第一話「空が裂けた日」
火は、まだ揺れている。
小さなケーキの上。
一本だけ立てた、ろうそく。
灯りは弱い。
けれど、消えない。
カエデは、それを見ていた。
吹き消さない。
手も伸ばさない。
ただ、そこにある時間を見ている。
部屋は静かだった。
椅子は一つ。
皿も一つ。
誰かのために用意されたはずの場所は、
どこにも使われていない。
テーブルの端に、小さな写真。
笑っている男の子。
その横に、ぬいぐるみ。
視線が、わずかに揺れる。
触れない。
触れれば、何かが壊れる気がした。
「……コウ、誕生日おめでとう」
火が、わずかに揺れた。
その揺れだけが、時間を刻んでいる。
外は、やけに静かだった。
風の音も、車の音も、遠い。
世界が、薄くなっているみたいだった。
その瞬間。
空気が落ちた。
音が消える。
耳の奥が締め付けられる。
世界から、何かが抜け落ちたみたいに。
呼吸が、止まる。
次の瞬間、
遅れて音が来る。
――割れる。
ガラスが砕ける。
壁が軋む。
床が跳ねる。
世界が、形を保てなくなる。
カエデは動けなかった。
体が、命令を受け付けない。
ただ、外を見る。
空が、裂けていた。
光でも影でもない“歪み”が、
空間そのものを押し広げている。
ありえない角度。
ありえない奥行き。
見てはいけないものを、見ている。
そこから、落ちてくる巨大な影。
遅れて、衝撃。
空気が叩きつけられる。
呼吸が潰れる。
肺が空になる。
すぐ隣だった。
煙。
焦げた匂い。
歪んだ金属音。
それは、人の形をしていた。
巨大な“何か”。
腕。脚。頭部。
でも、生き物じゃない。
動かない。
沈黙。
世界が、止まっている。
逃げなきゃいけない。
そう思う。
でも、体は動かない。
視線だけが、そこに縫い付けられる。
――開いた。
胸部が割れる。
内部が露出する。
機械の奥。
狭い空間。
コックピット。
中に、人がいる。
若い。
血。
呼吸が浅い。
胸が、わずかに上下する。
生きている。
でも、もう長くない。
その瞬間、
カエデの体が動いた。
考えていない。
判断もしていない。
ただ、走っていた。
距離は短い。
でも、遠い。
足が重い。
空気が粘つく。
時間が、引き延ばされている。
手を伸ばす。
まだ温度がある。
「――」
声は出ない。
でも、分かる。
間に合わない。
呼吸が止まる。
視線が落ちる。
力が抜ける。
その目は、どこかを見ていた。
ここじゃない場所を。
そして、動かなくなる。
また。
間に合わなかった。
カエデの手は、離れなかった。
そのまま、触れ続けていた。
冷えていく感覚だけが、確かだった。
――音声起動。
無機質な声が、空間に流れる。
「パイロット生体反応、停止」
「戦闘継続不能」
わずかに、遅れて。
「外部損傷、軽微」
「機体機能、維持可能」
カエデは、まだその手を握っている。
離せない。
離したら、全部終わる気がした。
「代替操縦者、検索開始」
音が、変わる。
空気が震える。
何かが、こちらを“見ている”。
カエデの呼吸が、乱れる。
逃げなきゃいけない。
分かっている。
でも、動けない。
「適合対象、検出」
一瞬。
空気が引く。
視界が引き剥がされる。
世界が、遠ざかる。
体が浮く。
「――」
声が出ない。
抵抗もできない。
引き込まれる。
暗転。
落ちる。
いや、吸い込まれる。
上下が分からない。
自分の輪郭が、崩れる。
どこまでが自分で、どこからが違うのか分からない。
次に視界が戻ったとき、
そこは“狭くて暗い機械の中“だった。
呼吸が荒い。
何も分からない。
壁が近い。
でも、触れていない。
身体の位置が、曖昧になる。
――起動。
低い振動。
足元からじゃない。
もっと内側。
骨じゃない。
でも似ている。
自分の中に、別の重さがある。
遅れて、外が“入ってくる”。
見ているんじゃない。
流れ込む。
さっきまで外にあった世界。
今は、内側から見ている。
距離がわからない。
遠いものが近い。
近いものが遠い。
焦点が合わない。
でも、全部見えている。
巨大な腕が、わずかに動く。
――先に。
「……っ」
遅れて、自分がついていく。
動かしたつもりはない。
でも、動いている。
重い。
でも、軽い。
踏み出す。
地面が沈む。
衝撃が、遅れて返ってくる。
身体が揺れる。
いや、“機体”が揺れている。
その事実が、遅れて理解に届く。
「……なに、これ」
声は、内側にしか響かない。
外には出ていない。
でも、何かが応答する気配がある。
答えはない。
それでも、動いている。
理解が追いつかない。
それでも、止まらない。
「操縦者登録、完了」
無機質な声。
「機体識別:アルファ01」
そのとき。
遠くで、何かが動いた。
歪みの向こう。
まだ閉じていない空。
そこから、影がもう一つ。
落ちてくる。
ゆっくりと。
確実に。
逃げ場はない。
「脅威反応、接近」
無機質な機械の声が
ただ、事実だけを告げる。
カエデの呼吸が、さらに乱れる。
理解したくない。
でも、分かってしまう。
戦うしかない。
何も分からないまま、
それでも――
足が、前に出る。
(第1話 終)
ここまで読んでくださりありがとうございます。
「最適解の外側で、きみと 」は全13話です。
次話は明日12:00投稿予定です。




