第4話
「っ、アンリエッタっ」
「だ、大丈夫、転んだだけ」
(不覚すぎ、あんなのが避けられないなんて……)
カイに腕を引いてもらって身を起こし、考えるともなしに服についた泥を払う。それからその原因となったものを見ようと顔を上げて――背筋に悪寒を走らせた。
「シャイライン殿下……」
憎しみを含んだ目を向けられたことは、今まで幾度となくあったけれど、ここまで強烈なものに遭遇したことはない。しかも、彼女にそれを隠す気が一切ないことにも気づいてしまって、アンリエッタは無意識に息をつめた。
シャイライン王女はアンリエッタから視線を外すと、今度はカイへと顔を向けた。
「カイエンフォールさま……」
涙声で彼の名を呼び、何かを訴えかけるような目で見上げる。
カイを必要として自分も彼に必要とされたいという渇望を包み隠さないその瞳に、アンリエッタは理解する。
(私、彼女のこういうところが怖かったんだわ。真っ直ぐで素直で、私とは違う……)
「……」
カイの腕で彼の背後へと押しやられ、シャイライン王女の姿はすぐに見えなくなったけれど、彼女のカイへの恋情を目の前で見てしまったことで、胸がえぐられた。自分に激情を向けられている方がよほどましだった。
「カイエンフォールさま、わたくし、ずっとお慕いしてまいりました」
そう訴えている声は涙まじりなのに、カイの身体越しなのに、どこまでも苛烈に響く。
「あなたのお側に行くことだけを望んで、あなたに相応しくなれるよう、ずっと努力してきたのです。スタフォード嬢がいるから、と言われても諦められなかった……っ」
そう言って彼女は、アンリエッタの顔が見える位置へと踏み出す。
敢えてそうしたのだと分かったのは、彼女が次の瞬間にさっきよりさらに強い、燃えるような双瞳で、アンリエッタを見つめてきたからだ。
「“それ”をご側室になさって構いません。私をお側においてください――ミドガルドのためにも、ホートラッドのためにも」
そして、彼女はそう言いながら、敵意に満ちた視線に優越と蔑みを含ませ、アンリエッタへと目を眇めた。
(側室、国のため……)
シャイライン王女の口から出た、あまりに露骨な言葉に、アンリエッタはゴクリと唾を飲み込む。
それが現実で普通、そうすべき――
周囲から注がれている好奇と同情を含んだ視線も、“王太子”の執務補佐官としての自分も、そう冷静に告げている。
(でも、)
「……」
いつの間にか握り締めていた両脇の拳を、さらに強く、痛くなるまで握りしめると、アンリエッタは恐ろしい顔を向けてきているシャイライン王女の青い瞳を見つめ返した。
(悪いけど、私も引く気はもうないの。1歩も――)
アンリエッタは大きく息を吸い込んだ。
本当はずっと昔に引き返せないところに足を突っ込んでいたのに、格好悪いことに、見て見ない振りを続けて逃げていた――それも今日で終わりにする。
「カイ」
王女に顔を向けて口を開こうとしていたカイの名を呼んで、視線をこちらへと繋ぎ止める。
カイに向けて泣きそうな顔をしていた王女が、再びこっちを刺すように見てきたのを視界の端にとらえたけれど、アンリエッタも敢えてそれを無視して、そのままカイと向き合った。
本当はものすごく怖い、自分がやろうとしていることの意味を誰よりよく理解しているから。でも、この目を見ていれば、ちゃんとやり切れる気がする。
「……アンリエッタ? どうした」
目の前の、自分のよりよく知っている顔に怪訝さと心配が載ったことに気付いて、アンリエッタは少しだけ口の端を持ち上げた。
(その意味も本当はずっと知ってる――)
今まで知らないふりをしてきただけで、ちゃんと気づいている、カイが私を好いていること。ずっと一緒にいて、ずっと見てきたのだ。それぐらいは分かる。そして、カイも私が彼を好いていることを知っているはずだ。
だけど、それだけでは許されないところまで来てしまった今、私は“もっと”を望んでいて、それがどれだけ愚かなことか知っているから、ひどく怖い。
今からやろうとしていることは、それぐらい無謀なことだ。声にしてしまえば、後戻りはもう出来なくて、しかも他に逃げ道もないもの。
普段のアンリエッタならこんなリスクの高い勝負に出るなんて絶対にしない。馬鹿だと自分でも笑ってしまうようなことだ。
(ああ、騒ぎを嗅ぎつけて来たのね。抜かりがないというか、なんというか……)
すぐそこにセイルトン国王補佐官や他にもマロール公爵などの国の重鎮がいることに気付いて、アンリエッタは唇を引き結ぶ。
彼らの前でこんなことをするのは、それこそ命取りになりかねない。
でも……、
「話があるの、カイ」
――命より大事な勝負時がある。それを逃す気はない。
汗の滲んできた右手の拳を胸の前に当てて、アンリエッタはすぅっと息を吸い込んだ。
「アンリエッタ?」
「私、何も持ってないわ」
焦がれてきた紫の瞳の真っ直ぐ見つめて声を絞り出せば、銀の長い睫に縁取られたそれが丸みを帯びた。その奇麗な、澄んだ色が今も昔も泣きたくなるくらい好きだ。
「国なんてもちろんないし、有力な後ろ盾もお金も何にも」
「そんなもの……」
(知っているわ、そんなのいらないって言うんでしょう? でもそれじゃあ私が嫌なの。私のせいでカイに何かを諦めさせるのも、辛い思いをさせるのも、負担をかけるのも嫌なのよ)
「でも」
言葉を続けようとしたカイをそう言いながら短く遮った。
壊れてしまったかも、というぐらいの心臓の音で、自分がちゃんと声を出せているかすらよく分からない。それでも知っている――きっとカイにだけは届く。カイだけはちゃんと聞いていてくれる。
「でも、カイが望むなら、どこかの国の1つや2つ、獲ってみせる」
あなたの側にいるだけで、私は何だって出来る。
「カイが望むなら、この国が300年潰れないだけの事をしてみせる」
あなたが居るこの場所がとても大事なの。
「カイが望むなら、10人くらいの子供だって産んでみせるわ」
あなたがまっすぐ笑うのが、私にとって一番大切なことなんだもの。
「だから、カイ、」
そして12年前に魅せられた瞳を見つめた。
――お願い、目を逸らさないで、ずっと見ていて。ずっと見ていたいのよ、知っているでしょう……?
「私を、私だけを選んで。絶対に幸せにするわ」
みはられていた目の前の紫の瞳が、苦しげに細められた。
「……アンリエッタ」
どこか切ない響きの、なのに泣きたくなるくらい甘い、蕩けそうになる声が響いてきて、まだだと思うのに、勝手に涙腺が緩み出す。
「……」
長い指がこっちへ伸ばされる。その先が小さく震えているのが見えて、それからすぐに視界から消えた。
「っ」
頬に振動と柔らかい温かみが伝わってくる。
その指に触れるか触れないかの距離で撫でられ、熱がそこから全身に広がっていく気がした。
「馬鹿、アンリエッタ」
ゆっくりと離れていった指の熱を補うように、距離をつめてきたカイの呼吸の熱が伝わってくる。
「とっくの昔に選んでいる。それぐらい気付け」
そして、肩と腰をぐっと抱き寄せられて、胸の中へと包み込まれた。
「っ、ば、馬鹿って……も、もうちょっと芸のある悪口、言えないわけ……」
その声と、全身をきつく覆われる感触に、滴がポロリと零れ落ちた。
それに気付いたのだろう、カイは目の前で苦笑し、目蓋へと唇を寄せてきた。羽で触れられているかのような感覚に瞳を閉じると、もう片方の目蓋にも。それから流れた涙の跡にも、繰り返し。
「……本当、減らない口だな」
(知っているわ、隠してるのね、カイも泣きそうなんでしょう、今――)
改めて後頭部と背をかき抱かれて、カイの胸にぎゅっと顔を押し付ければ、首筋にあたった彼の唇が「アンリエッタ、」と音もなく動いた。
「愛している、12年前からずっと――」
そして、小さな囁きが直に鼓膜を打った。




