第5話
ざわめきに促されてまぶたを開けば、当たり前といえば当たり前、カイの身体が真っ先に視界に入った。
次に、後頭部に視線を感じて、『いい加減状況を把握すべき』という意識がようやく生まれる。
(じょうきょう、は……)
――衆人監視の中、カイと抱き合っている。
「っ」
(た、立場云々もだけど、乙女としてどうなのって話!)
アンリエッタは音が立つような勢いで、顔を染めた。だが、そんな動揺も突如響いた声に打ち消される。
「シャイラ、いい加減諦めなさい」
周囲のざわつきを一気に鎮める威厳ある声に、緊張感が戻った。
鬼気迫る形相でこちらを睨んでいるシャイライン王女に、回廊の向こうから声をかけたのは、ホートラッド国王だ。自然に割ける人ごみの真ん中を悠然と進んでくる。
父親のその声に、王女はアンリエッタを睨み据えたまま、涙を滴らせた。
「カイエンフォール殿下、失礼した。個人的な我が侭を聞き入れていただいたというのに、その上とんだ醜態をお見せしてしまった」
「こちらこそご期待に添えず申し訳ありません」
「……?」
何かが引っかかって、アンリエッタは眉を顰める。
「でも、お父さまっ、このわたくしが」
「シャイラ、外交上の話は既についているのに、お前がどうしてもと言い張るから、ここに連れてきたのだ。そして今個人的にもはっきりと決着がついた――これ以上は見苦しいではすまされない」
冷厳にホートラッド王がシャイラインに告げる。
思わず背筋を正してしまう空気は、一国を預かる者特有のものだ。そこに彼が数日前の晩に見せていた父親としての空気は一切なくて、切り替えの冷徹さにアンリエッタは息をひそめた。
「っ」
シャイライン王女は顔をはっきりと歪ませると踵を返し、泣きながら去っていく。
――は、いいとして。
(……って、私、何気にひどい。あー、でもあの王女、性格悪いし、まあいいか。……じゃなくて!)
アンリエッタはシャイラインの存在をさっさと頭から追い出し、先ほどの引っかかりについて、眉間に皺を寄せて考え込む。
「アンリエッタ」
「うるさい、今話しかけないで」
「……」
カイが顔を引きつらせたが、彼のこともこの際2の次だ。
……乙女失格? 違うわよ、そこは断固として訂正しておくわ。だって今失敗しちゃったら、せっかく覚悟を決めたことだって、さっきのだって全部無駄になっちゃうじゃない。無駄! この私に! 有り得ないっ!
「ええと、なんだったかしら……」
(そうだ、“個人的な我が侭”に、“外交上の決着”……)
「……」
アンリエッタは目を見開く。
(ひょっとして、ホートラッドからの婚姻の申し入れをミドガルドは既に断っていた、ということなんじゃ……?)
今度はアンリエッタが顔を盛大に引きつらせた。
音を立てて見上げた先、カイがさっと目を逸らしたことで、疑念は確信に変わる。
(……分かる、分かるわ、これでもかってほど長い付き合いなんだもの、それが都合の悪くなった時の仕草だってことぐらい!)
「――騙したわね、カイ」
「人聞きが悪いな。アンリエッタが訊いてこなかっただけだろう?」
そのくせ次の瞬間には、アンリエッタのドス黒い声に気づいていないかのように、にこりと笑う。
「っ、こんの性悪っ、全く知らない話をどう訊けっていうのよっ?」
「知らないのは知らないほうが悪いってのが、アンリエッタの口癖だろう」
「ぐっ。そ、そうだけど、だって、セイルトン国王補佐官だって、マロール公爵だって……、っ」
そう言ったところで今更ながらに思い当たって、背後にいたはずのセイルトン国王補佐官たちをざっと振り返った。
――が、いない。
「逃げ、た……」
さすがというべきなのだろう、都合が悪くなりそうな気配を察して、さっさと姿を消したらしい。
(……っ、仕組んだのね、あの古狸ども……っ)
追いかけていって、今度こそ決着をつけてやろうかと、彼らの消えたあたりをぎっと睨んだところで、渋い声に「アンリエッタ・スタフォード嬢」と名を呼ばれた。
「っ」
(げ、ホートラッド王……わ、忘れてた)
瞬時に背筋を伸ばし、アンリエッタは慌ててカイの腕の中から抜け出す。奴の舌打ちはもちろん聞かなかったことにして、と。
当たり前だ。仕返しだの、吊るし上げだの、恋だの、愛だの、個人的な感情で、厄介な相手に隙を見せておけるほど、アンリエッタは平和な気性をしていないし、それが許される環境にもいない。
「お呼びでしょうか、ホートラッド国王陛下」
そして礼をとって正面から向き合い、目の前の壮年の男性を見つめた。
若い頃は見た目だけでも十分もてはやされたに違いないという顔付きだが、眼光はきつく、目の動きも油断ならない。つくろいや世辞なんかが通じにくいタイプだと判断して、アンリエッタは控えめな作り笑いを顔に張り付けつつ、警戒を高める。
「クフマード連合国王の言ではないが、どうでしょう? うちにいらっしゃる気はありませんかな?」
ニコリという擬態語がぴったりの顔で微笑みかけられた。顔全体が笑っているのに、目だけは笑っていないという顔――アンリエッタも良く使うけれど、人にされるとかなり嫌なものだ。
「まあ、お戯れを」
「生憎と戯れや冗談ではないのだよ」
照れているようにも、困っているようにも見える顔で、当たり障りなく返したが、ホートラッド国王はやはりその程度では逃がしてくれない。その顔から笑みが剥がれ落ちる。
「カイエンフォール殿下のためなら1国や2国落とす、などとあなたが口にすると、洒落にならない気がしてね」
「え」
予想の範疇にない言葉を掛けられて、間抜けな声を素で上げてしまった。
(つまり……き、聞かれてた……)
体表に血液が一気に集まってきた。改めて人の口から聞くと、恥ずかしいこと極まりない。
周囲から漏れてくる囁き声が全部揶揄のように響いて、なおさら居たたまれなくなる。
「っ」
(……って、そうじゃないでしょっ、私としたことが! こんなところで今更乙女心を出してる場合じゃないのよっ。ええと、こういう場合は……)
「――もし、何者かが私からアンリエッタを奪うのであれば」
そうして思考をなんとかまとめようとした瞬間、ぞくりとするほど獰猛な音を含んだ声が背後から響いて、アンリエッタはすべて忘れて声の主を振り仰いだ。
「……カイ?」
その先に静かなのにひどく強い、肉食獣のような紫の視線を見つけて、アンリエッタは唖然とする。
「私は彼女のためにそれを滅ぼします。人だろうと、国だろうと……――覚えておいていただきましょう、ホートラッド国王陛下」
「……」
(な、んか、今すごいこと、を言われたような)
呆然としている間に、再びカイの腕の中へと引き寄せられた。
「っ」
(い、今絶対トマト状態……)
さっきまで安心できていた場所が今はひどく居心地が悪い。アンリエッタは全身を赤くしながら、身を縮ませる。
やはり薄闇のせいでよく分からないけれど、アンリエッタたちの前に立つホートラッド王の顔が歪んだ気がした。
「なるほど、一緒にしておく方がよさそうだと言っていたクフマード連合国王は、あながち間違いではないという訳ですか」
それから彼は大きく息を吐き出すと、独り言のような言葉を残して、「失礼」と締めくくり、娘が消えた方へと歩み去った。
残り3話




