終わる世界の僕と君
朝日が蜜柑のネットのカーテンが勢いよく開いたと思えば眩しい。ガラガラと棒をなぞるそれが蛇のように、また蛇のようにその犯人が俺に寄ってきて、体を揺さぶってきた。
「お兄ちゃん、起きて~! 遅刻しちゃうよ!」
頬を撫でるようなその可愛らしい声を無視して、寝返りうとうとすると、妹がそれをひっくり返して俺は天井に頭をぶつけた。翻って布団の布団になったら、申し訳なさそうな妹の顔がその上に重くのしかかった気がして、見ていられなくなった。俺は「わかった。起きるから、そんな顔するなよ」と励ました。そしたら妹はだんだんと頬を嬉しくして、ぴょんぴょん跳ねながら「朝ご飯はポークソテーだよっ!」とリビングへ行った。
「朝から忙しないな。二度寝しよ」
またどことなく現実的じゃなかった気がして、誤魔化そうとした。そう布団を整えて横たわろうとした。それがいきなり頭を横からキツツキに突かれるように痛くなってそうもしていられなくなった。俺は錠剤を求めてリビングへ走った。
それからどこだどこだと、リビングを回っている間にキツツキはどこかへ飛び去ったようだ。母親が「理、仮病はさせまへんよ」と疑り深く叱咤するから、それが今度朝のゴミを荒す烏のように騒がしくなって、俺はさっさと家を出たくなって、ご飯を食べることにした。誰が朝のゴミじゃい。
朝の胃袋をハンマーで殴らんばかりの鬼畜なポークソテーが並ぶところに座った。元気な妹の、もごもごとまん丸の目を転がして、色々のおかずを箸から口へ運ぶ、その姿が妙に眩しく、俺は呆けた。眠気とは違った、中学生にもなって食い意地の凄い妹のそれ気にしないところに感心したのだ。
「お兄ちゃん、食欲ないの? ちゃんと食べないとまた風邪ひくよ!」
「風邪だからかもな」
「む~!」
妹は名残惜しそうに箸で掴んだそれを俺の口にぶつけてきた。開けよ食えよと、俺の閉まった口をおかずで何度もノックする。だんだんとそのノックが、ボクシングじみて強力になってきて、俺は泣く泣くその揚げ餃子を食べました。美味しいけれど、胃がボディーブロー受けたように引き攣っています。
すると妹は満足そうに、また嬉しそうに、ツインテールを揺らし、次はヒレカツ、次は焼き鳥と、俺の口に詰めてきた。それでさっきよりも風っぽい顔になったのをうんうんと頷いて満足げにした。
「吐いていい?」
「食事中に吐くなんてあきまへんで!」
「あんたも鬼畜か」
ある春の日、俺は腹の中をパンパンにして、何日目かの革靴を履いた。その前にトイレで吐いた。いつもと変わらず元気な妹と一緒に鞄を揺らし、学校へ向かうのであった。その穏やかな太陽、どこまでも広がる空、桜の花枝靡く川沿いを渡って、俺はふつふつとした気分でいた。喜び、悲しみ、あるいは怒りだろうか。春の風にそれらを煽られ、何かを期待したような気分でいた。
*
妹の投げキッスをふらりと躱して別れ、学校の門までやってくると、桜の二本が花弁を散らして生徒らを出迎えていた。どことなくそれを潜ろうとすると気持ちが桜より軽くなったか上がって、もう緑かがっていると見えるとそれよりは重たくなった。それも何日か潜ってきたから慣れたと思っても、あの緑は名残惜しく、新生活の落ち着きだした校門の生徒らに、俺はそれを重ねた。同時にふつふつしたそれも水面に横たわろうとした。よく見れば一本だけ桜の枝は折れていた、よく見ないで俺はその枝を踏んでまた折っていた。
そんな今日の、門の奥から、恋の息吹が舞った。地面に落ちた花弁が舞い上がって春を作るように、あるいはそれが形どったような、美貌の主が歩いてきた。彼女の小さな足が歩むごとに幼き妖艶芳しき、制服揺れるたびに少ないその皴の足らないところにもの惜しんでしまう魅了が浮かんで、白く透明な肌はそれ以上に風と共にたしかに俺の心臓掴み、艶ある長い髪の靡くはその身体がどれよりも肌触り良さそうに見えた。見るもの男女構わず見惚れ、そこに嫉妬や憧れはなく、ただそこにある完全な美しさに心奪われていた。俺もその一人だった。
それが俺のちょうど立ち尽くした門の正面まで来ると、彼女の小さき背が前にして可愛く見えて、さらに彼女が俺を見て微笑んで、俺は湧きたつ感情を覚えた。
彼女は俺の横を通って門の桜の下で気持ちのいい声で挨拶をした。桜の緑さえ気づかない、気づいてもどうでもよくなる、魅惑の声だった。そうなって俺の心にあった桜はもういらなくなった。
そんな彼女に見惚れる肩にちょうどわざとらしく叩く分厚い声が邪魔をした。見なくてもわかる。親友の佐藤だった。佐藤は俺の顔を面白そうに見ると「何かあったのかね、少年よ」と偉そうにした。俺は「なんだよ。邪魔すんな、帰れ」とぞんざいに扱う。佐藤は「俺というものがありながら~」と目を変な形にし楽しげに嘆いた。それからまた肩をトンと叩いて、俺を教室へ運んだ。
「あの子、可愛いよな。どこのクラスなんだろな。間違いなくこの学校で一番可愛い子だぜ」佐藤はニヤニヤする。
「いや、世界一、宇宙一だろ」俺は阿保の弁を正す。
「間違いない」
佐藤はそれでもニヤニヤした。
*
朝の教室の少ない時間を佐藤と適当に話していると、針が二三ミリズレてから教師がやってきた。二十代前半のポニーテイルをくらくら揺らす、大人にしてはまだ肌が柔らかそうな巨乳の女教師だ。顔も同じく幼げに、身長も同じくらいだからか、俺たちにとってはアイドルじみて、佐藤はその入場を拍手しながら迎える。女教師はそれを煙たげに、けれどもどこか嬉しそうに「ほら、早く席について~」と教室の風をほぐす。
佐藤はサ行だから一番前にいること、うるさいことに、女教師はうんざりしつつ楽しげにホームルームを進めた。なお俺は浦嶋のウ行だから、例のごとく、窓側の一番後ろだった。今までは女教師の弛んだ胸をチラチラと見て暇をつぶしていたけれど、今日の桜の緑は特にここからよく見えたから、ぼんやりしていた。それでも大きく揺れたときは目の端でそれを追っていた。男子高校生の本能である。
女教師のそのどうでもよくなった声がまた一つ、知らない単語を語ると、難しそうだから毛嫌いして、けれどそのすぐにどうしても知りたい声が交って、俺は首を七百何度か回して、そっちを見た。
「始めまして。霞京子です。京都から転校してきました。よろしくお願いします」
「じゃあ霞さんはあそこ、一番後ろの席ね!」
「わかりました」
転校生はまごうことなく門で見た美少女だった。たとえそれが見間違いであっても、彼女はクラスメイトが眺める席の間をすらっと通って、俺の隣まで来て座ったから気づかないはずがなかった。彼女は変わらない微笑みをして「よろしくね。浦嶋君」と挨拶してきた。あの耳をこびりついてなお離したくなかった挨拶が、名前付きになってやってきたから、あっちは放って、こっちを胸に刻んだ。俺は彼女の美しさと鳴りやまない鼓動にたじたじになって、挨拶が遅れた。「よろしく」と小声でしか言えなかった。緊張しすぎていた。
しかしその後は雄弁だった。休み時間の彼女のいないところ、佐藤らが集まってくるところでは、自分の運の良さを自慢した。まるで自分が彼女の特別な存在であるかのように強くみせた。佐藤らは羨ましがった。だからもっと調子に乗った。
そこに彼女がやってくるとまた萎縮した。すると佐藤らはわざとらしく笑いをこらえた。また「頑張れ頑張れ」と変に応援しだした。俺は恥ずかしく、それより申し訳なくなった。彼女が気にして頬を薄赤にしていていたから。けれどそれがまた可愛らしく、色々邪気も混同した気分になった。あまりに混乱したから俺は「頭を冷やしてくる」と窓から飛び降りようとした。「ここは三階だぞ!」と佐藤は俺を押さえた。頭はみ出てぶつかる風に冷静になったから、俺は座った。ちょうど彼女も横に座っていた。俺は驚き、膝からバク宙して窓から飛び降りた。死ぬかと思った。
*
休み時間は佐藤達とつるみ、授業中は彼女とたまに話して過ごした。彼女は包帯だらけの俺を見て、心配そうにした。佐藤達の笑うのに不満げにもした。しかしそれがきっかけで、彼女とまともな会話
ができるようになったから、俺はそこそこしか恨んでいなかった。それが彼女のほうが恨ましくしていて、俺は便乗して適当な悪口を云った。例えば彼女が「佐藤君は勢い良いだけね」と呟くと、俺は「あいつは勢いだけで生きてるからな。あいつもいつかここから落ちるだろう」と付け足した。そうすると彼女はクスクスと笑った。佐藤はその視線を感じたか、こっちを見てきた。そのときは二人して窓の向こうへそっぽを向いた。それもどこか面白くなって、二人で笑った。
彼女は優しかった。俺が勉強のできないところ、英語の教師に色々聞かれたときは彼女がこっそり教えてくれた。俺が居眠りしてしまったときに、歴史の教師に説教されたときは「眠たくなるのは頑張ってるからだよ」と彼女が優しく慰めてくれた。それで俺が眠気を我慢しているときは、わざとではないと思うが、彼女がたびたび「あとちょっとで授業終わるよ~」と励ましてくれた。俺はもはやずっと起立したい気持ちになった。
そうやって過ごすうちに怪我は治っていき、代わりに彼女と仲良くなっていった。帰りも一緒になっていた。それが五月くらいから彼女の剣道部が忙しくなりはじめ、その休みの日、だいたい水曜日と試験の近い日だけ一緒に帰るようになっていた。すっかり緑色になった夕暮れの長い影を踏むようになって、少しばかり寂しくなった。剣道部にいる男共と仲良くなりすぎていないかなど、心配したりもした。
ある水曜日の夕方。俺は彼女と帰っていた。横断歩道の信号が今日はやけに青ばかりで、冗談であるが、事故の一つでも起こってほしかった。彼女はその焦る顔を見たのだろう、またその意味を察したのだろう、嬉しそうに微笑んで頬に夕日の赤を染めた。自転車で通り過ぎる高校生、信号に草臥れる車の中のサラリーマン、白々しい線を踏んだ純白の影。ここを渡り切ると彼女と別れなければいけないだけに、今の恋だけに、俺はまた寂しくなっていた。彼女のその顔が向かいのビルの陰に入って暗くなるほどに、冷めていきそうでもあった。
「ずっと赤信号ならいいのにね」
彼女は最後の一つの線を跨ぐとき、小さくそう呟いた。俺は思わずその言葉の甘さに立ち尽くした。酔いしれた。すると彼女は「冗談だよ」と云って、俺の止まった手を握って引っ張り笑った。そこに彼女がいるから俺は信号を渡った。
それから寂しさを隠すような顔を作って手を振って、いつもの一人の道を戻った。でもその道はいつもより短く、温かい気がして、それすらも長く続いてほしいと願った。その夕日が、遅い歩幅を待たず紫に染まっていくと、妹に怒られると寒気がして走った。暗証番号を押して、エレベーターを呼んで、404号室の鍵を回した。
*
俺はいわゆる人気ゲーム実況者だった。ようつべに動画を投稿しては、たまに配信をしていた。持ち前の凄腕プレイテクニックを毎日見せているうちに、気づいたら有名人になっていた。我ながら鼻が高く、それ以上に親指が痛い日もあった。
最近はその親指もぐっすり寝ていた。ゲームよりも勉強を頑張るようになったからだ。彼女の賢さを横に見ているうちに、俺もそうなりたいと憧れたのだ。彼女の横に居るべき人間とは、同じ様にあるべきと感じた。あと彼女のたまに出る難しい言葉の意味を、彼女の全てをわかりたかったからだ。
そんな変りようをまじかで見ていた妹は、トントンと丁寧にノックするようになって、ドアを小さく開けて、背中にSwitchを隠しながら遊びたさそうに俺を覗く。俺が勉強に集中して、それに気づかないと、ボソッと「お兄ちゃん盗られた」と決まり文句に頬を膨らまし、パタッとドアを閉める。最近はその法則性に気づけるほどに賢くなったから、わざと無視をして、妹で遊んでいる。
俺が人気ゲーム実況者であることは誰も知らない。親友の佐藤はもちろん、彼女もだ。けれどたまにクラスではその名前が出る。俺のことは知らなくてもその名前を知っている人は多い。その話を聞くたびに少し胸が擽られた気分になったり、「下手」などの批判なら落ち込んだ。というかぶちのめしたくなった。
「sima? 失踪したんじゃね?」
こう聞いたときはそのどちらでもなかった。喪失感や虚無感の弱いものがあった。しかし思ったよりもそれが薄弱くて自分で残念になった。おもえばもう一か月近くゲームをしていなかった。見てみればチャンネル登録者数がたしかに減っていた。それでもなお俺は焦らなかった。おそらく隣りに彼女がいる、安心感に染まってしまったからだろう。ゲームなんかよりも彼女のほうが好きになってしまった。
それから数か月経って秋になった。同じ様な日々が続いた。順当に俺の成績は上がって、彼女の横に並んでもおかしくないくらいに偉くなった気がした。特に夏休み明けの模試では全体五十位になって、興奮のあまり外の蝉に蝉の抜け殻を投げ捲った。
俺はその結果を朝、あの横断歩道で待っていた彼女に見せた。至ってクールに、どこぞのなろう系主人公も寒がるほどに余裕気に見せた。けれどあまりに簡単にみせ過ぎたか、彼女は素っ気なく「頑張ってるね」と返すだけだった。俺は彼女と付き合ってもおかしくないように勉強したから、彼女が半ばそれを残念がった気がしてショックだった。心に穴が開いた感触がした。
俺は感情的になっていたのだろう。もう一度その薄っぺらい紙を、今度は自慢げに見せた。わかっていた。彼女にとってそんなものは大したことないと。彼女から返ってきたのは「五十位も最下位も一緒でしょ」という嫉妬じみた何かだった。
この日から彼女は冷たくなったと思う。帰り道も秋を忘れた冬より寒くなった。彼女はつねに怒っているような態度をした。たまに「なんでそうなるの?」と困惑したように言葉を漏らした。俺はそのたびに心配になって気の利いたことを云ったつもりでいたが、彼女は決まって無視をした。俺は何か間違えていると示されていた。されど親友、妹、母親の俺の真面目さに褒めるところに、それが間違っている気はしない。俺は混乱していた。そのあまりに持っていたはずの恋心さえ疑うようになった。それが嘘であってほしいとまた勉強に熱中した。
*
俺はこうした中、彼女と疎遠になるのを恐れた。そのときはもう恋心よりも彼女への執着心のほうが強く、その大半は彼女を大金とみなす亡者になっていた。彼女との関係を失ってしまえば、他の男と同じ、いや、さらに嫌われてしまったのならその寵愛は彼方のもの、他よりも下だろう。俺はその惨めさを恐れた。
俺はある朝、その交差点にて、彼女に告白した。彼女との距離を取り持つために、乱心のまま、「好きだ」と伝えた。しかし彼女は馬鹿ではないし、鼻がいい。俺の浅はかな欲望などお見通しで、簡単に俺を振った。首を振って小さく「ごめんなさい」と呟いて。
そうなるのはわかりきっていた。ついに彼女との関係が終わった。そう思うと苦しくも、楽になった気がした。もしもならこの交差点に突っ込んでもいい気分だった。ところが彼女は違った。俺の儚い面を見つめたまま、彼女は哀しそうにしていた。まるで彼女がフラれたみたいに。俺は自分が彼女を振ったのかと誤解した。同時に彼女と同じ感情を抱いたかもしれない。どちらにせよ、俺は失恋したのだ。
*
冬に近づいた頃、いつの間にか彼女は学校に来なくなった。俺は心配してLINEや電話もしたが、彼女から応答はなかった。既読だけはあったから、沢山の言葉を連ねたが、意味はなかった。
次第に俺は彼女を忘れるようになった。ある意味、クラスメイトがsimaの話をしなくなったようにそう忘れたように、俺も彼女を忘れた。すっかり空いた彼女の席も今は自分の隣になく、遠かった。黒板をよく見るようになったからか、それも気にしなくなった。
そんなある昼休み、佐藤らと一緒に焼きそばパンを食べていた空下がり。校舎の放送が激しく響いた。
「大地震が、ほんとに地震か? とにかく地震が来ます! 避難してください!」
俺たちは耳を疑った。喉かな校庭に爆弾でも投げる物好きがいるものかと思った。しかしその言葉は嘘ではなかった。たちまち地面は激しく揺れ出し、また空も割れるように崩れていた。太陽が瞬きしたのかというくらい、暗転明転を繰り返し、立っていられない間に地面が引き裂けた。俺たちは校舎丸ごと、いや、高名市まるごと奈落の底へ飲みこまれた。
これが地震であったかどうか、そんなものを考える暇なく、俺たちはその生を中断させられた。




