【狐の付き合い方】第1話
(ほんと、気が重い……)
「ぅぐっ、マ、マーガレット、コルセット、もう少し緩くして……」
あまりの締め付けに、一瞬気が遠のきかけた。毎度の事ながら、人を殺す気としか思えない代物だわ、とアンリエッタはうめき声をあげる。
「そうですねえ、絞めたところで強調されるのは、細さだけですものね」
(……これ、暗に凹凸、つまりは胸がないって言われているのよね?)
1歩離れて人の全身を眺め回し、しみじみと呟いた3つ年上の金髪美女に、アンリエッタは顔を引きつらせる。
「ねえ、マーガレット、事実の方が時に人を傷つけるのよ?」
目の前の鏡の中には、今回の夜会に合わせて新調したオレンジ色のドレスを身にまとった見慣れた顔。その後ろに立つマーガレットと視線を合わせながら、アンリエッタははかなく抵抗を試みる。
彼女を怒らせると恐ろしいことは経験上よく知っているので、この上なく慎重に。あの侍女頭を始めとして、マーガレットと目も合わせられないという人は、この王宮に珍しくないのだから。
「事実だと潔く認められる方は大丈夫です」
にっこり鏡の中で笑った彼女に、アンリエッタは頬をピクつかせる。
さすが奴の乳姉、にくったらしい。
「あら、この首飾り、ミスルの工房のものですか、よくお似合」
「1,984ソルド。衣食住に必須な訳でもなければ、三大欲求の解消にもならないのに、この値段――ふざけてる以外のなんだって言うのかしら?」
鏡の中、首に幾重にもまとわり付いている、色とりどりの小さな宝石をちりばめた細い銀鎖を見て、アンリエッタは顔を顰める。
「……ドレスはホートラッド産の布地」
「5,253ソルド。月給1ヶ月分超! 信じられない、何回も着られないっていうのに!」
「……中途半端な額なのは値切ったからですね」
「そう、値切ってなお1か月超なの! しめて7,237ソルド、7,237! その分私の夢の農園がまた遠のいたわけ! この切なさ、わかってくれる、マーガレット?」
「全然」
王子と違ってちゃんと値切るという発想が出てくるあたり、乳姉の彼女は称賛に価すると思ったのに、バッサリ切られた。
「カイのドケチ……ほとんど公務みたいなものなんだから、経費で落としてくれたっていいのに」
八つ当たりを兼ねて王子を罵れば、背後のマーガレットが小首を傾げ、「色気が見当たらない」と微笑んだ。
「っ、陰に陽に言わなくたって胸がないことぐらい自覚はあるわよっ、コルセット締めたって出ないのだって証明済みでしょっ」
「そのようで。問題は体型以外にもある気がしますが」
自虐の言葉をあっさり認められて傷ついた乙女の繊細な内心も、マーガレットはもちろん無視。
「先が長そうですわね。それはそれで面白いですけれど」
彼女はそんなことを呟きながら化粧箱を閉じ、含みいっぱいの笑顔を見せた。
(そうなると……)
「……」
(襟ぐりから見える胸の谷間、あれはやっぱりわざとってことかしら……?)
王子と彼女の間に、血の繋がりよりよほど強い繋がりを感じるのは、絶対に気のせいじゃない。
こうなったら、八つ当たりで……間違えた、日頃の恨みつらみを込めて……これでもない、恩返しのために、真心込めて王子の足を踏んで……これも違ったわ、王子とのダンスを楽しまなくては。
「それにしても今日はマロール公爵の夜会でしたか。珍しいですね」
「でなきゃ行かないわ」
今度は髪を整えてくれるつもりらしいマーガレットの言葉に、アンリエッタは口をへの字に曲げた。
「金と時間、精神を浪費するだけ!」と公言する夜会嫌いのアンリエッタが、今回に限って出席する理由は、主催者がマロール公爵だからだ。
彼は早くから王子の立太子を支持した豪放な人で、下心がないのにおかしな遊び心のある変な貴族だ。色々よくしてもらっているし、顔をつぶしたくは無い。個人的にも嫌いじゃないし、歳は五十も違うけれど馬も合う。
「けど、こういうところは本当にいい神経よね」
その貴族らしくない彼が周囲に言われて仕方なく開く、“公爵らしさを見せびらかすため”の夜会に招かれてしまったのだ、不幸なことに。
「絶対わざとだし」
王子だけに招待状を持って来ればいいものを、彼はご丁寧にも別途「アンリエッタ・スタフォード嬢」宛てに招待状を送ってきた。もちろん親切心などではない。自分と同じくらいアンリエッタが夜会嫌いなのを知っているからだ。自分ひとりが嫌な思いするくらいなら、と巻き添えを食らわせてきたのだろう。本当にいい性格をしている。
「決めた――今日行ったらダンスでも一緒に踊って奴の足も踏みまくってやる」
ぼそぼそと恨み言を呟けば、マーガレットが「奴の足“も”」と繰り返しながら、にこやかに髪留めを留めた。
「……ふふふ、間違えちゃったわ、マーガレット」
“も”であるわけがないじゃない。本当よ。いくら私だって、恐れ多くも故意に王太子殿下の足を踏んだりしないわよ、多分。あるなら飛びっきり不幸な事故――ええ、決して!私のせいではないの、環境のせいなの。
ノックの音と同時に扉が開いた。
「アンリ」
「アンリエッタ!」
いつもながらの無礼極まりない声にむっとしながら振り返って、言葉を失った。
「……」
一瞬誰か認識できなかった。
カイのはずだ。暮れる寸前の赤い夕日を捕らえて輝く、まっすぐに伸ばされた銀の髪も、こっちを見る美しい紫の目も。
けれど、金と銀の刺繍が施された黒地の夜会服に身を包んだ彼は、精悍でしなやかな豹のように見えた。文句の付けようのない顔立ちは、昔存在していた、女性と見紛うばかりの甘さをすっかり失っている。
(なんか……大人っぽくなった? しかもまた背が伸びた……)
「……」
無言のまま、王子が近寄ってくるのをじっと見つめてしまう。
もう身長の差は頭半分を超えた。それがひどく悔しい。ずっとすぐ横を向けば、同じ位置に目線があったのに。ずっと手を伸ばせば届く位置にいたのに。
(なんだか遠くなった気がする……)
考えるともなしにそんなことを頭に浮かべ――
「ま……」
聞こえて来た1音に、ギンっと音が出るような調子で王子を睨みつけた。
(今言おうとした、絶対言おうとした、分かるわよ、長い付き合いなんだから!)
「……別に『馬子にも衣装』なんて言おうした訳じゃないぞ」
「……白々しいという言葉をご存知ですか、殿下?」
「ほお、では馬子だという自覚がある訳か、謙虚なことだ」
「自覚ではありませんわ。むしろ殿下のお人柄をご信頼申し上げてのことですの」
「俺はいつだって真摯なはずだが、スタフォード嬢?」
「話題は紳士であるかどうかですのよ、カイエンフォール殿下」
うふふふふと引き攣った顔でにこにこ笑い合う、その傍らでマーガレットがまたも溜息をついた。
(……まあ、ここで王子とやりあっても疲れるだけで、いいことなんかないわ。夜会に出なくてよくなるならともかく)
「まいりましょう」
アンリエッタは気持ちを切り替えると、さっさと部屋を出ようと足を踏み出す。
「?」
いつもの習慣でドアを開けるために、王子の脇を抜けようとして、不意に左腕をとられて立ち止まった。
「……まあまあだと言うつもりだったんだ」
「はあ? カイ、あんたね、それ聞きようによってはもっと失れ……」
耳の後ろから響いた声に、むっとして斜め後ろを見上げて……
「っ」
向けられている目線に心臓がきつく収縮した。同時に発するつもりだった言葉を失ってしまう。
「気に入らないか? 他の誰にも言わないのに……?」
言っている内容と裏腹の柔らかい表情。それにもやはり不釣合いな、真っ直ぐで強い目線。
(……誰、この人……)
徐々に顔に血が集まってくるのが分かった。それをまずいと思うのに、なぜか目が逸らせなくなる。
「あ……」
動揺を見透かされているのかもしれない、ふわりとその目元が緩んだ。
(そんな顔、知らない……)
今まで見たことのない顔で微笑まれて、心臓が壊れたように動き出す。
「アンリエッタ」
「っ」
もう一度名を呼ばれて、やっと我に返った。慌てて顔を伏せる。
(ぜ、ぜぜぜ絶対にからかう気なんだわ、誰がそんな手に乗ってやるもんで……す、か……)
「……?」
不意に伸びてきた腕。垂らされた横髪が1房、いつの間にか筋張って大きくなっていた手にすくい取られて、上へ運ばれていく。
不可思議なその動きをつい目で追ってしまって……
「!?」
(く、口付、け……た……)
音が立つのではないかと思うくらいの勢いで、全身が赤くなっていくのがわかった。
逃げたいと頭のどこかが叫んでいるのに、再び絡まった目線に体の自由を奪われた。時間の分からない沈黙に包まれる。
「……」
カイの引き締まった形のいい口元が、ゆっくりと開いた。そこから零れるだろう言葉に、アンリエッタは身をすくめる。
そして――
「……コルセットしていないのか?」
「っ! やっぱり乳姉弟かっ」
心底不思議そうにつぶやいた王子の頭を思わずはたいたことぐらい、罪にならないと断固として主張する。てか、これで減給だなんて言われようものなら、今度こそ訴えてやる……っ!




