風の試練
灰の雲の下――谷は、長い夢の底で“風の記憶”を抱いていた。
風の息吹が絶えて幾世代。祈祷塔だけが、沈黙の中でなお呼吸を忘れずにいた。
けれど今、誰も知らぬ旋律に呼応して、大地がかすかに震えた。
それは、世界がもう一度“息をする”音だった。
灰の谷に、再び風が満ちていく。祈祷塔が唸り、風鈴が鳴く。
その音は、眠っていた“風の神殿”が目を覚ます響きのようだった。
イリスは丘の上に立ち、白銀の杖を掲げる。
風の層が彼女の周囲で螺旋を描き、灰の中にわずかな光が生まれる。
符文が空気に浮かび、淡く光の弧を描いた。
アッシュが背後で観測を始める。
「魔素濃度、上昇傾向。風律の律動、同調開始。」
ルーファの髪が揺れた。翠の光が灰の中に滲み、まるで“色”が息を吹き返すよう。
彼女は風の流れを見上げ、静かに呟いた。
「……風が問うているの。
“争い”を鎮めるのではなく――どう“共に息を合わせる”かを。」
イリスは静かに目を閉じた。
「共に息をすることは、波を増幅させること。
だからこそ、調律者の役目は“均す”こと――
すべての波を、一つの呼吸に還すことよ。」
その声は冷たくも澄んでいた。だが、ルーファは微かに首を振る。
「均すだけじゃ、風は眠ってしまう。
貴女の音は美しい。でも、あまりに静かすぎるの。」
灰が舞い、風が唸った。祈祷台の符文が輝き、谷の空気が震える。
ルーファが囁く。
「――風が、試すわ。」
イリスは風の圧に抗いながら、わずかに眉を寄せた。
その風は優しさでも怒りでもなく、ただ“存在”そのものとして吹いている。
(――理で測れない律。これが、世界の呼吸……?)
胸の奥に微かな痛みが走る。ノルディアの光がそれに応じるように震えた。
彼女は静かに息を整えた。
その呼吸は、灰を吸い込みながらも――どこか温かかった。
理の底に沈めた“心”が、わずかに疼く。
忘れたはずの感情が、風の粒に触れて震えている。
(痛み……? 違う。これは――生きている音。)
その鼓動が胸を打つ。静寂の中で、誰かの声が重なる気がした。
――アッシュ。
意識した瞬間、彼の気配が風を通して胸に届く。
理の計算では説明できない、微かな律動。
それは、遠い昔に知っていた“他者の温度”だった。
(あの夜、風は泣いていた。
私も、泣いていた。
けれどその涙を、理の名で閉じたのは――私自身。)
風が頬を撫でる。まるで「それでいい」と囁くように。
イリスの瞳が細められる。そこにあったのは、恐れでも後悔でもなく――静かな赦し。
そしてその奥に、わずかな“ぬくもり”が芽吹いた。
それはまだ名前を持たぬ感情。
けれど、彼女の心拍は確かに一度だけ、風と同じ速さで鳴った。
そして、彼女は言葉を紡ぐ。
「風よ――鳴り響け。理の外にある声として。
沈黙を抱き、鼓動を解き放て。
我が杖は調べ、我が心は器。
我が名は“断彩”にして、再生の巫女。
此処に祈る、調律・第二《律波:エオリア》。
音なき歌を、風に還せ。」
その声は祈りのようで、命令のようでもあった。
瞬間、光が走り、風が形を得る。
空気の粒が波となり、灰と翠の層を幾重にも重ねてゆく。
それは“音”ではなく、“呼吸”。
まるで世界が、泣きながら笑っているようだった。
ルミナリアが共鳴し、白光が強く放たれる。
その光は谷全体を包み、祈祷塔が一斉に鳴いた。
アッシュが観測を告げる。
「環境魔素、安定化。感情波、収束傾向。……同調率、上限を突破。」
だがその声の中に、わずかな“揺らぎ”があった。
それは数値には変換できない、微細な律動。
ルミナリアの光とノルディアの共鳴が、まるで二つの心臓のように脈を合わせていた。
イリスはその響きを感じ取る。
(――これは、世界の鼓動。けれど同時に、私たちの鼓動。)
「……風は、呼吸している。」
イリスが微かに呟く。
その声を受けて、風鈴塔がひとつ鳴った。
――チリリ……。
その音は、世界の心拍のように谷に反響した。
ルーファが両手を広げ、風を受け止めた。
「……風が喜んでる。貴女の調律の中に、“色”を見つけたのよ。」
イリスは静かに首を振る。
「違う……私は、均したはず。
この世界はまだ“歪み”に囚われている。色など――」
ルーファはその言葉を遮らず、ただ風を見つめながら微笑んだ。
「ねぇ、イリス。完璧って、少しだけ不自然だと思わない?
風は、いつも不完全だから美しいの。」
アッシュが報告する。
「調律結果:安定指数+3.1%上昇。……想定外の調和。」
その瞬間、彼の胸の奥でも何かが脈打った。
自らの声に含まれるわずかな“震え”――それが何なのか、彼自身にも分からない。
けれど、その律動だけが確かに、イリスの鼓動と共鳴していた。
ルーファがその様子を見て、灰の中に膝をつき、そっと風へ語りかけた。
「風はね、貴女を赦したわけじゃない。
でも――貴女を見捨てることもできなかった。」
彼女は両手を胸の前で重ねる。翠の光が掌の間に生まれ、それがまるで“心臓”のように脈打った。
「風は、母なの。
叱るときも、泣くときも、ただ願ってるだけ。
――貴女が、もう一度“息”をしてくれることを。」
イリスの瞳がわずかに揺れる。胸の奥で、静かに鼓動が重なった。
(……母? 風が、私を……。)
ルーファは微笑む。
「だから、恐れないで。
風は、貴女をもう二度と独りにはしない。
貴女が“声”を失った夜も、
風はちゃんと貴女の歌を覚えていた。」
イリスは返さなかった。
ただ、杖を胸に抱き、目を閉じた。
その頬を撫でた風は、冷たくも温かくもあった。
まるで、失われた母の掌のように。
灰が静まる。アッシュが周囲を観測する。
「風律国アーヴェル――安定域確立。封印歪み、完全修復。」
イリスは目を伏せ、風の流れに耳を澄ませた。
「……世界が、ようやく息を思い出したのね。」
そして、微かに微笑みながら呟く。
「この風の息が、止むまで――もう少し、ここにいましょう。」
ルーファは丘の上に立ち、風を見上げた。
その瞳は、まるで母が子の背を見送るように柔らかかった。
「風が笑った。……やっぱり、貴女たちは違う。
もう、世界は息をしている。」
灰と翠の粒が空を渡り、三人の影を包む。
風が穏やかに流れる。
その流れの中に、確かに“歌”があった。
かつて断たれた旋律の、その続きを――
風が優しく奏でていた。
それはまだ名のない再生の歌。
灰と翠をつなぐ“はじめの音”だった。




