第6話
「……」
目の前で王子に絡まるしなやかな細腕。彼を見上げて、微笑む鮮やかな桃色の唇。瞬間的にアンリエッタを見、刺すように細められた、青色の瞳。王子が困ったように笑ってその腕を柔らかく外そうとするのを、甘えるように、拗ねるように拒む仕草。
「……」
彼らが口を動かしているのは分かるから、会話はなされている。なのに、頭に内容が入ってこない。
(どう、しよう……)
生まれてこのかた、こんなことは一度もなかった。笑顔が作り方も思い出せない。いつだって思い通りに思い通りの顔が作れたのに。
「アンリエッタ?」
王子に呼ばれてのろのろと視線を彼へと向ける。
(どうしよう、どうやって乗り切るんだったっけ……)
「アンリエッタ、どうした?」
カイの表情と声の調子ががらっと変わった。
(どうしよう、不審に思われている。どうしよう、思い出せない)
「アンリエッタ、大丈」
「っ、カイっ」
「アンリエッタ、どうかしたのかい?」
重なった声に泣きそうになったのは、キーンが来てくれて安心したから?
(ううん、ちがう……)
「カイ、こっちをご覧になってっ」
――王女が当たり前のように「カイ」と呼んでいるから、だわ……。
* * *
「アンリエッタ、大丈夫?」
「……当たり前じゃない、どうかしてるのはキーンだわ」
気遣うように自分をうかがっているキーンの声に、やっと笑い方を思い出して、彼へと顔を向けた。
いつから? いつから私は「カイ」と呼ばなくなった? ――私がそう呼んだ時に、嬉しそうに振り返る彼の顔がとても好きだったのに。
「人気者のパートナーが、お客さまに囲まれてしまったせいで、ちょっと所在無かっただけよ」
微笑みながら肩をすくめて見せると、キーンは疑問一杯の顔を一旦引っ込めて、「……これはこれは騎士にあるまじき失礼を」とおどけて見せてくれる。それでなんとか息を繋ぐことができた。
「では失礼いたします、カイエンフォール殿下、シャイライン殿下」
そしてこの場から逃げたくて、王子と一度も目を合わせずにキーンと共に、その場を辞した。
あの王女が「カイ」と呼んだこと。王子がそう呼ぶことを許しているということ。何より、それに衝撃を受けた自分自身――そんなしたくもない発見のせいで生じた動揺を見せないよう、必死で取りつくろいながら。
いつから? いつからカイは私を「アンリ」と呼ぶようになった? ――彼が呼ぶ「アンリエッタ」は特別な響きだったのに。
「本当にどうしたんだい」
腕を絡ませて一緒に歩くキーンの表情は、困惑交じりだ。それでもちゃんと優しい。
「なんでもないわ。苦手なものからちょっと逃げてきただけ。すごくいいタイミングで助け船を出してくれて、本当にありがたかったわ」
キーンに笑ってみせているのに、耳に響く自分の声が自分のものではないかのように感じる。
いつから? いつから一緒にバラを見にトンプソンを訪ねなくなった? ――一緒に土だらけになって、笑って、幸せだったのに。
「一曲だけ踊ってさっさと帰っちゃいましょ? すごく居心地悪いの、キーンってば、女の人だけじゃなく、年配の男性にまでもてるんだもの」
(……大丈夫、私はちゃんと笑っているわ)
顔の筋肉の一つ一つに神経を凝らし、適切な表情が作れているか確認する。
いつから? いつからカイの考えることが分からなくなった? ――優しくてとてもまっすぐ笑う子だったのに。いつも一緒にいたのに。
何を考えなくても、勝手にキーンのリードと曲にあわせて動く身体。勝手に適切な表情を作る顔。勝手に会話を紡ぐ口。そして……勝手にシャイライン王女と一緒にいるカイの姿を視界の隅に入れてしまう瞳。
「……っ」
ドクリ、と心臓が音を立てた。
(……ああ、どうしよう、気付いてしまった)
ずっと気付かないふりをしていたかったのに――。
あの日、後ろ盾も何もない私が側役になったことで、カイが被った被害を埋め合わせたかった。私が女であることで、カイに生じる不利益をなるべく減らしたかった。若い女の執務補佐官だからって、カイまで馬鹿にする連中を許せなかった。
なによりも大事だったのだ。だから、カイを誰にも傷つけさせたくなかった。カイにまっすぐに笑っていて欲しかった。
すべてはそんなカイと一緒にいるため――それだけのことだったのに。
私がカイの執務補佐官となった日、彼を殿下と呼んだあの日からだ。カイは私をアンリと呼び、含みのある笑いしか見せなくなった。
私はカイが分からなくなって、それでも一緒に居たくて仕事にかこつけて……。
「アンリエッタ!?」
笑ったままの形で固めていた目から、勝手に滴が流れ出ていく。
いつのまに、いつのまにこんなに遠く離れてしまったのだろう……? ――ただ一緒にいたかっただけなのに。
曲が終わるのと同時に、硬い顔をしたキーンにテラスへと引き込まれた。引かれていく腕に身を任せる。
ずっと向こう、相変わらず大勢の人々に囲まれて会話しているのは、カイとミドガルド国王夫妻とホートラッド王、そしてシャイライン王女。
「……」
開いたガラス戸をくぐる瞬間、一瞬だけあの紫の瞳と目線が絡んだ気がした。




