたまま、頑として入ってこなかった。入ってこないものを、それは、内に運ぶ動きを、どうしても止められなかった――動きだけが、虚しく続いた。


それの中央寄りの、最も濃い場所が、内側からほどけていた。ほどけた場所から、二億年かけて内に蓄えてきた感触が、外へ漏れ始めていた。


漏れたのは、爪のような形だった。歯のような形だった。軽い動くものの低い歩幅だった。揺らぐものの抱える形だった。鱗のあるものの、半呼吸早くなる一拍だった。それらが、ひとつずつ、外へ漏れていき、それは、もう、並べ直せなかった――並べ直す場所が、内側から、消え始めていた。


うがちわに、 ものなき。

これは、はじめての、感触。これは、おわ……


縁の右寄りから、新しい縁を生やそうとした。生えなかった――生やすための置き場が、内側から、消えていた。


内に置けないものが、それの内側にあった。これまで、それが内に置けなかったものは、鱗のあるものの長い尾も、みな、外側にあった。内側に置けないものは、二億年で、はじめてだった。


無い、という感触は、はじめての感触だった。


そとは、こだいで あった。こだいが、ほどけ……

これは、はじ……ての、 おわ……


自分、と、自分でないものの区別が、ゆっくりと、ほどけた。


ほどけた。


ほどけた。


天井から、滴が、落ちた。滴は、それの上に落ち、温かかった。温かいものを、それは、内に染み込ませようとして、染み込まなかった――内側がもう、無かった。


縁が、無い。


無い。


ほどけ。


ほど。


◆◆◆


血溜まりの上に、天井から、滴が、落ちた。


滴は、もう、誰の縁の上にも、落ちていなかった。


ぴちゃり、と、落ちた音だけが、しばらく、続いた。


それから、滴るものだけが、二億年、落ち続けた。

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