後日談~一日のはじまり~
ルーチェの朝は日の出と同時にはじまる。ワンピースの上からいつものエプロンを身につけて、左耳のピアスがはっきり見えるように髪をきっちりと整える。
現在彼女は、使用人の仕事をやめて、シルヴィオの助手に専念している。空いている時間は、イメルダから将来必要になることを教わって過ごす日々だ。
けれどどうしても早起きはやめられないし、掃除もしたい。暫定的に私室と研究室だけ、彼女が掃除してもいいという権利が与えられていた。
だから彼女はまず、乱れた布団を整え、軽く掃除をしてから、朝の冷たい空気を部屋に取り込んだ。朝焼けが一日のはじまりを告げている。
掃除を終えたルーチェは、隣にあるシルヴィオの部屋へと向かう。
スカリオーネ家に来たばかりの頃は、よくベッドにもぐり込み、シルヴィオと一緒に寝ていた。
その後、十五歳までは毎朝“ご主人様”を起こし、着替えの手伝いをするのが日課だった。
成長に伴い、外から声をかけるだけになっていたはずなのに、最近また状況が変わった。
「シルヴィオ様、朝ですよ」
ルーチェは彼の部屋をノックしたあと、それまでと同じように扉の外から声をかけた。けれど、いつまで経っても返事がない。
「シルヴィオ様? 起きる時間ですよ!」
もう一度呼びかけても返事がないので、ルーチェは仕方なく彼の部屋に足を踏み入れる。困った元ご主人様はここ最近、声をかけても絶対に起きようとしないのだ。
「仕事に遅刻してしまいますよ!」
子供のように枕を抱きしめて眠るシルヴィオはかわいらしい。けれど、本当は起きているのだと彼女は知っていた。
「シルヴィオ様、どうして退化しちゃったんですか?」
「……退化などしていない、甘えているだけだ。“伴侶”として、婚約者として、当然の権利のはずだ」
ぼそぼそと小さな声で、彼が返事をする。シルヴィオは最近よく「当然の権利」なるものを行使するようになった。自分で「甘えである」と堂々と宣言して、それが当たり前だと自信を持って断言している。けっこう面倒くさい青年なのだ。
まだ婚約という段階で、すでに何年も一緒に暮らしているのだから、ほかの家を参考にできない。シルヴィオが正しいと言えば、正しい――――と、彼女は思うことにした。
目を擦りながらやっと半身を起こしたシルヴィオが、ルーチェの手を強く引き、抱きすくめる。これも、いつものことなので彼女はもう驚かない。
けれど驚かないのと、どきどきしないのは別の話だった。そっちのほうも慣れてくれればいいのに、と彼女は顔を赤くしながら考えた。
「ピアス、つけたままでいいのか? これは迷子用で、べつにおまえのことを監視したいわけじゃないんだが……」
ピアスのついた耳たぶを指先でくすぐりながら、彼が囁く。
同じくスカリオーネ家の保護下にあるリーザは、そんなものをしていない。だから本当ならルーチェにも必要のないものだった。
「でも、このピアスってよく考えたらシルヴィオ様が私にはじめてくれたものだから、外したくないんです。黒のままがいいんです」
ルーチェのピアスは時間が経つと魔力が失われて色が褪せていく。ルーチェが好きなのは、シルヴィオの瞳の色と同じ、闇色の石だ。
魔法の訓練が嫌でいじけて泣いていた時、悪人に攫われた時、いつも彼はこのピアスの魔力を辿って、ルーチェのところまで来てくれた。
紋章を宿すことになったあの事件では、ピアスをしていることだけが、彼女にとって唯一の希望だった。
若干、シルヴィオが過干渉であることはわかっていても、つけていないと不安になるのだ。
「わかった。以後は節度ある利用を心がけよう。……少し、じっとしていろ」
ルーチェは横を向いて、そっと目を閉じた。想いが通じ合って以降、彼女は前よりも強く“伴侶”の力を感じるようになった。普通の魔法使いなら、しっかりと目で見ないとわからない魔力の流れを、心で感じられるのだ。
耳のあたりが温かい。シルヴィオの静かな夜の闇のような力がふんわりと流れ込んでくる。最後に、気のせいではなく本当に温かくて柔らかいなにかが押しつけられた。耳のあたりにくちづけをされたのだ。
「……これでいい」
ルーチェが真っ赤になって彼のほうを見ると、いい大人とは思えない、いたずら好きな少年のような顔をして、シルヴィオが笑っていた。
「おはよう、ルーチェ」
随分と遅い挨拶だ。そう言えばルーチェもまだ、彼に朝の挨拶をしていなかったことを思い出す。
「おはようございます、シルヴィオ様」
穏やかな一日は、今日もこうしてはじまる。




