市村の命
五月一日の五稜郭。各地より撤退して来た者達を収容し、攻防戦の準備に取り掛かっていた。
五稜郭を取り巻く街道に防衛線を展開する案も出ていたが、大鳥・土方はこれを拒否した。この時点で防衛線を展開した所で、徒に消耗戦を展開するのみ。彼等は、新政府軍の布陣を見、そこに奇襲を掛ける事を選ぶ。
更に、幕軍に残された回天と蟠竜の二隻の軍艦に待機命令を出し、機関に火を入れる。甲鉄・春日に対抗するには明らかに脆弱ではあったが、もうこの二隻しか無い幕軍に、選択など出来なかった。
大鳥・土方両名は奇襲を繰り返しつつ防衛を行う事を決意していた。彼等二人の中では、軍艦など既に戦術として考えられていなかったのだ。
五稜郭より南西にある箱舘山の北に弁天台場を築き上げ、箱舘湾に対する防衛拠点とした。が、明らかに射程距離は軍艦に及ばず、海戦が始まれば単なる的と化すだろう事は分かっていた。
やれるべき事は全てやる。無論、全てが一蹴されるであろう事は誰が見ても明白。
この時、土方は榎本に降伏を勧めていた。
「総裁…まだ戦を望みますか…」
土方の言葉が余程意外だったのだろう。目を丸くし、軍議室から外を眺めていた榎本は、土方を振り返り言った。
「お主の口から不戦の言葉を聞くとは思わなかったが…?」
「戦えと言われれば、命尽きるまで戦いますとも。それは皆同じだと思います」
「ここで降伏を選び、誰が良くやったと言うか? それが武士道の本懐でもあるまい」
再び外に目を遣る榎本…。
「部下の命を思い遣るも、武士道かと」
「鬼の副長に、そのような言葉は似合わぬぞ。弾が尽き、刀折れるまで戦い抜く事こそ…」
「その前に命散る者が大勢居ます。我々指揮官が命を張り、降伏すれば部下達は…」
「降伏に命を張るのであれば、戦いに命を張れ、土方」
二人の思いは最早平行線を辿っていた。万策尽きるまで戦い抜く決意を固める榎本と、部下を思い中枢の者達が盾になる事を選ぼうとする土方。どちらが誤りでもない。そして、互いの胸の内を分かり合う二人だからこそ、その続きの言葉は出なかった。
その日の夜から、大鳥圭介は五稜郭より北西にある七重浜の新政府軍本営を数度に渡って夜襲。ここが陸地戦の拠点であると見た大鳥は、五稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や桔梗野などに伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置。小競り合いが展開され始めた。
そんな夜が続いた五月四日。
土方はある一室に以蔵と小姓の市村鉄之助を招き入れていた。
「市村、これを日野の家族の者に届けてくれないか?」
そう言いながら、土方は小箱を手渡す。不思議に思いながら市村がその箱を開くと、そこには土方の写真と髪が入っていた。
「土方様…これは!?」
驚く市村に笑顔を向けた土方は、その表情のまま言う。
「遺影・遺髪となるだろうな…」
その言葉を聞き、市村はその箱を締めて差し返す。
「私は…土方様の小姓として、いつ何時も離れませぬ。土方様に従い、この地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい…」
市村の、その健気な言葉に土方は刀を抜く。
「そうか、ならばここで討ち果てろ」
怪しく笑い土方の目は鋭く光り、刃は市村の喉元に掲げられる。
「これは命令だ。背くとあればここで斬る」
その威圧感で市村はドッと後ろに仰け反り倒れる。
「ひ…土方様…」
異様な威圧感に、市村の身体は物の怪に憑かれたように震える。一歩も動く事ができず、その顎先に脂汗が流れて来る。
「どうする…。俺の命を聞くか、ここで果てるか」
「何故私なのですが…」
市村は涙を流し、訴える。すると土方は刀の刃を返し、顎へと当てる。
「この先、童はいらぬ…。お前には、お前にしかできぬ事をすればいい。戦は我々に任せてな。夜の内に旅立て…。その方が目立たん」
二人を見ていた以蔵は、懐から黒い布切れをを取り出した。
「市村…、これもついでで良い。江戸は桶町、千葉道場の佐那という女に渡してくれ」
市村の横に座り込み、倒れている市村の腹の上に乗せる。
「佐那は私の妻だ…。何年も江戸に帰っていないから、心配している筈だ。これを渡してくれ…。私の親友から預かり、私が肌身離さず持っていた、大切な物だ」
土方は刀を引き、鞘へと納めた。そして市村は恐る恐る腹に置かれた布を開いた。
それは、着物の袖だった。黒色で、大柄な男の物だろう…紋が白く抜かれていた。
「桔梗…どなたの紋…でしょうか…」
「坂本龍馬。この戦を鎮められた筈の、唯一の偉人であり、私の友だった」
その言葉に、土方もピクリと動く。が、以蔵の心境を察してか、口を開く事は無かった。
「そんなお偉い人が居るのなら…この戦は…」
「だった…と、言っただろ? その友を斬ったのは、私だ」
「…えぇ??! 友を…?」
以蔵はグイッと市村の襟を掴み、引き寄せた。
「他言はするな…。すれば地獄より貴様を斬りに行く」
そう言うと、以蔵は襟ごと市村を押し倒し部屋を出る。
そしてそれに続き、土方も……。
一人残された市村は、暫く呆然と倒れていた。突然に突き放された事の驚きと恐怖で混乱していた。だが、次第に感覚が戻り、ここに居場所が無い事を理解し始めた。
「出て…行かなきゃ…ここは居場所じゃ…」
子供の様に自分に言い聞かせながら、荷物を纏めようと壁際にある自らの風呂敷を取りに行った時、ふと窓に目を奪う者があった。
一瞬だった。直ぐに影は消え、いつもの箱舘の夜の闇だけになっていた。
「良いんですか?」
「ああ、市村はまだ若い…。死なせる訳にはいかんからな」
「そうじゃありません。あんな別れ方で良いのですか?」
「お前も、しっかり俺の気持ちを踏んでくれたと思ったが…?」
二人は窓際で、自らの足で立った市村を確認した後、すぐにその場を去った。
市村が見たのが以蔵か、土方かは分からないが、彼は後日こう言っていた。
「あの影は土方様だった」
市村が去り、数日後の五月十一日…。この日、箱舘の地を巡る最終決戦が幕を開けた。
それは以蔵もかつて味わった事の無い混戦となっていった