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世界の終わる君と僕

 窓際の一番後ろの席。空が青い。ここはいつも青々しい。

 高校生活は退屈なものだ。青春というが空以上にそんなものはない――あれなんだこれ。何も無かったはずの風景にロン毛が。


 「なんだよ。理、黄昏てんのかーい?」


 佐藤だ。自称親友の佐藤が俺の頭を無造作にゴシゴシしてきた。


 「なんだ、お前。帰れよ」

 「辛辣だな、理は。もう昼休みだぜ。購買行くぞ」

 「はいはい」


 俺はSwitch Liteをポッケにしまって、意気揚々の後ろをついていった。

 長い廊下。迷宮のようだ。特に床のあそこの端にあるタイルの欠けたところが、目印じみて、同時にそれを通り過ぎたくらいになって俺の腹は規則正しくぐうぐう鳴る。腹を満たすために歩いて、こう腹を減らしているみたいで、どうも矛盾している。


 「おいおい、なんでそんな元気無いんだ? あ、腹が減ってるのか。ほれ、チョコバット~ほいほい!」野良犬に餌をやるように棒で煽る佐藤。

 「いらん」

 「釣れねえな」


 佐藤はバリッとチョコバットを屠った。

 どうでもいい廊下を歩いていると、あっちこっちの教室から話し声が色々聞こえてくる。


 「おいおい、昨日の配信みた? simaのスーパープレー!」

 「あー見た見た。任天堂公式よりも無限ワンアップしてたな!」

 「やっぱsimaは他のゲーム配信者とは一線を画してるよな!」


 他の教室でも同様に。


 「シュラハトも最近始めたばっからしいんだけど、さすがsimaだったわ。開幕の連続キルから、ノーダメでGGだよ」

 「うますぎてゲーム側から出禁だってよ。マジパネェ~」


 その古臭いファンと同位相になって俺も頷く。佐藤が俺を不思議そうにチラチラ見てくるが知らん。


 「simaさんの声って素敵よね。蕩けちゃう」

 「わかるー! たまにクスって笑うの可愛いよね」

 「どんな人なんだろ。きっとイケメンだよね」


 女の子にもモテモテ。さすがsimaって感じだな。youtubeは98%の視聴者が男とその他って云ってたけれど、やっぱり所詮はグーグルだから、嘘に違いなかったな。俺の声は可愛いし、イケメンだもの。

 俺が自分の恵まれた境遇に頷いていると、そこにバタッとぶつかった。昼の明りを艶やかにする長い黒髪の、ニーソの子が「いてて……」と転んでいた。俺が転ばせてしまった。俺は「大丈夫か」と手を差し伸べた。


 「ええ。ごめんなさい。ぼうっとしてて」

 「いや、俺が前見てなかっただけで――」


 彼女の手が俺の手に触れた瞬間に、俺は手が気持ちよく溶けてしまいそうだった。そうふわりと立つ彼女は柔らかく聖母のように微笑んで「またね」と云って去ってしまった。


 「お前、あの子」佐藤は囃し立てる気満々に俺を小突いた。

 「霞京子だった……」


 俺はその美しい黒髪の靡いた跡、春めいた余韻に心奪われていた。俺はその心持ちのまま、満を持して売店の人混みに飛び込んだ。痛みも感じなかった。

 教室の昼休みは短い。俺はSwitchの中のファルコンと同時に憎らしい新円の針と戦っていた。佐藤は「哀れ哀れ」とやれやれ系みたいにやれやれして俺の机に座っていた。俺はたまに腹が立つと、肘でその脇の下を突いて落とそうとするが、そこはさすがサッカー部か、性根はともかく体幹はいいようだ。


 「オンラインの敵は倒せても。俺は倒れないぜ☆」

 「やかましいわ」


 どこにでもある男子高校生の日常が積み重なっていた。今日ももちろんそうだろうと、どこか青春を諦めていた、この一分。やけに静かな足音が、騒がしい教室のむしろ静かだから目立ったその足音が、俺のほうに伸びてきて、心地いい春風のごとく俺に語りかけてきた。


 「浦嶋君。私にゲームを教えてくれませんか」


 俺はその声を訊いた途端、力が抜けてSwitchを宙へ落とし、その主が霞京子と分かって、「うわっ!」と驚きのあまりSwitchをグラウンドにオーバーヘッドしてしまった。佐藤が「お前、サッカー部は入った方がいいぜ!」と馬鹿を言う横、俺は手を合わせて懇願する霞京子の、やや大人しい上目遣いに難なく翻弄された。


 「ぜひとも」


 俺はこの放課後、佐藤をサッカーゴールにストライクして霞京子と帰ることになった。



 霞京子は依然として地上に舞い降りた神のようだった。幾星霜もの無駄な黒板を彼女が見上げる後ろ姿を重ねれば退屈とは言い難くなる。同時にその有様がほとんどの生徒にとって、彼女が神聖なる景色の一つであるように、手の届かない存在、神々しくあった。それが俺にとって少なくとも女神に、たびたび目が合うと慈悲深く小さい笑顔を向けてくれるところに、変わりつつあった。

 男子にとってはそれは恋とは近くも乖離した崇拝だろう。関わるのことを願うのも怖ろしいほど、彼女は美しいのだ。女子にとっては憧れからは疎遠に近しい信仰だろう。似たような境遇でありながら、その才能と、同じくして黒板を眺めるにも、彼女の輝かしい成績等々がそれと違ったものが見えているのではないか、という奇妙な感覚を抱いているかもしれない。

 俺にとってはもちろんさきのごとく女神に違いなく、時計の針が早くチャイムを突いてほしいところである。一方でこの彼女の風変りを独占していたい、この愉快な退屈が長く続いてほしいという、半ばクラスメイトにとっては邪悪なものがあった。



 俺は満開の桜の校門へ、待ち合わせしていた霞京子に「じゃあ、行くか」とニヤつく頬を噛んで挨拶をした。彼女は優しく「大丈夫?」と心配してくれた。

 彼女と歩く道は色鮮やかに変わり映えた。どうとも思わなかった横断歩道、曲がり角、桜の舞う川辺は華やかに、住宅街のいつも吠える犬も今日は愛おしくなった。


 「わんわんお~」

 「ガブッ!」

 

 噛まれた。どうしてかワイヤレスイヤホン(15万円)がポッケから飛び出そうとしたが、これはなんとか押さえ込んだ。彼女が「うふふ」と笑われながら、噛まれた手に包帯を巻いてくれた。噛まれてよかった。

 正直、霞京子はもっと冷たい人間だと思っていた。彼女は文武両道、容姿端麗。非の打ちどころのない美人だった。つねに大人っぽく冷静で、どこか生きる世界が違うような人。話しかければ自分の下品さが露わになる気がして、怖くて近づけず、そうとばかりに外で見ていれば口数は決して多くなく、休み時間はほとんど難しそうな小説を澄ました顔で読んでいるから、そういう意味でも近づき難かった。

 それがこう触れてみると、世界一優しいんじゃないかってくらい俺のことをよく見ている。気遣いも完璧だった。あとそこからくる微笑み、その可愛さも。

 俺はだから、この帰り道も疑問だった。霞京子は俺みたいな平凡な男子高校生が関わっていいような人ではない。それがどうして、さらにどうしてゲームを、もっといえば彼女の完璧な教室の面汚しじみた俺のするゲームを、わざわざ教えてほしいと。そう考えると、俺は怖くなった。まさか二人きりになってリンチでもされるのかと。それも彼女に会って、温かい空気に染まると吹っ飛んでしまって、子の包帯がここまで熱くなると、訊いてもいい気がした。適当でもいい気がした。


 「霞京子さん。どうしてゲームを? ゲーム好きなの?」

 「私、最近、とあるゲーム配信を拝見して、それで興味を持ったんです。彼はよくおんらいん対戦ゲーム? をしているの。私も上手になったらそこで関われる気がして」


 彼女は初々しく照れながらおんらいんをおんらいんした。片言のところがどうにも可愛らしく、俺は高揚した。そこにいたばかりの犬に手伝ってもらって穴を掘って、埋まった。そこに犬が糞をしてきたのは言うまでもないが、とにかく彼女はたまらなく可愛かった――ってちょっと待て。ゲーム配信、ゲームにじゃなくて、いや、ゲームでも嫌だけど、彼女のこの感じ、そのとあるゲーム配信者に滅茶苦茶興味が無いか! それはいかん!

 俺は頭に乗ったフンと間違えて犬を犬小屋にぶっ飛ばして、彼女に伺う。


 「そのゲーム配信者って誰? 僕も気になります。霞さんが興味持つほどの人ってだれだろぉ?」


 俺は必死に本心を隠し、なおかつ上品にした。彼女は犬の心配をしつつも、さらに恥じらう顔を手で覆い隠しながら小声で呟いた。


 「s……ma」

 「馬?」

 「i……ma」

 「居間?」

 「sima!!」

 「そうかsimaか。そうだよな。どうせsimaだよな。俺みたいなカリスマゲーム実――え? sima?」再び穴に骨を埋めようとしたところ、俺はハッとした。

 「simaです……」


 彼女はいつもの完璧で冷静な様子とはまるで別人で、どこにでもいる年頃の少女のように制服のスカートを揺らしていた。その恋秘めたるところが、どこにもでもいない唯一の男が俺だとたしかに云ったから、俺は改めて道路に三角座りした。


 「まじか」

 「ガブッ!」

 「痛てぇ」


 嫉妬したであろう犬に噛まれ、俺は反って現実か夢かわからないこの衝撃を静かに家に持ち帰ろうとした。そこにはもちろん彼女が付いてきていた。

 こんなことなら掃除しとけばよかった! と404号室の暗証番号を間違えるくらいに、俺は混乱していた。だんだんとここに近づいている間、現実がだんだんと沁み込んできて冷静でいられなくなったのだ。俺がエレベーターの開ボタンを押すと、彼女が入ってきて「何階ですか?」とエレベーターガール? 以上に麗しく伺ってきて、「404号室です」と俺が緊張して返すと、「部屋番号まで訊いてないよ」と云って大人らしく微笑み、閉ボタンを押すから、そのどうしても二人きりの中は、どうしようか、どうすることもないかと、あたふたした。


 「こんなことなら掃除しとけばよかった」

 「ごめんなさい。いきなり来ちゃったから」

 「いや、俺が今日でいいっていったから」


 エレベーターのドアが開くと、涼しい風が入ってきて少しリラックスした。と思っていたら彼女が優しい様子でずっと開ボタンを押して待っていてドキッとした。俺はさらに緊張して「申し訳ない」と大正じみた風格でエレベーターをそろりと出て、彼女を部屋まで案内した。

 404号室の鍵を回し、自分の部屋まで来て気づいた。今日、家族居ない。俺と彼女の二人きりだ。なんかはじめて家に連れてきて、しかも二人きりという、彼女に失礼な感じになってしまったか。そうまた申し訳ない、をしようと思ったら、彼女は平然と俺の部屋を見回していた。反って俺がそれを見て落ち着くくらいに、彼女は彼女のままだった。

 網戸をゆるやかに通り抜けたそよ風が、彼女の黒髪がふわりと靡かせた。その戸を開けたのが自分であったから、自分がその髪を触ったように錯覚してしまって、胸の奥がむずむずした。

 俺はそう変態じみた顔をパチパチして、ゲームの準備をする。「なんにする?」と彼女に訊くと「あなたが一番好きなものでいいよ」と、俺の配線差し込むおぼつかない手を思ってくれたのか、俺は熟考して待たせるのも時間が惜しいから近くにあった『シュラハト』を有機Switchに入れた。というか俺がsimaなんだから、俺がやるゲームを入れればいいだけだったが、偶然、そういったものを選べた。

 ゲームをしている間はとくに云う事はなかった。あの完璧超人の霞京子が、案外ゲームになると普通の少女のようで、可愛らしく何度も俺がゲームオーバーになって笑われたのを、えっ! あれだけ自分でカリスマカリスマって言ってたのに情欲に流されるんですか! って煽られるのを嫌がったわけではなく、ただ彼女が可愛いのがあたりま(ry

 気付けば烏が赤い景色に止まっていた。もうすぐ妹が帰ってくるだろうと、面倒になる前に彼女を家に帰した方がよさそうだ。しかし彼女はゲームに舌舐めずりながらコントローラーを握っている。


 A.集中している彼女を邪魔するのは悪い。もう一ゲームだけして、今夜は彼女を家に泊めよう。

 B.いいや、女の子を遅くまで止めるわけにいかない。危険だから彼女を家に泊めよう。

 C.たまには妹の家事を手伝うのがいい男だ。夕飯は彼女と一緒に作って、すると遅くなるから彼女を家に泊めよう。

 D.帰らせないと犯罪。現実は非情である。


 ちょうど烏の鳴き声の中にパトカーのサイレンが聞こえたから俺はDを選択せざるを得なかった。ポリ公め。

 俺は満を持して紳士であるので「あきまへんで、可愛い子がこんな夜遅くまで男の家に」と誰かの真似をしつつ彼女のコントローラーを取り上げた。彼女は案外ノリがいいのか「私はもう大人の女でしょ?」と妖しい目をして俺に首を傾げた。妖魔の上目遣いとでも云おうか。俺はその魔力のせいか、次の呪文を唱えられなかった。


 「冗談。帰るよ。遅くまでいたら悪いものね」

 「そんなんじゃない。危険だろ。色々と」

 「危険?……浦嶋君がいるなら大丈夫だよ」


 彼女は軽々しく笑みを浮かべた。まるで陽キャじみたもの。たしかに魅力的であっても、あの霞京子が軽い女なのか? と疑問と共に、彼女への理想にひびが入ったのは間違いない。それも彼女が間違いなく、女子高校生だからだろうか。俺は正直、幻滅した――が、そうであってももちろん彼女の眼差しには敵わず、俺は彼女を彼女の家の近くまで送るしかないのであった。そのときはいつもの霞京子だったから、その感情も冷めた。

 すっかり紫の夜空に月が顔を出し始めた別れ際、彼女はやや寂しそうに唇を噛んだ。


 「また明日ね」


 煌めく星のように小さく輝いたその言葉に、俺は他愛もなく「また明日」とだけ返した。すると彼女は仄かににこっとして、夜の中に帰っていった。

 俺はその言葉、明日の星を握りしめ、劇的な一日を振り返りながら帰った。どうしても煩い廊下を通り過ぎ、やけに明るい自分の部屋に入ると、あれ? この部屋に彼女が居たのってほんとうか? と半信半疑になって、なおかつ驚いた。ちゃんとコントローラーをにぎにぎすると、彼女の感触が残っていて、ホントに居たんだ!って驚きました。

 風呂やベッドで思い返してみれば、また嘘じゃねえの?って疑ってしまったけれど、コントローラーをにぎにぎすると、彼女の感触が残っている気がして、そのままコントローラーを抱きしめて寝ました。自分の部屋だもの、自分のコントローラだもの。誰も見てないし、俺のものだし、いいだろぉ。



 それから俺は霞京子と放課後を過ごすようになった。だいたい週に二三回、彼女とゲームをする。あとしばらくして彼女が「私だけじゃ悪いから」と俺は彼女から勉強を教わるようになった。成績がうなぎ上りであがっていって、不正を疑われ、三回くらい校長に捕まった。そのときは霞京子が弁護してくれて助かった。

 彼女のほうはというと、ゲームの腕はほんの一か月で俺に負けず劣らず、とまでは行かなくてもそこら辺のゲーマーなら簡単に倒せてしまえるくらいには上達した。これもカリスマゲームじ(ry

 ある日の浦嶋理。彼女と仲良く勉強をしていた自室を、妹がドアからじろーっと、猫じみて覗いていた。俺はいつものことだからどうということはなかったが、彼女がキョロキョロと俺の顔色を伺ってくるから、俺はそのまま彼女のちょっと不安そうな面持ちを堪能したいので、やっぱり放っておいた。すると彼女から訊いてきた。


 「妹さん。いいの?」

 「いいよ。いつもあんな風だろう」

 「いやだって、凄い目つきだよ」

 「妹は目つきが悪い生き物だぞ。そうやってほら、この生物の教科書にも書いてある」

 「それ、コヨーテだよ」

 「ほんとだ」


 俺がボケると彼女はクスクス笑った。勉強机の灯りがそれで少し揺れた。これが気に入らなかったらしい。コヨーテは自ら、俺たちに噛みついてきた。


 「お兄ちゃん! 最近、イチャイチャしすぎ! 私というものがありながら、正々堂々と浮気するなんてダメでしょ!」

 「正々堂々は武士たる精神。だからいいんだよ」

 「そっ……か? そうなのかな?」

 「浮気だって正々堂々ならいいんだよ。ほら、妹、君も勉強しなさい」

 「そ、そっか。うん、お兄ちゃんも頑張ってるし、私も――ってなるわけないでしょ! 馬鹿にいに!!」


 妹は勢いよくノリツッコミをしながらも、前半の言動通りに中学三年の問題集を持ってきて、俺のたちの机に広げた。それが他国の領地を征服した皇帝のごとくドヤ顔をしたから、俺は「あっ! 文永の役だ!」と云いながらその砦どもを蹴散らした。妹は怒り、頬を膨らませながら、落ちた問題集を拾うと「今度は貰う!」とするも、俺は「そぉれ! 弘安の役だ!」と同じようにした。妹はしょんぼりとした。俺はそれを気にせず、バーの雰囲気ある灯の中のように、彼女へキザに「さぁ、続きをしよう」と誘った。はずが、彼女は聖母だった。妹を慰めながら問題集を拾って「私が教えてあげるね」と小さい方の机でお姉ちゃんをした。

 俺は途端に恥ずかしくなった。


 「妹さん。ごめんなさい」

 「許しません。お兄ちゃんなんかいらない! だってお姉さんいるもん!」

 「俺、お兄ちゃん……」


 俺が落ち込むと彼女は「ふふふ」と俺を少し面白がって笑った。それが妖艶なお姉さんみたいで俺はなんか固まった。また妹はそれが気に入らなかったようで、俺の顔に「えーい! 三度目の元寇じゃあ~!」とノートを被せてきた。


 「三度目はないだろ!」

 「歴史改ざんじゃ~ほれ、四度目~!」

 「おい!」


 俺は妹の荒波に溺れかけ、助け舟と彼女に手を伸ばしたものの、彼女は「ふふふ」と笑ったまま何もしないのであった。意外と彼女は悪女なのかもしれないと冗談半分に水の底から見ていた。


 「うっ!」

 「お兄ちゃん?」


 そんなのはほんとうに冗談半分だった。水の底にもいないのに、俺は急に頭が痛くなった。何かキツツキに突かれているような。ずかずかとした痛みが横から来るのだ。そしてそのたびに知らない朧げな記憶が頭に過る――茶髪の女の子がゲームのコントローラーをこっちに放り投げた。


 「……ふふん! そうなんだ。そうだったんだぁ~!」


 元気な女子が勢いよく俺の部屋から出て行った。なんでまぁあんなに嬉しそうなのか。あれ、戻ってきた。


 「って嘘でしょそれ! 私をわざと褒めて恥かかせる気じゃん!」


 彼女は頬を膨らまし、俺の胸ぐらを掴んでわしゃわしゃ揺らし始めた。俺がグルグルしている。あれ、記憶の中なのに酔いそう――だんだんと視界が滲んでいく。


 「浦嶋君?」


 気が付くと彼女の心配そうな顔が、真上にあった。それとやわらかい感触が後頭部にあった。もしかしてこれ、膝枕? 俺は後頭部をゆさゆさしてそれを確かめ、確かめても確かめた。

 

 「大丈夫?」

 「あ、えっと」

 「ちょっとお兄ちゃん!! そうやって!」


 妹が乱入モンスター。それでも俺は膝から離れない。映画化決定。語呂だけである。俺はとにかく仮病をして、できうる限り咳とフラフラして、怠そうに声を上げた。妹も猜疑的な目をだんだんと弱くして、成功。さすが中学の時は仮病しまくった浦嶋理。俺はこの霞京子の膝枕を堪能するぜ!


 「大丈夫?」


 俺がそうバレないように笑ったところだった。彼女の声が、やや掠れた声が俺の首をなぞった。俺はむしろ彼女を心配した。申し訳なくもなった。その念が一瞬で消し飛んだのは、むしろ俺がほんとうに病がかりそうになったのは、彼女の張り詰め血走った眼球だった。氷のように固まった、白い顔に、この世のものとは思えない妖怪じみた、呪いや憎悪を具現化したような形相がそこにあった。

 俺は目を疑った。吐きそうな気分になった。殺されるとさえ思った。色んな気持ちの悪い感情が混ざり合った。そう逸らしてはならない恐怖から、逸らせば死ぬかもしれない彼女の面を、俺は目が掠れるまで見張っていた。それも生理現象か、必ず俺は目を閉じてしまった――その瞬き――それを潜ったあとは、なに温かい部屋の麗しい彼女が涙ぐんで俺を見下げていた。


 「だ、大丈夫! 泣かなくても!」

 「だって……」

 「あーお兄ちゃん、ナカセタ~」

 「いやっ」


 俺は飛び起きて彼女を慰めた。目の前にある彼女の柔らかさが、そこまであった幻をどこかへやった。とにかく彼女に悲しい思いをさせたくない。もちろん彼女への憧れと尊敬があったから、彼女を心配したし、その像を崩したくなかった。だから急いで彼女の涙を止めようとした。

 やはり彼女は強い人だった。すぐ泣き止むと――大胆にも俺に抱きついてきた。俺は戸惑った。彼女の湿った体温が、その塩っぽい香りが、他に女らしい肌の感触や首を擽る黒い髪が、彼女のさっきまであった弱さとともにやってきたのだ。


 「どうした?」

 「ごめん。少しの間、こうさせて」


 彼女はそんな人ではないかもしれない。平然の凍ったような心音が寂しく響いて伝わってきていた。あとわりと大きな胸の触感も。俺は舌でニヤつく頬を歪めた。彼女が「なんで変顔するの?」と涙ぐましい声で訊いてきて俺は黙り込んだ。

 しばらくして彼女は落ち着いたらしい。俺に「ごめんなさい。私が心配かけちゃだめよね。浦嶋君、さっきはああだったけど、問題ないの?」といつも通りに訊いてきた。俺はもちろんそれどころではない。今まであった色々な感触をどこかしらに記憶しないと堪らない気分になっていた。だから適当に「全くもって」と云った。彼女は不思議そうに俺を眺めた。

 今日はそんな色々があって、彼女は帰った。妹は「病院行く?」とどうしてか嬉しそうに、俺が病院嫌いと知っているからか、訊いてきて、俺は「ノープロブレム」と妹の頭を掻き撫でて誤魔化した。



 実はこういった頭痛は初めてじゃなかった。五月あたりからあらわれるようになった。だいたい彼女と仲良くなり始めた頃だ。具体的には彼女と並ぶ勉強机の灯りの眩しさに気づいた頃だ。彼女がいつもより俺に寄って来て、俺の胸がシャーペンの芯を何度かほど折ったとき、彼女が俺の恥じらう様子を面白ろ可笑しく不思議がって、さらに近づいて、その肩が不意にぶつかったときの、彼女がふと見せた健気な少女じみた赤い潮流、俺がそれにときめいたときにあの鳥が逆の肩に止まった。気に入らない不貞腐れたとも見える目で、俺の頭を突いてきたのだ。俺の脳の中にいるかもわからん、恋の虫を食らい去ろうとしたのだろう。そのときはまだこの厄介な鳥が雀程度に小さかったから、そこまで気にならなかった。

 だがしかし今頃になってこの頭を突くあの目が大きくなって、子犬や子猫がすぐに大きくなるような信じがたい成長のその目に、驚きつつも、その目からたしかに見えるようになった嫉妬の色、具体的には鮮明に頭を過るようになった数々のその茶髪の彼女の出来事が、俺を悩ました。

 嫉妬といったのはそれがだいたい彼女と過ごしているときに来るからである。それが数時間前まで居た霞京子の、懐かしいともいえる匂いが混じった、神秘的な夜中の自室では様相異なる。それよりもどうしても懐かしさ香る光景に、俺は好感を抱かざるを得なかった。


 「あの子は誰だろう」


 俺はそういうとき、青黒い天井に星を浮かべるがごとく、その言葉を投げかける。俺がそうするのは穏やかな気持ちでいるせいだろうか。夜中の頭は突くのもさざ波聞こえるほど静かなものだった。

 記憶の中には彼女の他にも色々な人がいた。親友を名乗る文芸部だか野球部だかわからん身なりの食いしん坊。中学二年だか三年だかわからん見た目だけ華奢な妹。それとお腹の色がどこか意味違うやんわりとした母、継母。

 それからどことなく喧嘩っ早くオタクに厳しいが優しいかもしれない金髪ギャル。そして――神々しいままの霞京子。



 俺はそれらの記憶が鮮明になっていくたび、現実のほうが痛くなってきた。いや、現実ではないかもしれない。俺は起きにくくなっていた。現実が夢に見えたから、二度寝がしやすくなった。

 そうすると妹は異世界の山賊のじみた乱暴さを見せる。勢いよく天の岩を放り投げ、俺の布団を追剥ぎした。その太陽が「黒洞洞だぁ」と覚えたばかりの寝言をふやかせば、妹は洗面所の水を水滴を廊下に零しながら手に汲んで「寝耳に水じゃ!」と、俺の顔面に浴びせてくる。


 「うわぁっ! なにすんだよ!!」

 「お兄ちゃん、朝だよ! 学校遅れちゃうよ!」

 「だからって限度があるだろ! びしょ濡れだ」

 「ふんふんふーん♪」妹は廊下の彼方に去っていった。

 「はぁ……」


 冗談で云ったのがそうでもなく、俺は現実とあれら夢、記憶の間の橋のかけ方がわからなくなってしまった。度夜毎朝見えてしまうそれぞれの妹、母親。初めは馬鹿馬鹿しい記憶を味噌汁の具と一緒に飲みこめたものだったが、その鮮明さゆえに、だんだんと喉に詰まるようになった。記憶の真実味のみではない。身体が味噌汁の味に違和感を覚え、思い出したのか。


 「今日は元気がありませんな」母は俺の様子をうかがう。どちらにもすぐにと。

 「味噌汁が濃いような気がして」

 「文句言うなら食べんでいいわ。はよ、学校へ行き」うかがった左右のハンドルは、右の心配をきって左折、怒りになったようだ。


 俺は高校生にもなったのに、子供のように怒る母親の幼さに、呆れながら味噌汁を飲み干した。その間の妹の俺に向ける窺い冷めた目は、やけに、母と対照的にかさらに、大人びていた。

 それからは妹と鞄を揺らし、夏の青さが半袖の彼女巡り合わす、川沿いに。右で元気でいる妹を涼しそうに笑う左の彼女の奥ゆかしさに、俺は和まされた。電柱がニ三本過ぎ、その喧しい妹と別れると、それから何度か曲がって、コンビニを過ぎ、電柱の一本と公衆電話を横に過ぎ、高校まで着く。その間の彼女は適当な世間話をするくらいで、ほとんどは朝の街の豊かさを一緒に眺めていた。彼女は少し大人しい柔らかい頬の奥に自信に似た満足感を醸し出していた。


 「霞さん。寝ぐせついてるぞ」

 「え? あっ……」


 今日は気まぐれにそんな彼女で遊んでみたものの、恥ずかしがって満足を緩め、慌てふためきながらサラサラの頭をこうかどれかと押さえて、俺に愉快に見られるのに気づくと、すぐにその様子を省みた、彼女は可愛らしい。女神からさらに舞い降りてしまった、天使のよう。厳密には自分のことを女神と思い込んでいる天使のよう。その間違いもまた可愛らしい。


 「あの、寝ぐせ、どこですか?」彼女は裏返った声で、反って怖いくらいの真顔を固めて訊いてきた。

 「無いよそんなの。嘘でした!」

 「むっ……」


 言葉に同じくして小さくムッとした彼女から、俺は逃げるように校門を潜った。嘘も彼女のようにおもしろいのならどうってことないだろうか。すっかり門は緑葉に染まって、夏の鳴き声を響かせていた。マイケル〇ジャクソンの銅像も、今日は汗をかいていそうであった。



 実は学校では、霞京子と一緒にいることは少ない。同じクラスでありながら話すのはまれである。べつにどこぞのラブコメの主人公のように、学校で一番美しい女神様と実はうんぬんかんたらとしているわけではない。夏空の風と雲と同じく、自然の流れとして、俺と彼女の関わる時間は少なかった。たびたび彼女からの視線を感じ、見て見ると、彼女の物足りなさがはみ出た真顔があったりもするが、これはそんなに大きな問題ではなかった。どうせ放課後会えるのだから。

 その代わりに俺の貴重な休み時間を独占しようとするのは、Switchではなく、佐藤だった。仰々しくあれこれと話しては気になる自称親友だ。イヤホンで耳塞いでも、その身振りが煩いから、気になって仕方ない。ドレイモンドグリーンよりも自己主張が激しい。

 そういう学校生活を過ごすと、だんだんと退屈な授業中が、渇いた喉を潤すサバンナのような存在になってくる。この場合は暇だろう。心落ち着かせられるのは、夏の風音が淙淙とするこの時間になった。俺はぼんやりと晴れ渡る夏を眺め耽るのみである。

 重ねて学校の一連、こうなったのは茶髪の子との記憶の日々のせいでもあった。もはや記憶は実体じみていたから、同じ様な日常、場所では、同時に二つの現象が目の前に現れて止まない。俺にとっては一分が累乗されて、二分以上はある。現実と偽りが両方見えるから、その分疲れる。そこに恋心に翻弄されたり、親友のどうでもいい刺激的な話に引っ掛かる余裕はない。

 されどこの青によく浮かべるのは、茶髪の子との日常だった。きっと記憶の中での俺は、今の俺よりもずっと素晴らしい空を見ていたのだろう。このどうでもいい空も、彼女との日々を並べるとより晴れ渡るようだ。とくにそれは神々しくなく、反って騒がしいほどに楽しい。けれどもしも視界の隅で踊っているのが自称親友ではなく彼女であれば、どれほど気分が良いだろうか。


 「おい、今、霞さん僕のこと見たんだけど!」こそこそとする前の席。

 「まじかよ。羨まし――」こそこそとする幸運にも友人と隣りの席になって喜んでいた席。

 「俺が学校で一番美しい女神様と実はうんぬんかんたら!!!」


 俺はそれら鼓膜を破かんあまりに露わにした。記憶がどうあっても、この席を他愛もないクラス男児に譲るつもりはない。決してない。社会科教師のふさふさに「座りなさい」と云われ、座ってやったけれど、決してない。


 「俺と違う、寒い夏を知るがいい」


 俺はその調子に乗った、腐った冷凍ミカン二つを睨むのであった。霞京子はそれで満足げにクスクスと笑った。青い空の彼方の彼女は不機嫌に頬を膨らました。あれ、なんか頭がズキズキしてきたぞい。



 俺は努めて霞京子との仲を深めようとした。彼女もそうだった。夏休みももうすぐそこまで来ていたから余計にそうだったかもしれない。あの茶髪の悪魔のせいで困難を極めているが。

 たとえばたまには勉強を放ったらかしにしようと俺が提案した放課後。彼女は「最近、駅前に面白そうなお店ができたよ」と進んで受け入れてくれそうなまだ昼のような夕に、あの悪魔はやってくるのです。


 「喫茶店か。こう云うところ苦手なんだよな」

 「そうだったの……」霞京子はおもむろにしょんぼりとする。

 「あっ、違う。得意だった!」

 「ふふ。冗談よ。私がエスコートするから、安心していいよ」


 霞京子は愛らしく笑って喫茶店のベルを鳴らした。俺はどこか情けなくなりそうで、彼女が店員に色々と話している間にちょうど良さそうなところを見つけ、風鈴を鳴らした。オシャレに表現しようとして風鈴でそう例えたが、ほんとうのところは、風鈴の音がいい香りじみていたからそれに釣られただけである。

 霞京子は嬉しそうに微笑むも、それが意図的ではなくとも、俺にはどこか子供を見る母親じみて気になった。だから俺は自らを執事と装って、彼女にひざまついた。彼女はそれも笑ったけれど、これは至って上品に冗談じみたものだった。同級生にみせる楽しいものだった。


 「よし、今日はうまく行きそうだ」

 「一体何がかしら?」

 「ふっ!?」

 「ふふふ」


 あくまで彼女はお嬢様のふりをしていただろうか。たゆみなく俺で遊ぶつもりだった。この前の朝の仕返しでもあろうか。そう思い返すと、ちょっと彼女が怖くなって、彼女の手が俺の手に触れる前に、俺が彼女の手を握った。彼女は驚いた顔をする。しめたと俺は笑った。彼女はややむっとする。そうであっても俺は引っ張り、風鈴の鳴るところへ座った。もちろん俺は執事であるので、そのむっとした彼女を、わざとらしくお嬢様扱いして先に座らせた。彼女はそれをお子様扱いされたと思ったか、頬の皴を深くなろうとしたものの、冷静に冷めて、反って大人らしく俺に付き合った。俺はそうであっても、彼女の無理のある冷静さに気づいていたら満足して座った。

 そうしていい気分でメニューを開くと「うわっ!」俺はびっくりした。メニューの画に記憶の少女のじとーっと気に入らなそうな顔が浮かんできたのだ。というかシーマンの顔のごとく、メニューにその顔があった。メニューウーマンだった。


 「どうしたの?」

 「なんでも」

 「顔色悪いよ?」

 「ははは……」


 メニューウーマンはするとニコニコして「どこでも一緒だよ!」という感じである。俺の胃は引き攣るばかりだった。

 こうしてせっかく彼女に案内された喫茶店もこの胃のせいで楽しめず、その感想をうまく広げられず、彼女との間は進展しなかった。ことあるごとにこんな風に彼女が浮かんできては妨げてくるのが通例である。

 こうなるとメニューウーマンを毛嫌いするものだろうか。ところが俺はむしろこの素晴らしい日常への違和感が強まっていった。どことなく電柱の傾きが釣り合わなかったのだ、記憶の色々と。どうしても夏の風と汗の触れる肌の感覚がおかしかったのだ、数多の日常の果てに。空に広がるグラデーションの奥行きに目は正直だったのだ、この数日間は。彼女が現れるたびに違和感は大きくなっていった。

 俺はついにとある放課後。彼女に適当な理由をつけて、一人でその気持ちを整理しようとした。ここぞとばかりに自称親友が絡んできたのも無視し、俺は青い夕暮れの狭い路を彷徨った。

 蝉の鳴き声が遠く感じられるほどに静かであった。日常の景色が遠ざかっていくくらいに寂しくもあった。彼女の気持ちを断ったとき、非日常の中に溶け込むのをわくわくしてたはずなのに、いざこうなると自分の弱さが露わになったか、知らない真っ暗な道を歩いているようで不安になる。ひさびさに一人になったなと、忙しない日常を顧みてもいるのに、それよりも大きなこの不安が迫って止まない。

 ぐるぐるとそこらを回っているうちに「ガァー!」と烏の声が甲高く鳴いて驚かされた。電線の絡むところを見上げれば、すっかり夕焼け模様が広がる。されどまたここには寂しさの色が赤くなく、寂しくあっても赤ではなく真っ黒であって、故郷の心の解けるような夕の温度感は無い。差し迫る暗黒な夜を恐れる気持ちのほうが強かった。

 思い返せば整理するつもりでいたのに混乱するばかりだった。俺は急いで家に帰ろうとした。それが知っているはずなのに景色が混沌としていて、戸惑った。記憶では間違いない道も、感覚的には乖離して、つま先の行き場に迷う。どちらを信じるか、こうなるとスマホのマップも中てにならず、そもそも故郷なのにそれを見れば負けになるというどうでもいいプライドもあったけれど、どちらにしても決断すべきは頼りない記憶か、強烈なまでにぼんやりとした感覚である――俺は感覚を選んだ。

 こういうところが勉強ができない由縁だろう。散々勉強をしても、方程式の指し示す答えよりも大して研ぎ澄まされていない宗教的な感覚を信じてしまうのだから。その感覚がその教えの通りに景色を導いてくれればいいのだが、俺の足がぶつかったのは行き止まりだった。それもただの行き止まりではない。教祖様だけが楽しむ景色が広がる目の当たりにしたゆえの、限界だった。他に言い換えれば、身分の差によるどうしても埋められない理不尽だろう――この前に路は続いていた。ただ透明な壁が俺がそこに行かせないのだった。


 「ゲームかよ。ゲームかよ??」


 オープンワールドが主流になった現代においては珍しい、世界の壁じみたものが、つま先にぶつかったのだ。信じられないだろう。俺もベタベタと手で触って、頬を擦りつけるまではもちろんそうだった。間違いなくここには見えない壁がある。触覚が嘘をついていないのなら、視覚もそうでないのなら、あるいはこの作者が――ごほんごほん――とにかくそこには嘘だろ? この壁は透明だぞ! と蹴破れない大きな限界があった。

 自分の感覚が嘘をついていないとわかるまでペタペタ、ペロペロと触って、ここの母の味噌汁と似た味がしたから確信した。この壁は実在する。

 そう確かめている間に夜は妖怪でもでそうなくらい真っ暗になった。それを鳴ったスマホの灯りが眩しくするも、これも俺を怖がらすだけだった。通知は妹から。そう妹だ。この壁のごとく、信じがたくなってしまった妹だった。妖怪でも出そうだ。それが出たのかもしれない。同時に俺はその通知の「もうご飯できてるよ! どこにいるの!」から自分の行き場を失ったと気づかされた。家族が信用ならないのなら、どこに帰ればいいのだろう。

 そうはあってもこの確信は自分のもの。俺はスマホと一緒にその心をポケットに忍ばせ、根強い記憶のままに帰路を辿った。

 実証を伴ったか、やはりマンションの404号室までつま先が滞らなかったから、俺はさらに記憶を抱きしめた。妹と母の見慣れない顔と、しばらく見ない顔が同時に浮かんできたとき、今まであった感覚はその相互で逆転した気がした。自称家族のわからない様子がそこにあったから、当時のガリレオが抱いたのと同じ気分になったかもしれない、邪悪な真実を俺は隠した。



 この強烈な出来事も夏休みが来て、何日も眠る間に薄れていくのが人間の凄いところだろう。この前は嘘だったのだと、寝起きのおぼつかない感覚を引きずったまま、俺は夏休みを謳歌していた。といっても甲子園の退屈な試合を妹と一緒に見ていたりするだけである。気付けば六時くらいになって、テレビの中の空が暗くなり始めたのを感心した。


 「お兄ちゃん、今日、夏祭りだよっ!」

 「えー?」

 「だから! 夏祭り!」

 「ふーん?」


 妹は慣れない浴衣をヒラヒラとしながら俺を囃し立てる。小さな鶴のように美しく幼く可愛らしい。それも鳴き声が蝉みたいだから気のせいだろうとテレビを見れる。


 「お兄ちゃん!」

 「夏祭り? 花火大会? 甲子園のほうがおもしろいだろー、ほら、延長戦だぁー」

 「お兄ちゃん、そんなに甲子園に興味ないでしょ!」

 「甲子園の砂も土手の砂も同じだろ? そういうことだ」

 「全然興味ないじゃん!! ほら、行こう!」


 妹はか弱いままにそのふわふわした手で俺を引っ張る。でもなかなかカブは抜けません。可愛いだけじゃダメですか? って訊かれてもこいつは妹だからダメなんです。野球男児のほうが可愛いまである。それほどに適当だった。

 「ピンポーン!」と鳴ったとき、著しく気象は変わった。鳴ったのがそれは彼女の可愛らしい声だったからだ。耳の奥が熱して、急いで振り返れば、なんと浴衣姿の彼女がそこにいるではないか。俺は妹の呆然とする手を振り払い、霞京子の麗しい浴衣姿の前に謁見した。


 「花火大会に行きましょう!」

 「ふふ、まずはあなたも着替えなさいね」


 彼女は慣れた様子で俺を躱した。俺はそのままの勢いで母に「どこにあんねん! 服!」とそれ用の服がどこにあるのか叫ぶのであった。家が騒がしくなったのは妹よりも俺のせいだった。夏休みの親戚の家の蒸し暑い、子供が騒々しいのに近いものは、俺のせいでした。霞京子は珍しそうな顔で一連を部屋の外からうかがっていた。

 花火大会はあまり感想が無い。妹と逸れ、彼女と二人きりになったと思ったら屋台の人混みに迷子になってしまった。そのときに茶髪の女の子の影がどこかに見えて、それを追っているうちに花火が上がってしまった。だけである。しょぼくれた一人の土手を彼女と妹が見つけてくれて、一緒に夜空の花火を浴びただけだ。


 「どうしたの。花火は嫌いだった?」彼女は俺の顔色を見る。

 「ごめん。そうじゃない」


 俺は突き放すように答えていた。彼女はこれから何も言わなかった。

 彼女も驚いているだろう。あれだけ自分の姿に喜んでくれたのにどうして静まり返ったのか。俺も自分自身そうだった。会場の灯りを浴びるたび、屋台の並ぶ景色に染まるたび、どうしても記憶の中の女の子が過って止まない。失礼とわかっていても彼女よりもあの女の子のことばかり考えてしまっていた。だから感想が無い。ここでの彼女との記憶はほとんどないのだから。

 妹は何かを察したのか、俺と彼女を置いて先に帰った。俺と彼女はその後をゆっくりと歩いていった。歩き疲れた足音が二つ鳴り響く夜道はひどく凍てついていた。


 「今日は涼しいわね」


 彼女がそう一言だけ。俺はなにも返さない。

 記憶の中の少女のせいで色々なきっかけを失って、そのたびに少女を恨んでいたりもしたが、このときはそれも息を潜めていた。慣れてしまったのだと思った。それを悲しくも思いもした。しかし彼女のこの一言にあまり驚かなかったから、それが全てなのだろう。さっきまであった恋は花火とともに消え去ったのだ。

 それから間もない夜のこと。いつものように夢の中、記憶を占っていた、さめざめと青暗い自室。ドアが俺の寝息に紛れるつもりで開いた。眠りが浅かったらしい。俺はその音で目が覚めた。至って不安もなく、俺は半身を起こして目を擦った。たとえ強盗であっても、殴られれば幽霊同様に仕方がないだろうと、やる気はない。

 妹だった。枕を担いだ妹がそこに突っ立っていた。「なにをしてる?」と俺が訊く。「ね、眠れないの!」と妹は声を震わす。怖い映画を見たらしい。中学生にもなってお兄ちゃんと一緒に寝たがるとは、健全ではないと自負しつつ、俺は隣りをやんわりと開けた。


 「お、お兄ちゃんのエッチ!」


 どうやらジェイソンよりもお兄ちゃんのほうが怖いらしい。枕を俺の顔面にストレートして、自分の部屋に戻ってしまった。せっかく付き合ってやろうとしたのに、妹は勝手だ。今のは見なかったことにしようと、俺は二度寝するのであった。



 彼女との日々はこの慣れた朝のごとく、昨晩の妹も幻の、いつもの妹が居座る朝食のごとく、変わり映えしない。夏休みも今日で終わって、つまらない日常が帰って来るのでした。


 「理、鞄忘れてんよ!」


 母に注意されてから俺は自分が男子高校生であることを思い出し、妹と一緒に朝を渡るのでした。昨晩のせいか、今日は眠気が強く残る。うつつとしていたら、彼女がすでに隣に居てびっくりした。妹がいなくなっていてびっくりした。


 「寝不足? ちゃんと寝ないとダメだよ」

 「まぁどうせ授業中寝るし」

 「なんのために学校に行っているのかしら」

 「なんのためでもないな」


 俺が欠伸をする。彼女は退屈そうだった。

 それから放課後、今日は彼女から用事があると云われ、俺は一人で家に帰るのでした。校庭の運動部の張り切る様子がどこか羨ましく、懐かしい夏と秋の間の空、俺は足りない感情を引っ張って歩く。彼女への恋心が薄れたものの、やっぱり彼女がいないと少し彼女が気になる。

 すっかり気分は春と同じ。葉の散るところに何かしらの出会いを望む、哀れな男子高校生に逆戻りだった。そのふらっとした道の先にこれまた珍しい蝶ネクタイの白髪の男がいた。道路の真ん中で奇妙に突っ立っていた。見たところ、どこかの執事のようだ。現実に執事なんているものなのかと、俺は関心しながら横を通り過ぎようとした。その視線をおもむろに気にしたのか、執事はぎょっと俺に顔を迫らせた。


 「すいません。ハンサムボーイが珍しくて」

 「え、ええ?」

 「いえいえ、謝る必要はありません。とりあえず伺いたいのです」

 「うーん? 何を?」

 「あなた、今日、調子悪くありませんか?」


 読めない。この執事は何がしたいのか。俺はこの蝶ネクタイを気味悪がって無視して帰ろうとした。それがこの執事、さらにおかしい。その俺の肩をガッと掴んでまた訊いてきた。


 「今日、調子悪くありませんか?」

 「悪くない。急いでるんで」

 「そうですか」


 出会いを望むにしてもこんな変人じゃ話にならない。せめてメイドならまだしも執事は需要が無い。俺はそう証言を深めながら曲がり角を曲がろうとした。ぶつかった。誰だ誰だと、相手を見ればなんとまた執事だった。同じ人だった。


 「今日、調子悪くありませんか?」


 何なんだこの人は。さっきまで後ろにいたはずが、前にいる、気味が悪い。俺は見なかったことにして次の曲がり角を曲がる。注意して曲がれば何もあたらない。俺は普通に家に帰りたいだけなんだ。こうなれば。

 そうもいかないらしい。工事現場がちょうどそこにあったと思ったら、棒を振るっているヘルメットの男は蝶ネクタイをしていた。執事だ。


 「今日、調子悪くありませんか?」


 なるほど。だんだん気持ちが悪くなってきた。悪い夢を見ているのだろうか。俺は走った。さっさと家に帰って眠りたくなった。それからはタクシー運転手のくせに道を訊いてきた執事、ゴミ収集車を暴走させて電柱を二三本折った執事、捨て猫を拾って躾し始めた執事、アンドソーオン。無数の執事に出会った。質より量で勝負しているのかってくらい執事がエンカウントする。

 木々生い茂る川辺まで来て、このまま家に帰ったら危ないだろう、俺はこの執事をどうにかしようと考えた。とりあえず近くの交番に行くべきだ。その交番の警察官はもちろん執事。俺は途端に次へ、面識のある肉屋の店長に助けを求めるも、どうしてか店主が執事、ならばと俺は自称親友の佐藤の家まで走ってピンポンすると、その親父が執事。もうわけがわかんないよ。

 俺は逃げ回った。執事はもう化けるのも忙しがったか、追いかけてきた。そうしているうちに、俺はまた行き止まり。透明な壁にぶつかった。ドンドンと叩いても音すらならない透明さ。


 「やはり調子が悪いみたいですね」


 執事はじりじりと俺に寄りながら髭を器用に揺らす。滑らかに動く髭は骨でも入ってるのかってくらい不審だった。俺はこの不審者に抗う。


 「何が目的だ」

 「そう怖がりなさらずとも。いいえ、じっとしていてくれれば」

 「なにを」


 執事はギラギラと目を光らせる。その手には注射器。じろりと針の先から液体が垂れていた。やはりこの執事、頭がおかしい。俺は出来る限りに執事へ殴りかかった。そうでもしなければあれに刺されてどうにかされちゃうのだ。エ〇同人誌みたいに。

 やはり執事は強い。ふらっと躱して俺を捕まえた。腕力もさながら、暴れてもどうしようもない。「じっとしてくださいねぇ」と動物医のペットへ注射するように俺を押さえる。俺は猫でも犬でもない。がしかし、その気持ちが分かった気がした。わかったので、通りがかった猫を指差して「あっ、あそこに俺より調子が悪そうな猫が!」と叫べば、やはり執事はおかしい。真っ先にそっちへ飛び掛かった。


 「阿保め!」

 「ぬわっ、私としたことが!」


 俺は曲がり角を左右左左左に躱して、バッタリ、執事が先回りしていた。「なんでいるんだよ!」と俺が叫ぶと執事は「ええ?」と髭を窄めた。俺はまた右左右右右に躱すと、またバッタリ、執事が先回りしていた。「なんで俺がどこに居るってわかるんだ!」と俺が叫ぶと執事は「あなたのほうが足が速いだけですぞ」とそう云いつつも自慢げに髭を踊らせた。

 そんなこんなしている間に、俺はなんとか執事を巻いた。実はさっきのグルグル回ったのは執事を待ち伏せさせるための罠で、その逆をとって俺は逃げたのだ。とはいえ無茶苦茶やったから、ここがどこかのかわからなくなってしまった。ただ、ここにも透明な壁がある。

 俺はたまに不思議なことを思う。それも記憶の世界が嘘のように遠くなって、真実がわからなくなってから、特にであるが、実はたとえば東京はほんとうには無くて、東京の模型がこの街の端っこにあるだけではないかという変な妄想だ。世界はほんとうはかなり小さく、情報の諸々がそれを大きくみせているだけではないか。これは俺がほとんどそういう場所に行かないから抱くだけで、というか行けないから抱いたのかもしれん、大した説ではない。

 ともかく俺はこの透明な壁の実体をペタペタとまた確認しつつ、帰ろうとした。またお得意の見なかったことにしようとした。それがガラリと、感触の撫でたところ、何か透明なスイッチを押してしまって、眩い光が道の先に露わになった。


 「もしかして出口なのか?」


 俺は思わず口にして、その光の中に触れようとした。この生活を恨んだわけでも、記憶の中の日常に憧れたわけではない。ただ、好奇心と執事への恐怖があった。とにかくこの先に行けばしばらく楽になれるのではないかという安易な直感である――それが、


 「理君?」


 後ろに彼女がいたとき、俺はそうもできなくなった。顔の血管の青いところが少し遠いここからでもわかるくらいに、怖い顔で俺を睨んでいた。


 「霞……さん?」


 彼女は何度か「どうして」と呟くだけで、俺をどうしようともしない。俺はそれが人違いだろうと、光の中へ入ろうとするも、彼女をこのままにする不安が過った。今の彼女はあまりに様子が違っていた。彼女は何者なのだろうか。

 俺は初めてこの現実が、それ以上の意味を持つことを知った。重苦しい壁が彼女の形をして俺を塞いでいたのだ。俺が逃げたくとも、彼女が逃がしたくはない。そういった切迫した心境を彼女は俺との間に引いたのだ。すなわち恋の終わり。俺が彼女へ抱いた幻想が、彼女のこの態度によって、もう逃れられずに、破壊された。彼女の俺に向ける目はまさしく異常、狂人、綻びた美人ほど怖ろしいものはない。

 そうして彼女と対峙していたところに、執事が木の葉を吹き飛ばす勢いで走ってきた。とんでもないスピードで俺のほう、また彼女の背後に迫っていた。

 俺は驚くよりも先に光の中へ入ろうとした。それが少し引っ掛かる、彼女のことだ。彼女は置いていっていいのか。考えるよりも明らかな気もするこの難題は、すなわち俺の彼女への下心に他ならない。しかしその下心は恋ではない、彼女という価値が勿体ないだけだ。彼女が唯一無二の美の女神だからだ。


 「ねぇ、理君。私と恋人になりませんか。私と付き合いませんか」


 今までの妖怪がどこかにいったのか、霞京子はわざとらしく恋する乙女のように恥じらいながら俺に告白した。どういうことなのか。俺は困惑した。その言葉の意味そのままではなく、彼女は明らかに俺がこの先に行くことを嫌がっていた。つまり彼女は俺に執事に刺されろと告白したのだ。それをしかもハニートラップをして、その美しさを安売りして。むしろ俺はその、彼女がこんな手を使わなければならないことに戸惑いを隠せなかった。同時にまた怖くなった、これほどの女性ですら持つ残酷なまでも執着心を。

 そういった心境は最終的に嫌悪に終着した。俺の返事を急かす彼女の皴は不気味に震えていた。それを観察しているうちに、彼女は俺を騙すために俺の少なからずある恋心を利用しようとしているだけだと気づいた。その上で困惑させることさえ、彼女の掌の上だとも。これほど馬鹿にされて不愉快にならない訳が無い。俺は彼女にさっぱりと


 「断る」


 と云い捨てた。

 こうすると俺は反ってフラれた気分になった。彼女との恋の終わりを嘆きたくなった。今までの抱いたものが彼女の偽りであると知って虚しくもなった。

 そしてそのまま彼女を放って、逃げようとした。そのはずが彼女は思いのほか、呆然として涙を頬になぞらせていた。決してわざとではない、彼女も今、失恋をしていた。いやきっと自分自身に失望したのだろう。

 彼女の手を引っ張った。執事とこの偽りの世界から彼女を奪い去ってやろうとした。「どうして?」と彼女が声を震わすも、その理由は公言できるものではない。彼女を連れ去って一緒に生まれ変わりたくなったという幻想が少し、初めて弱弱しくなった彼女のもっと弱いところを露わにしたいという劣情がその大半だからだ。俺は「なんかこう急激に湧きました」と壊れたお風呂のアナウンスみたいに濁した。べつに嘘ではない。恋心が抑えられないほどに再発したのだから。

 しかし光の中逃げ込んだときの震え怖がりつつも嬉しそうに微笑む彼女の、その涙の輝きは、どの星よりも神秘的に違いなかった。

 光の果ては超巨大ドームの外、電線やいろいろがほっぽり出したままの木造のままの狭い機械室だった。適当に大きな機械が並んでは荒熱とギコギコした騒音をまき散らしていた。


 「いや、にしても暑い」


 それに新鮮な夏の熱さがそこら中に漂っていた。この感覚が蘇って、この世界が現実であるとわかったものの、暑すぎる。俺はとっさに汗だくになって息を切らし、床に座っていた霞京子へ「どっかに冷房とかない? コンビニとか」と訊いた。

 その一言でロマンスが溶けてしまったのだろうか。彼女はムッと汗ばんだ髪を捲って、俺に一発背負い投げを決めると、すかさず懐から取り出した注射器を俺に突き刺した。


 「こんな運命なんてあんまりだわ!!」


 俺はその真意がわからないまま、麻酔のままに眠るのであった。せっかく独り占めしようとしたのに、彼女にまたフラれてしまったのか。と、健やかに目を閉じました。あまんじて彼女に引きずられました。

 これが鈍感系主人公の性なのだろう。闇へと続く扉は桜の香りがした。

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