第6話
アンリエッタはなんでかいつも急いでいるからよく転ぶけれど、その度に何でもないことのように立ち上がって、「痛い、ドジったわ」とか言いながら舌打ちするのに、今回はなぜか起き上がらなかった。
「……?」
不思議なことに顔もまったく上げようとしない。
「アンリエッタ……?」
沈黙に耐えかねて思わず声をかけた瞬間、アンリエッタの身体が震えていることに気付いて、真っ青になる。
(嘘、泣いてる……? 嘘、だってアンリエッタだよ、あの?)
ますます大きくなる震えに、今度は頭が真っ白になった。
どうしよう、いくら腹立たしいといったって、泣かせたりするつもりなんてまったくなかった――。
「ア、アンリ……」
とにかく泣き止んで欲しくて、全部忘れて1歩踏み出し、
「――いい度胸ね、カイ」
「…………え」
押し殺したような低い声に、僕だけじゃない、みんな――母上も、クラーク先生も、キーンも、侍従長も、乳母のサリナも、侍女頭も、父上の代理の補佐官補も固まった。
そんな中、アンリエッタは顔を俯けたまま、スクっと立ち上がる。
(き、気のせいだったのかな……?)
何事もなかったかのように、アンリエッタは両手で金貨の入ったその袋を持ち上げて、踵を返した。
側にいる何人かが「やれやれ」とでも言うように息を吐き出し、なんだか余計悲しくなる。
「……」
むかつくのに大事なアンリエッタ。本当にこれで最後だ、もう会えない――。
アンリエッタの小さな体が、袋の重みにか、再びぐらりと傾いだ。
「っ」
(やっぱり重いんだ、一緒に持っていってあげよう。馬車まで見送るぐらいなら、きっと大丈夫――)
心配半分、未練半分に足を踏み出した直後、けれどカイは鼓膜をつんざくような、無数の金属音に停止した。
「……え、ええと……」
足元でキラキラ光っているのは……金貨、だ。床に落ちた袋の口から無数に散らばり出ている。横のキーンや母上の足元にも、こっちに戻ってくる途中の侍従長の足元にも、ころころと転がる金貨……。
(……な、投げ捨て……た……?)
辺り一面に散らばる金貨を前に、みんな――母上も、クラーク先生も、キーンも、侍従長も、乳母のサリナも、侍女頭も、父上の代理の補佐官補も固まっている。
「いらない」
それからアンリエッタは僕を睨みつけて、「舐めるんじゃないわ」とひどく怖い声で言った。
「ああ、重たかった」
それからアンリエッタは、『制服なの。フクショクヒが浮くの、最高』といつも言っている騎士服をその場で脱ぎ出した。
そんなアンリエッタに、みんな――母上も、クラーク先生も、キーンも、侍従長も、乳母のサリナも、侍女頭も、父上の代理の補佐官補も固まってた。
「ちょ、ちょっと、アンリエッタっ」
「うるさい。この服だって返すわ」
「うる……」
「で、ででで殿下に向かってそれはさすがに」
「黙れ」
ぎろっと音がしそうな目つきで睨みつけて、侍従長をそのとおり黙らせたアンリエッタに、みんな――母上も、クラーク先生も、キーンも、侍従長も、乳母のサリナも、侍女頭も、父上の代理の補佐官補も固まってた。
「じゃあね、カイ」
そう言って薄いヒラヒラした下着1枚になってスタスタ歩いて行くアンリエッタに、呆然としていた僕も慌てて我に返る。
「アンリエッタ、お金、」
今度はギンッとでも音がしそうな目でアンリエッタが振り返った。
「いらないって言ったわ」
「でも身代わりになって僕の命………………うっ」
その台詞にアンリエッタは激怒したようだった。
「馬鹿カイ、今度は誰に何を吹き込まれたの?」
そうねえ、と言い、背筋が寒くなるような顔で、うふふふふふふふと笑う。
「『アンリエッタはいざって時に身代わりになるためにいる』とか?」
そう言いながら侍女頭の方を見る。
(あ、青ざめた)
「『身代わりになることとカイのために尽くすことが、アンリエッタの給料の意味だ』とか?」
そう言いながら今度はクラーク先生の方を向く。
ちなみにクラーク先生は「何の事だ?」とでもいうような顔を作っていらしたけど、ちょっと頬がひくついていた。
それからアンリエッタは視線を僕に戻して、僕を再び睨んだ。
「――そう、それでカイもそうだと思った訳ね?」
「う」
か、固まってるみんなより、問題は僕だ。
怒っている、あれはものすごく、ものすごく怒っている。地を這う声ってこんな声?とか思っているこれは間違いなく現実逃避だ。
「馬鹿にしないでくれる? 私の命よ、たかが月給3,000ソルドで誰がくれてやるもんですか。これだけ頭いいのよ、生き続けたら桁が2つぐらい違うお金、毎月稼げるようになるに決まっているのに」
「月給300,000ソルド……また大きく出たね、アンリエッタ……」
ぼそりと呟いたキーンまでアンリエッタは睨みつけて黙らせる。
「でも僕のせいで……」
「抜け出したのは2人で決めたことでしょう? 私が私の気に入らないこと、したの見たことある?」
「ない。けど」
「即答するくらいなら言わないの!」
(そう、か、じゃあ、あの時の台詞も僕を黙らせる為だったんだ……。でも……)
「……」
無言のまま見つめ合っていたら、アンリエッタの怒り顔がちょっとだけ困ったみたいになった。それで分かった。今だってそうだ、アンリエッタは僕のことを心配してくれている。
「……っ」
両脇でぎゅっと拳を握り締めた――だからこそ余計嫌なんだ、アンリエッタが傷つくのは。
「でも……次は死ぬかもしれない」
だって嫌なんだ、もしそんなアンリエッタに何かあったら……。
「でも、じゃない。死ぬつもりなんてある訳ないわ。ちゃんとやれる自信があったから、そうしたのよ」
「……へ?」
「なによ、実際生きてるでしょう? ちゃんと証拠だって持って帰ってきたわ。これを優秀と言わずして何を優秀という気? さすが私」
「なんか……ず、ずれてってない、アンリエッタ……?」
「てない」
自信満々に言い切られて、思わず顔を引きつらせる。
「大体、」
アンリエッタがこっちに寄って来る。
「私がそんなことになったらカイ、悲しむじゃない。絶対に死んだりしないわ。しかもお金の為になんて馬鹿なこと、する訳ないでしょ」
「……っ」
(知って、るんだ……)
「今だってそんな風に言いながら、泣きそうになってるくせに……ほんっと馬鹿ね」
「……っ、なってない」
こうやってアンリエッタは何でも僕のことを見透かしてしまうんだ。
それが悔しくて、でも嬉しくてちょっとだけ泣いてしまった。
「……」
眉を下げたアンリエッタは僕のすぐ側に来ると、頭に手を置いた。子ども扱いされてるみたいでいつもは嫌いな仕草なのに、今日はアンリエッタがまた近くなった気がしてほっとしてしまった。
「カイ、ごめんね」
「なんでアンリエッタが謝るんだ……」
情けない、涙声だってばればれだ。
「いっつもお金のこと言ってるから、傷付けたのかもって……。でもカイ、ちゃんと覚えておいてね?」
アンリエッタは奇麗な、不思議な色の目をじっと僕に向ける。
「お金なんてなくったって、私、カイのこと大好きだもの、ちゃんと助けるわ。だって……1番大事な友達だもの」
「……っ」
それにボロボロと泣いてしまって、見れば、アンリエッタも鼻をたらしながらポタポタ泣き出していて、
「……うぅ」
「ぅう」
格好悪いって思うのに、それから2人で抱き合って、一緒にわあわあ泣いた。
* * *
13日目――
「アンリエッタ、側役辞めさせられるんじゃなかったの?」
昨日あのまま泣きながら2人で寝ちゃって、結局僕はアンリエッタを辞めさせないでって父上に言えなかったのに。
「馬鹿ね、カイ。こんなお買い得な側役、見逃すようならこの国すぐに終わりよ。そしてそのチャンスを逃すのは損だもの、絶対しないわ」
そう言って満面の笑顔でアンリエッタは僕の部屋を訪れた。
「お金、要らないんじゃなかったの?」
「馬鹿ね、カイ。もらえるものはもらっておく――鉄則よ」
これだからお坊ちゃんは、そう言いながら手を繋いで、一緒にクラーク先生のところに向かう。
「だけどアンリエッタ、僕の我が侭のせいで……その、ごめん、ね」
それからずっと気になってたことを謝ってみた。
僕の我が侭がアンリエッタに迷惑をかけるなんて考えてなかった僕は、アンリエッタの言うように、やっぱり世間知らずなんだろうとちょっと悔しくなったけど。
「気にしなくっていいわ」
にっこりと笑ったアンリエッタは、ポケットに突っ込んでいた逆の手を僕に差し出してきた。
あの「ありがとうございます!次もご贔屓に!」って言いながら花を売ってた時と同じ笑顔だ。それを見てから、アンリエッタの手のひらへと視線を落とした僕の目にきらりと映ったのは――。
「……金貨?」
2枚ってことは……200ソルド。
「まさか昨日の……?」
「そ、ドサクサに紛れてちょっとだけ」
「……どろぼう?」
「人聞き悪いこと言わないでよ。あれだけ働いたのにご褒美なしって言うのよ? あれこもこれも口外するなとか言うくせに、口止め料もなし。子供だと思って馬鹿にしてるんだから、これぐらい当然よ」
心底不機嫌そうに呟いたアンリエッタが、僕を見て今度はちゃんと笑う。
「今度の軍資金はこれで行こうね、カイ」
「…………」
……なんか、1人で反省してた僕って馬鹿みたい……?
「あと3枚は欲しかった……」
キラキラ光る金貨を見つめるアンリエッタの好きなものはやっぱりお金。
「あ、トマト、あれ、花が咲いてない? 嘘、12日間のブランク! しかも虫がついてるっ。カイ、授業の後で虫取りするわよっ、今が大事な時期なの!」
それからやっぱりトマト。
「やだ」
「嫌がんないの、みんなですれば結構楽しいのよ? うちの家じゃ、いつもそうだったもの。今にルーディも一緒にできるようになるわ」
それからやっぱりお父さんとお母さん、弟のルーディ。
あともう一つは、
「カイと一緒だときっともっと楽しいわね」
――僕。
お金のためだろうとなんだろうと、僕より僕を知っているアンリエッタ。悔しいけれど、僕はそんなアンリエッタが好きらしい。
でもまあ、アンリエッタも僕のこと好きだと言うんだし、それは百歩譲ってもういいやって思うことにしよう。
でも……何かが引っかかってる気がするのは何でなのかな?




