第5話
(誰、この人……)
白と銀を基調に、エメラルド色の細やかな刺繍と縫い取りが施された夜会服を着た人が、半歩先に立ち、アンリエッタの手を引いていく。
この人はアンリエッタが11年半一緒に過ごしてきた、この国の王太子だ。誰よりよく知っている人のはずの……。
整った横顔には幼い頃の面影があるし、横目にちらりと向けられた瞳の色は、昔から少しも濁らないアメジストのまま。長くて少し癖のある銀の髪も変わらない。本物のプラチナも太刀打ちできないような光沢がまばゆいくらい。
なのに、アンリエッタには彼がちゃんと彼なのか、わからない。
「……」
(一体、何を考えているのかしら。さっきのといい、今といい……)
周りから驚愕と羨望と嫉妬の混じった、突き刺すような視線をいつも以上に感じる。シャイライン王女が少し離れた場所から、激しい憎悪を含んだ瞳を向けてきているのも分かる。
それらをうまく処理するために色々考えなくてはならないし、王子に問い詰めなくてならないこともある。
なのに、頭が上手く回らない。あってはならないことだと知っているのに。
わざわざ人目につく中央にまで移動して、やっと王子はアンリエッタに向き合った。
「……殿下」
抗議のニュアンスを込めつつ、小さく声をかけたのに、それでも王子は無言のまま。
(ここ数週間で初めて正面から顔を合わせたのに……)
目の前で眉根を寄せたというのに、王子が気にする様子はまったくない。手を握り直されて、いつものように腰に逆の腕が回った。
横暴な空気と裏腹に丁寧に引き寄せられて、呼吸の音が近づく。そして、始まった曲に合わせて、静々と動き始めた。
「……」
(変わってない、わよね? 猫を被った表情だって、踊りだっていつも通りだし……というか、落ち着いて考えてみれば、なんで私がこんな目にあわなきゃいけないわけ? おかしくない?)
「何を考えていらっしゃるんですか」
なんだかムカついてきたから、やっと出てきた言葉は、押し殺したような声音になった。
あまりのこと、しかも突然だったから、さすがのアンリエッタも驚いて固まってしまったが、さっきの王子の行動――女性に跪いて踊りを請うなんて、「ふざけんじゃないわよ!」と襟首をつかんで揺さぶっても許されるような……じゃなくて真摯に諫めるべき所業だ。
(あれで私の苦労がどれだけ増えると思ってるのよ? 相変わらずその辺ぜんっぜん考えてくれてないんだから、性悪馬鹿王子め)
そうだ、むかついているのだ。アンリエッタにはその権利もあるはずだ。
「……」
なのに、睨んだ先の王子は相変わらず無言。それどころか、アンリエッタの怒りを上回る、本気で怒っている時の不機嫌なオーラをびしびしと飛ばしてくる。
「っ、いい加減にしなさいよ、言いたい事があるんなら言えって、一体何回言えば分かるわけっ」
(今までカイが私にこんな風になったことってなかった――)
その事実に自分でもわかるくらいに動揺してしまう。それを彼にだけは知られたくなくて、いつもの通りの口調に似せてみたのに。
「言われたら、」
真顔のカイに真っ直ぐ見つめられて、逆に息をのんだ。
「困るんじゃないのか」
(い、われて、困る、こと……)
――カンガエテハイケナイ、ミトメテハイケナイ、ウケイレテハイケナイ
頭の中で強い警鐘が鳴り響く。
「……」
逃げるように顔を俯ければ、再び沈黙の帳が落ちた。
周囲に響いているのは、弦楽器の調べが特徴的な曲。その音はひどく艶っぽく、情熱的なもので、余計居心地が悪い。
「……」
(……あれね、これまでの11年間にも何度か体験したけど、静けさと私と王子っていうのは、相性がどうにも悪いみたいね。おかしいわ、私自身は静寂を尊ぶ物静かな人間のはずなのに)
鼻の奥がつんとしてきた。目頭まで熱くなってくる。
「…………おこってる、の? 調印式の件?」
(それを確認して何の意味があるのよ? なんて頭の悪い台詞!)
そう頭の片隅で思っているのも確かなのに、歯止めが利かなかった。その事実も声が涙声に聞こえてしまったのも情けなくて、余計自分が嫌になる。なんだか何もかもがどうでも良くなってきてしまう。
「アンリ?」
「……」
(アンリエッタだって、何回言えばわかるのよ)
「おい、アンリ」
「……」
(うるさい、もう話しかけないでよ、カイだってさっきまで人のこと散々無視してたじゃない)
「……アンリ」
「……」
(そっちがその気なら上等じゃない、私だって好き好んでこんなとこにいるわけじゃないのよ。農園のため、頭金のためなの。トマトと小麦の品種改良に没頭するための将来を手にするためであって……)
「……エッタ」
「っ」
――ウソツキ
一転して眉を曇らせ、気まずそうな顔を見せたカイに、至近距離でちゃんと名を呼ばれた瞬間、脳裏に浮かんだ自分のその言葉に唇を噛み締めた。
目の前の唇から長い息が零れる。
「怒って……たけど、怒っていない、今は」
「……」
(嘘吐き。今だって不機嫌なくせに……)
明らかな嘘を吐いた彼を上目遣いに睨みつける。
「あー、それは別件」
言葉にしなくても伝わるのが嬉しいのに、なぜかひどく苦くもあった。
今度はそんな風に感じてしまう理由から目をそらしたくて、駆け引きの常套に逃げた。相手の言葉をただ繰り返す。
「別件って?」
「…………その様子じゃ、ドレスの意味も、首飾りの意味も、俺の服の意味も全然わかってないな」
カイが再びため息を吐く。その中に『馬鹿アンリ』と含まれている気がして、むっとした。同時に、いつもの空気に戻すチャンスだと感じて、言い返そうとカ……王子を見上げた。
「違うな」
「っ」
が、向けられた彼の目に心臓を縮ませ、再びすべての言葉と思惑を失ってしまう。
「わかろうとしてくれていない、の方がたぶん正しい」
(だ、れ、この人……)
苦味と苦しみが混ざったような、そんな目でこっちを見るカイは知らない。
「……」
紫の目が逸れていく。
(ドレスと首飾りの意味、カイの服……)
「……」
どこか悲しそうに見えるその横顔を見ていられなくなって、アンリエッタも視線を伏せた。
「そういえば、明日から西湖畔の離宮に行くことになった」
「え?」
曲も終盤に差し掛かったところで、王子が何でもないことのように別の話題を口に、アンリエッタは顔を上げた。だが、彼のほうが視線を合わせようとしない。
「2泊の予定だと」
長い付き合いはこんなところにも顕著に効果を発揮して、何となく悟ってしまう。
「……シャイライン王女?」
国賓の彼女の予定にない行動はおそらく彼女の我がままだ。それがこの国で通る意味は――。
シャイラインの姿を探せば、彼女はセイルトン国王補佐官やムルド伯爵、我が国の重鎮たちに囲まれている。
「……」
(……そう、か、私の知らないところで、着々と話が進んでいるんだ……)
理解しているつもりだった。なのに、改めてそう突きつけられて、あろうことか身体が勝手に震え始める。
(まずい、伝わってしまう。それだけはダメなのに)
「アンリエ、アンリも来い。もう調印式は終わっただろう? もう通常の仕事に……」
(しごと……、そう、仕事だ……)
続いた言葉に全身から血の気が失われていくのが分かるのに、それを上手くコントロールできない。
(まずい、お願い、お願い、早く終わって……)
――ボロガデテシマウマエニ
終わりに近づいている曲、それが途切れる瞬間がすぐにでも来て欲しいと切に祈った。
「……っ」
永遠のように感じた楽曲の最後の音が鳴ると、余響が消えるのも待たず、アンリエッタは性急に王子から離れようとした。なのに……手が解放されない。
「……あ」
捕らえている腕を辿っていけば、その先にじっとこちらを見つめている紫と否応なく目線が交わる。
真っ直ぐに向けられる、苦しそうに歪んだ瞳――それに見据えられて、心臓の音がひどくうるさく自分の耳に響いてくる。動けなくなる。
「……カ」
ダメだとわかっているのに、やってはいけないとわかっているはずなのに、何かの魔法にかかったように勝手に口が開く。音を紡ごうとする。
「っ、カイっ」
だが、妙に鎮まった空間に響いたのは、アンリエッタの声ではなく、金色の豪奢な巻き毛のシャイライン王女、その人のものだった。




