風の祈りの地アーヴェル
灰の荒野を越え、幾重もの風の層を抜けた先に――その地はあった。
風の祈りの地アーヴェル。
……かつて“風”が最初の歌を得た聖域であり、今も祈りだけが息づく谷。
谷は深く、灰に沈んだ大地を縫うようにして広がっていた。
風が地を這い、灰を撫でるたび、翠が一瞬だけ脈を打つ。
それは草ではない。灰の粒に混ざった風の残光――風律の記憶そのものだった。
風が吹くたび、灰と光が入り混じり、まるで大地が息をしているように見える。
その息吹は、世界がまだ“心”を失っていなかった頃の残響。
ここが八律の源――原初の律が生まれた“最初の風”の地であることを、イリスの胸は知っていた。
「……ここが、風の祈りの地――アーヴェル。」
イリスは足を止めた。
白銀の杖が淡い光を放ち、灰を透かして風を照らす。
音のない波紋が空気を震わせ、遠くの丘で古びた“風鈴塔”が応えるように鳴った。
その音はか細く、けれど確かに“生きていた”。
灰に覆われた世界で、それは唯一の歌のように響いた。
アッシュが無色の瞳で地平を観測する。
「構造物、散在。外周に風鈴塔、七基。……住居跡、崩落率八九パーセント。政治体制:非国家・聖域。周辺国への従属なし。」
彼の声は無機質だったが、その観測は、まるで“風”が語る言葉を逐一記録しているようでもあった。
イリスは目を細め、沈黙の谷を見渡す。
石造の家々は風化し、屋根は灰に埋もれている。
だが、崩れた壁の上にはまだ“布”が残っていた。
薄い青の祈祷布――風の民が願いを託した布。
その端が風に揺れ、灰の中で唯一の色を見せていた。
それは、遠い記憶のどこかで見た祈祷布と同じ色だった。
理性の奥に沈めたはずの何かが、風の流れに呼び覚まされる。
「人の気配は?」
「微弱。生命反応――三つ。定義不能。……有機体か幻像かは不明。」
「残情民かもしれないわね。」
谷を渡る風が頬を撫でた。
灰の匂いに、かすかに甘い香が混じる。
それは草でも花でもない、“記憶”の香りだった。
風の奥で、囁きが聴こえる。
声ではない。
それでも、イリスの胸の奥に何かが触れた。
(……呼んでいる。)
ルミナリアが応じて震える。
光が地に沈み、やがて灰の底から、微かな符文が浮かび上がった。
「風の印……まだ、生きているのね。」
灰の地表には、古い文字が彫られていた。
それは風律国の古詩――祈りの言葉。
“風は生まれ、風は還る。
声ある者よ、風に己の色を託せ。”
イリスが指でなぞると、灰が淡く光った。
その瞬間、丘の上に立つ塔から“音”がした。
風鈴のような、祈りの残響。
それはまるで、彼女の来訪を知っていたかのように。
アッシュが記録を取る。
「音響波形、反応。……感情因子、恐怖と懐古が混在。」
イリスは静かに答えた。
「この地の風は、感情を覚えている。
喜びも、悲しみも、恐れも。全部、風が運んでいるのよ。」
イリスは杖を構えず、ただ風を見つめた。
「アッシュ、貴方に任せるわ。
この地は、まだ調律できる。」
アッシュは頷く。
灰を踏みしめ、前へ出る。
風が逆巻き、灰の中から微かな影が立ち上がった。
それは形を持たない――ただ、恐れの“匂い”を伴う揺らぎ。
ノルディアが白銀に脈動する。
だが今回は、影は完全に姿を取る前に崩れた。
灰の粒が舞い、風に散る。
「……反応、消失。中和波形、極小。」
アッシュの報告に、イリスは頷く。
「ここでは、まだ恐怖は“形”を持っていない。
けれど、この地の風がそれを運んでいるわ。」
灰の中を渡る風が一層強くなる。
その流れに混じって、何かの囁きが微かに響いた。
声ではない――しかし、確かに“感情の音”があった。
アッシュが観測を続ける。
「感情波、微弱だが拡散中。……この地の“風”が媒介。」
イリスは小さく息を吸う。
「ええ。アーヴェルの風は、感情を運ぶ。
喜びも、悲しみも、そして恐れも。」
ルミナリアが低く共鳴し、灰の風を照らす。
杖の先に、淡い光が生まれる。
それは祈りにも似た音――
まるで、灰の奥で眠る記憶を呼び覚ますように。
※
谷の中心――“風の祈祷台”が見えた。
灰に埋もれながらも、その形を保っている。
祈祷台の周囲には、風を導くための八本の“風導柱”。
かつて、八律がここから世界へ流れ出したと伝わる。
風が祈祷台の上を滑る。
一瞬、風紋が描かれた。
その形は、まるで人の羽ばたきのよう。
「風が……形を持っている。」
アッシュが呟く。
イリスは頷いた。
「風律は、感情の最初の律動。
世界の息吹そのものだった。
――そして、今は恐怖に侵されている。」
灰の中から、冷たい空気が流れ出す。
ノルディアが微かに共鳴するが、イリスは静かに首を振る。
「まだいいわ。……これは、この地が私たちを“試している”だけ。」
灰の風が再び流れ、ルミナリアが震えた。
その音が、まるで答えのように響いた。
※
灰の谷を抜けると、丘の上に古い塔が見えた。
その頂には、風を集める巨大な輪――“風環”があった。
その輪が、微かに光を帯びている。
その姿を見た瞬間、イリスの頬を風が撫でた。
それは彼女の視覚よりも先に“存在”を知らせる風――
まるで、世界が少女の名を告げているようだった。
白い衣を纏い、翠の髪を風に揺らす少女。
その姿は、灰の世界にただ一つの“色”だった。
イリスは立ち止まり、風の方へ視線を向ける。
「……誰かが、歌っている。」
……風が答えた。
音も言葉もないが、確かに“声”があった。
少女の唇が微かに動き、風がそれに呼応する。
灰の中で、旋律が生まれた。
声にならない歌――けれど、世界の灰がその音に震えた。
ルミナリアが共鳴する。
杖の先から、翠の光が溢れ出す。
「風が……泣いている。」
イリスが呟いた。
その瞬間、アーヴェルの風が息を吹き返した。
灰の海に、色が差した。
――風律の歌が、再び世界を震わせた。
……そして、風は、静かに息をついた。




