第8話
「…………殿下」
背後から差し込んでくる小望月の光を背に受け、こっちを見て微笑んでいるのは、会場にいるとばかり思っていたカイ殿下だった。
月の光が髪に落ちて輪郭が光っている。うっすらと見える紫の瞳は、奇麗なのと同時に苛烈にも見えた。
微かに開いた吐き出し窓を押し開き、殿下が部屋に入ってきた。同時に風が流れ込み、両サイドのカーテンが揺れる。
「クフマードのジャガ、ひとつ忠告しておいてやろう、馬鹿のように振舞うなら、もう少し徹底することだ――アンリエッタはどの道やらないが」
彼は悠然と歩いて姉さんのところへ行くと、「誰が横暴だ」と文句を言いつつ、姉さんの頬にキスを落とした。そして、「事実でしょ」と言い返す姉さんの肩を抱き寄せ、クフマードの王子の視線から隠す。
ついでに僕の頭を撫で、横に並んでくださった。
(……殿下のこういうとこ、ほんとお優しい)
それで僕(と子ヤギ)は、殿下と一緒に姉さんをかばう形になったんだ。
「あまり舐めないで欲しいなあ」
「真面目に働いてるように見えないから、それは仕方ないんじゃない」
音も立てずに開かれた入り口の戸、廊下の強い明かりを背後から受けて立っている影はアゾットさん。
「相変わらず手厳しいねえ」
姉さんはいつものように彼に軽口を叩き、彼も普段通り飄々と笑っているけれど、腰の剣に手を添えていた。アゾットさんだとはとても思えないほど目が鋭い。
「……」
殺気の混じった重たい空気のせいで、僕は口の中に溜まった唾もうかつに飲み込めない気分だった。額にはじっとり汗も滲んでくる。
そんな中……
「メエエエ」
とまた鳴くシャロバルグガーデッド……いや、ヤギにこんなことを言うのはなんだけど、少しは空気を読んで欲しい。
「……仕方ない」
そうしてしばらくにらみ合った後、引いたのはクフマードの王子だった。けれど、彼は「だが」と呟き、つっと殿下の後ろの姉さんに視線を移した。
「アンリエッタ――君がいれば何も要らない、逃避行でも、と言ったのは本心なんだ」
私は真面目に君を気に入っていてね、と言って笑った後、彼はひどく真剣な顔をした。
「もし……もし君が私を選んでくれるなら、私は身分も国も捨てて構わな」
「選ばないわ。だってあなた、カイ――カイエンフォール・ミドガルドじゃないもの」
静かな、けれどはっきりした姉さんの声に、クフマードの王子は目を丸くした。
「……なんというか、気を持たす余地さえ残さないんだな」
そして彼は苦笑の後に声を立てて笑い、部屋から去っていった。
「身分に惹かれない、かといって身分を捨てて尽くすってロマンスもいらない、女の好みそうな駆け引きもしないとなると私の手には負えない」
そう言い残して。
去って行く彼をアゾットさんがさりげなく追っていく。
ようやく緊張が解けた僕は、2人の後ろ姿を無言のままなんとなく見送っていて……、
「……って、シャロバルグガーデッド、何してんの!?」
部屋の隅においてあった花(トンプソン爺さんの育てた自慢の花だ!)をモシャモシャと食べ始めた白い小ヤギを慌てて止めに走った。
「やめなってば! 侍女頭がまた騒ぐでしょう!」
これが全然言うことを聞いてくれなくて、僕が必死で引き剥がそうと格闘する後ろ――
「捨てたい、と思うか?」
再び緊張をはらんだ空気に僕はまた息を飲んだ。
思わず振り返れば、姉さんはその殿下に眉を跳ね上げている。そして、すぐに殿下の空気を物ともせず、小さく笑った。
「カイをってことなら、ありえないわ」
けれど、殿下は姉さんのその答えに一瞬泣きそうな笑いを見せて――それからとても痛そうに「この国」と呟いた。
「アンリエッタなら、どこでだってやっていけるだろう? 王太子妃、王后なんて響きが華やかなだけだ。その実、責任も重圧もこの上ない」
姉さんの今は青の瞳はただ黙って殿下を見ている。
「人々にかしずかれ、権力を利用して、大きな顔をして――特権だけを享受して、後は知らないと言える人間ならきっと気にならないだろう。けど、アンリエッタは違うだろう? もらう給料や権利の対価はきっちり払う、そういう風だろう?」
だったらもっと楽に生きる方法があるんだ、俺がこの国の王太子なんかでなきゃ――
静かな、けれど今にも破裂しそうな何かをはらんだ声だった。
「あの王子みたいに、すべてを捨てて、と俺にそう望むか?」
真っ直ぐ、殿下の紫の瞳は姉さんを見ている。ちょっとの表情の動きも見逃さないほど鋭くて、ひたきで、なのにどこか悲しそう、な……。
その瞬間、殿下の不機嫌の理由が腑に落ちた。
殿下は嫉妬してたわけじゃない。あのクフマードの王子の策略が不快だったわけでもない。そりゃ、それぞれ少しずつはあったかもしれないけど、本当の原因は――姉さんのためになんでも、国さえも捨てるっていう、あの言葉を恐れてたんだ。
その殿下の顔を同じ表情で見つめていた姉さんは、困ったように笑った。
「でもカイはミドガルドの王太子じゃない。で、捨てられないんでしょ?」
「……」
やはり同じように困った顔をした殿下に、姉さんは今度はにっこりと微笑んだ。「私もそう。だってそうするように育ってきたんだもの。当たり前じゃない」と。
「いいじゃない、一蓮托生、上等よ。責任は2人で分けて、面倒事も半分こ、そうしたら重圧だって2分の1。そうやってずっと一緒にいて――」
「――楽しいことだけはきっちり2倍……?」
「そ。でないと割に合わないもの」
肩を竦めて見せた姉さんに、殿下は顔を伏せた。不意に髪をぐしゃっとかき上げると、肩を震わせる。笑っているのか、それとも――
「……本当、13年前のあの日、アンリエッタに出会えてよかった」
色んなものを含んでいる声だと僕にすらわかった。それに姉さんは姉さんで、泣き笑いを浮かべた。
「となると、貧乏とお父さんの甲斐性なしに感謝しなきゃってことになっちゃうのかしら? 複雑だわ」
「……清貧に甘んじる性質じゃなかった自分にも感謝したらどうだ」
「……俗物って言ってるのね。ほんと、可愛くなくなったわ」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「あら、誰のせいかしら。心当たりがありすぎて。心の清らかな乙女の私が原因でないことだけは確かだけど」
「いつも言っているだろう、言葉はちゃんと意味を調べてから使え」
多分泣きそうになったのをお互い隠そうとしたのだろう、いつもの応酬を繰り広げていた2人は、それから顔を見合わせて同じタイミングで笑い出した。ひどく楽しそうに。
そして向き合ったまま手を繋ぐと、額をあわせて……
「「ずっと一緒にいるから」」
そう声を揃えて、また笑った。
「……」
平穏無事なんて人生には2人ともならないんだろうけど、と、僕はリードの花を加えたシャロバルグガーデッドを脇に抱え上げて、静かにドアに向かった。
それでも……
「姉さんも殿下もきっと幸せなんだろうな」
ね、お母さん、お母さんもそう思うよね?
音を立てないように閉めたドアを背にしていると、なんだか顔が綻んでくる。どこからか、暑気を含んだ乾いた風が吹いてきて、廊下に灯された火を順に揺らしていった。
もうすぐ僕の姉さんがお嫁に行ってしまう夏がやってくる。
(了)