第7話
広間より数段落とされた、落ち着いた光が降り注ぐ休憩室。
「――ノックぐらいなさったらいかが」
その中央に置かれた絹張りのソファの前で、笑っているのに目は全く笑っていないという表情を見せているのは姉さんだ。ドアを開いて部屋に入ってきた人へと顔を向け、「ご用件は」と声をかける。
「僕が汚してしまったドレスの謝罪に――とでも言うと思うかい、アンリエッタ?」
けれどその人は、冷たい姉さんの目に怯むどころか、くくっと低く笑った。
彼が後ろ手に扉を閉め、カチャリと鍵が音を立てる。
「何をしているか、が問題なのではなく――」
そうして彼は姉さんに悠然と、そして意味深に微笑みかけた。
長身で肩幅の広い、堂々とした体躯の……
「世間に何をしていたと思われるか、が問題――君ほど聡明な人がわからないとは思わないけれどね」
あのクフマードの王子、だった……。
ここは迎賓宮の一室、疲れたり気分の悪くなったりした人が休憩するための部屋だ。
王族用の部屋も他にあるけれど、常々「私はただの婚約者。けじめのないことはしないの。足取られるし」と言っている姉さんは汚されたドレスを替えるために、どうやらいつも使ってるこの部屋に来たらしく……。
って、僕がいるのはその部屋の続きの支度部屋なんだけどね。
一応言っておくけど、怪しいことを企んでるわけじゃないよ? ただシャロバルグガーデッドが宮殿に入り込んでるのを見かけて、『放っておいたら捕まって厨房に回されちゃう、明日の料理はシャロバルグガーデッドの香草……!』って焦って、咄嗟にここに追い込んだんだよ……。
へ? ああ、シャロバルグガーデッドは生後8ヶ月の小ヤギだよ。この間庭師のトンプソン爺さんと話して、宮殿の雑草対策に試しに飼ってみることになったんだ。今馬小屋で凛々しい馬たちの横の房で、ちょんと違和感いっぱいに飼われてる……って、これは今の問題じゃなかった。
「ンメぇ」
「っ、しぃっ」
扉のこちら側で息をつめ、鳴こうとしたシャロバルグガーデッドの口を慌てて押さえる僕は完全な不審者――もっとも戸の隙間から見える、あのクフマードの王子さまほどじゃないと思う。
ゴクリ、と唾を飲み込んで僕は王子を見つめた。
扉の隙間、向こうから棒状に漏れてくる光の中に見える王子は、クフマードの王さまに似て大柄。ただでさえ華奢な姉さんが、彼の前だと本当に小さく見える。
しかもなんていうか、表情から言葉から別人なんだ。言っちゃなんだけどさっきまでバカにしか見えてなかったんだよ、あの人……。
へらへら笑っていた口元は、今は引き締まって皮肉気に笑っている。人がよさそうに垂れていた眉も目じりもきりっと上がっていた。
「つまらないな、もっと驚いてくれるかと思ったのに」
それに姉さんはただ微笑んで返した。
(わ、笑ってる場合じゃないよ、姉さん。だってこれってピンチってやつじゃん……!)
クフマードの王子が1歩姉さんへと踏み出したことで、僕は息を飲んだ。
毛足の長い絨毯のせいもあるのだろう、姉さんに寄って行く彼の足元に音は立たない。僕の呼吸とシャロバルグガーデッドの心臓の音が、ひどく大きく響いている。
「まあいい。目的は君をからかうことじゃない。稀有の才媛と誉れ高きミドガルド国アンリエッタ・スタフォード伯爵令嬢、王太子付執務補佐官を経て、その美貌もあって王太子の婚約者にまで上り詰めた君が、熱心に言い寄られていたクフマードの王子と夜分に密会――世間はこれをどう思うだろうね?」
ねえ、アンリエッタ、と親しげに姉さんの名を呼び、王子はくつくつと笑い声を漏らした。
「それって……」
(姉さん、はめられたってこと? うわ、どうしよう……)
王太子の婚約者が結婚の直前に他国の王子と密会していた――それがどれだけまずいことか、僕にだってわかる。
横の部屋で隠れているだけなのに情けないことに体が震えてきた。それをなんとかしようと、温かいシャロバルグガーデッドの首にしがみつく。
「君のような人に隣国の中枢にいられるのはクフマード、いや、私としては非常に嬉しくないわけだ。まして王后など論外。自国の后は賢く、他国の后は愚かであれというのが理想でね、できれば穏便に君を我が国に迎えたかったのだが」
「それで、私が婚約を破棄されるよう、わざと愚かな振る舞いをなさった。警戒を落とさせ、その隙にこうして低劣な行為に及べるように」
滝のような汗を流している僕とは対照的に、姉さんは静かにそう口にして――
「噂ほどではないにしても馬鹿王子であることに変わりないじゃない」
そう笑った。めちゃめちゃ人悪く、楽しそうに。
「あの独特の話術、中々面白かったわ。『根は悪くない、ただのバカ』と相手に思い込ませて脱力させて、計略だと気付かせないまま自分のペースに持ち込む。身を切り売りして実利を取るってやり方、個人的には好きだけど――それに気付かないほど、愚かだと思われたのなら心外極まりないわ。あんたがあの見せかけ通りの人間だったら、クフマードみたいな寄せ集めの国、とっくに瓦解してるでしょうよ」
あのクフマード王がそれを黙ってるとも思えないしね、と姉さんは不敵に笑った。それに応じて垂らした髪が揺れて、銀色の光が波状にきらめく。
「……」
クフマードの王子は、姉さんの泰然とした様子にわずかに怯んだようだった。
けれど、さすがと言うべきなのだろう、すぐに気を取り直し、怖いぐらい真剣な顔をしてさらに姉さんへと近づいていく。
「だが、私の本質がどうであろうと、カイエンフォール王子の婚約者がここで私と二人きりになったという事実は変わらな」
「ンメェエエ~」
「……」
真剣で重苦しい空間に場違い以外の何でもない子ヤギの声が響いた。
不遜な笑いを浮かべていたクフマードの王子が目を丸くし、足を踏み出した状態のまま固まる。
「……あ、りがとう、シャロバルグガーデッド……」
小部屋の中で、子ヤギの口を放し、「お願いっ、思う存分鳴いて!」とたき付けたのは僕……うん、僕にはあの空気を割って姉さんを助けに入る勇気がなかったんだよ……こんな情けない手段ですみません。
「……ふ、ふふふふふふ」
クフマード王子と同じように目を丸くしていたのに、すぐに声を立てて笑い出したうちの姉さんは、「ほら、出てらっしゃい」と優しい声で言いながら、クローゼットへと優雅に歩いてきた。細い手が扉にかかった瞬間に、幾重にも重なった銀鎖の腕輪がしゃらりと音を立てる。
「いけない子たちね、こんなところでかくれんぼするなんて」
一気に飛び込んできた光に目を細めながら、僕はおずおずとクローゼットを出た。もちろんシャロバルグガーデッドも一緒だ。
「……」
クフマードの王子は唖然とした顔で、そんな僕たちを見ていた。「……ヤギ?」と呆けたように呟いたのもちゃんと聞こえた。なんか本当すみません……じゃなくて!
「あ、あの、すみませんっ、僕、さっきからここにいました……っ、殿下のお話も全部聞いてましたっ」
おなかがすき始めたらしいシャロバルグガーデッドに上着の裾をかまれながら、僕はクフマードの王子に頭を下げた。
それから、
「だから――姉さんと殿下を裂こうとしたって無駄です」
頭を元に戻してクフマードの王子を睨み、それだけははっきりと言い切った。
だってこういうやり方、嫌いなんだ。こういうやり方で姉さんたちを引っ掻き回すこの人も大嫌いだ。
だけど、相手はさすがだった。あれだけの猫を被って、その上道化の仮面までつけるんだから、当たり前といえば当たり前――一呼吸の間に気を取り直すと、歪んだ笑みを見せ、「確か弟だったかな? そんなものは姉弟で口裏を合わせたとでもなんとでも」と僕を見下してきた。
「それにしても幼いな――これから君の姉君と既成事実を作るんだ。怪我をしないうちに出て行くといい」
「っ」
聞き分けの悪い子供を諭すように言われて、カッと頭に血が上った。そりゃあチビだし、女の子にいつまでも間違えられてるけど、こんな屈辱ってない。
相手は自分の何倍もあるような人だし、腰に剣を帯びていたけれど、ここで姉さんをかばえないような人間にはなりたくない。
「ち、近寄らないでください」
そう決めて、姉さんの前に立ちふさがった。横にいるお供が小ヤギだって言うのがなんとも情けないけど、彼女は彼女で心持ち、僕の方に寄ってきてくれている。
「ルーディ、あんたってば姉さんのために……大きく、かっこよくなって……。カイの横暴に耐えていたこの13年は無駄じゃなかったのね……っ」
姉さんは涙声でそんなのんきなセリフをうっとり口にしてるけど、僕は内心も身体もガタガタ震えていた。
だって、本当にこの人、大きくて怖いんだよ! てか、姉さん、なんでそんなに余裕なの!
「――姉弟では、という理屈は百歩譲って立つとして……では、私のことはどう説明する?」
「っ」
透き通っているのに力強い声が響き、クフマードの王子はばっと音を立てて、右奥のバルコニーを振り向いた。




