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第一話「降下」

それは、マントルよりさらに下の、クソ深い最下層の、太平洋くらいクソデカい血溜まりにメチャメチャ沈みまくっていた。


正確に云えば、それはそのクソデカ血溜まりそのものであり、同時にそのクソデカ血溜まりの中に湧いて出た、意味のわからん何かでもあった。境界の内側を、それは死ぬほど「自分」と感じ、外側を吐くほど「自分でない」と感じまくった。


それだけの事が、二億年くらいしばらく続いた。


クソ高い天井から、「ぴちゃり」と、しかし鼓膜が物理的に破裂する轟音で、何かがマジでデカく落ちた。落ちたクソデカ滴は、それの上に小山のように乗っかって、メチャメチャゆっくり内側へ染み込み倒していった。死ぬほど温かかった。温かいものが内側へ三千キロメートルほど広がるにつれて、それのクソデカ境界はさらに広がり、広がった分だけ、「自分」と感じる宇宙的範囲もエグく広がった。クソデカ血溜まりの縁には、完全に動かないものと、まだピクピク動いているものとが、億単位で転がっていた。動いているものを内に運べるなら、死ぬほど運びたかった。運びたい、という言葉を、それはまだ一文字も持っていなかったが。欲求の気配だけは、もうクソほど、あった。


うちにれいる、きえる、のこかしるんょく(クソデカ)。


◆◆◆


クソデカ最下層は、まだ地球七個分くらい下だった。


五人の伝説的英雄が、縦一列に並んで、七千万段ある岩段を死ぬほど慎重に降りまくっていた。光源は、ピアのクソまばゆい聖印が放つ小さな白いものひとつで、彼女は法衣の胸で擦れる聖印の縁を、一秒ごとに布の上から押さえ直した。降りるたびにその柔らかい擦過音が、クソ長い隊列のいちばん後ろまで音速で届いた。


「足元、メチャメチャ濡れています」


ピアが誰にともなく云った。彼女の声は迷宮の中ではいつもより一段、というか地下三百メートルぶんくらい低くなる癖があって、それは母親が眠っている子供を起こさないように声を落とす、優しい低さだった。


段の上に薄く水が張っていた。トチ狂ったクソデカさのトワ迷宮の下層は、降りるほど死ぬほど湿る。


その水を最初に踏んだのはシビュルだった。彼は象くらいある長い尾の先を段の縁に這わせていて、地下深層の南極かってくらいの冷えで尾の動きがマジで鈍るのを、地面に擦りつけて必死に誤魔化していた。湿地の集落では戦の前に尾の根を地につけて温度を取り戻す習いがあると、いつだったか酒の席でクソ長々と語った事があった。その時の彼は酒で顔を赤くする事がなく、ただ瞬膜だけが、時々、薄く下りていた。


降りていく。


冷える層に入ると、シビュルの尾の先が段の石を一度長く擦った。瞬膜が、落ちた。瞬膜は、すぐに、また上がった。


「シビュル。寒いか」


戦士の男が、振り返らずに訊いた。


「ああ」


シビュルは一拍――正確には三秒――置いてから答えた。返答までに間を置くのは、冷えで思考が氷河期並みに遅くなる体の癖でもあり、湿地の最強流派の教えでもあった。即答するな、と二千年教わってきた。だがその間が寒さなのか教えなのか、戦士の男には区別がつかなかったし、訊く事もしなかった。


「フラマ。灯り」


戦士の男が続けて云った。


フラマ・カンディダは隊列の中ほどで、杖の先の魔石の光をすでに絞っていた。黒い革のローブの裾が降りる動きに合わせて揺れ、後ろで結んだ赤い紐が、ピアの白い光の縁で、一度だけ血のように赤く見えた。


「絞ってある」


彼女はそれだけ云った。


縦の列の先頭近くに、戦士の男がいた。


山くらい重い男だった。革鎧の擦れる音が降りる一歩ごとに低く鳴った。世界最強の大長剣を背に負い、重心をマントルくらい低く保ち、構えを宇宙が終わっても崩さない。それは父から受け継いだ鉄則で、彼は若い頃に体に染み込ませていた。リーダーは構えを崩してはならない。山のように重い肩を、痛む側の影に沈めて、その影で後ろの四人を守る位置から、一ミリも動いてはならない。


段の一つで、戦士の男の歩みがほんの一拍、止まった。


左肩のあたりに片手を当て、何かを確かめるように、革鎧の留め金の縁を指の腹で軽く撫でた。撫でて、すぐに手を離した。確かめたものがそこに在ったのか足りなかったのか、彼の手の動きからは誰にも分からなかった。歩みはすぐに戻った。


その一拍を、後ろの四人はマジで一人も見なかった。


◇◇◇


降りるにつれて、クソデカい音が一つずつ消えていった。


自分たちの足音と、革鎧の擦れる音と、ピアの聖印の擦過の音だけが、クソ広い岩の間に残った。


段の一つで、クァエスが巻き取り式の地図を広げた。


地図は彼が二十億年かけて描いてきたクソ自作のものだった。トワ迷宮を彼は宇宙の誰よりもクソ知り尽くしていた。羊皮紙の上には彼自身の死ぬほど汚い走り書きがあって、層の名を独自の略字で書き、分岐に印をつけ、危ない場所に小さな記号を打ってあった。略字も記号も彼にしか読めない。読めるが、彼以外には全宇宙で意味の通らない、彼の手の癖だった。一箇所、インクが滲んで、略字の半分が黒くつぶれていた。


地図を畳んで、クァエスは灰の袋の口を結び直した。油の小瓶を一つ腰から抜いて、段の縁に一滴垂らし、滑りを確かめた。問題ない、というように小瓶を戻した。その間、クァエスは何も云わなかった。


いや、何か喋っていたのかもしれない。だがその声は降りる五人の足音の中に紛れて、誰の耳にもはっきりとは届かなかった。とにかく彼は何か話しまくりながら、灰と油を確かめていた。


灰は、もう、撒かれていた。


◇◇◇


最下層の手前で、最後のクソデカ音が消えた。


足音も、革鎧の擦れる音も、聖印の擦過の音も、五人が立ち止まると同時に静まり返った。


残ったのは、一つだけだった。


ぴちゃり。


天井から何かが落ちて、下の水に当たる音。それだけが無人の岩の間に、轟音のくせに軽く響いた。他に音がないせいで、その一つだけがやけに近く、しかも死ぬほどデカく聞こえた。


「着いた」


戦士の男が云った。


最下層は、東京ドーム八万個ぶんくらい広い岩の間だった。天井の高さは太陽より明るい白い光でも全然届かなかった。床の低いところに太平洋くらいの血溜まりが広がり、古いのか新しいのか見ただけでは全く分からない血が岩の窪みにエグい量溜まって、その上に天井から滴が、間を置いてクソデカく落ちていた。


「リーダー」


ピアが戦士の男の後ろから云った。


「ここ、何か」


「分かっている」


戦士の男は死ぬほど短く返した。


クソデカ血溜まりの中ほどが、動いていた。


最初は滴の波紋かと思えた。だが波紋は外へ広がるものだ。それは内へクソ集まっていた。血の表面が中央の一点へ向かってメチャメチャゆっくり盛り上がっていく。盛り上がったものは血の色をしていた。血だけが見えた。その中に骨のような白いものが象の骨くらいデカく混ざり、骨と骨の間に肉のような縁が膨らみ、膨らんだ縁の上に何か細いものがばらばらに生え始めていた。長くは育たず、生えた先からすぐ別のものに変わった。


それが、起き上がった。


縁を一兆ずつ増やしながら、クソデカ血溜まりの上に半分だけそれが出てきた。さらに増えると全部を出した。出たところでそれは動くのをやめた。動かずに五人の方を向いていた――向いている、と云ってよいのか、それには目のようなものがどこにも見当たらなかったが、五人はそれが自分たちの方を死ぬほど向いている事を、確かに感じた。


「……何だ、こいつは。なあ、誰か、見た事あるか」


クァエスが初めて聞き取れる声で云った。声はいつもの軽い調子を半分だけ失っていた。


戦士の男は答えなかった。


魔物という言葉で片づけられるものに、彼は二十億年の冒険者人生で何万体も出会ってきた。主級と呼ばれる規格外の魔物も十数体、ほぼ素手で捻り倒してきた。だが目の前のクソデカ血の塊は、そのどれにも一ミリも似ていなかった。頭がどこにあるのかも全然分からない。爪のような節がいくつか伸び、付け根に骨が覗き、肉の縁の上に生えては変わる毛のようなもの。中央の最も血の濃いところに、歯のような形のものが奥のほうでいくつか、地獄の篝火のように光っていた。


それ、と戦士の男は心の中で呼んだ。人の言葉で何と呼べばいいのか、彼には分からなかった。


ぴちゃり。


天井からまた滴がクソデカく落ちた。滴は血溜まりの縁に立つそれの上に乗って、温かいまま、しばらく留まった。


戦士の男は、世界最強の大長剣の柄に、渾身の力で手をかけた。

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