天を敵に回す
「砲兵!砲兵はおらんか!」
甲鉄の甲板で怒号が響く。
「ここに居り申す」
「お主砲術士官だな? 機関は火を落とした。総員に待機を命じておけ」
「じゃっどん、今は戦時…、機関の火を落とすんは危険じゃなかとですか?」
「…一介の砲兵が戦局に口出しなど、できる立場か!?」
明治二年、三月二十二日。この日、新政府海軍所属「甲鉄」は、箱舘に向かう途中で宮古湾に寄港していた。
「戦時に機関から火ば抜くとは…。政府は奴らの事ば軽視しすぎでおもんそ…」
待機を命じられた砲術士官は、不機嫌そうに呟きながら仲間を集め、伝えた。
「総員待機いう名が出たばってん…今は戦時。各自持ち場での休息、急事に備えんしゃい」
薩摩訛りが色濃く残るこの男の指示に、全砲術士は歯切れよく返事をし、持ち場に帰る。緊張は途切れていない。
その男は西の空を見上げ、隣の部下に言った。
「嵐が来る。各員に警戒しつつ、風雨を避ける様、伝えておきんしゃい」
「東郷殿…、先程は持ち場にて待機と…」
「それはおいどんからの指示。そのを緩和するのは、おまはんの部下への愛情でありもす」
士気を保て、という上官指示と、それを加味した上で風雨から身を守れという指示。
命令がそれぞれの役割を果たしている事に気付き、ピシッと姿勢を正して駆け出す男。
「嵐か…、今夜は無事に乗い切れそうなあ…」
この士官の名は『東郷平八郎』。日清・日露戦争でその名を上げる事となる英雄である。
同じ頃、箱舘から三隻の戦艦が南下していた。
箱舘より途中八戸を経由し、南下する三隻の船は大綱で連結されていた。
その指揮を執るのは、海軍奉行の荒井郁之助と、回天艦長甲賀源吾の二人。引き連れる軍艦は、回天・蟠竜・高雄となっていた。
「土方さん、何故海戦にまで赴くんですか…?」
以蔵は回天の船室で土方に聞く。通常、これは海軍の指揮下にあり、海軍が繰り広げる戦場となるべきであるが、土方は自ら進んで船に乗っていた。
「お前こそ、好き好んで戦場に付き合ってるじゃないか」
「好き好んでいる訳ではありませんよ、私は土方さんの警護担当でしょ?」
「頼んだ訳では無いが…心強くはあるな」
二人は笑顔を見せながら語り合っていた。
「波が高くなって来たな…、やはり嵐になるか…」
「不吉ですね、我々は嵐の度に戦況を危ぶまれて来ましたから」
「本来なら、その言葉を否定する所だが…大綱で繋いでいる以上、嵐は危険だな」
仮に一隻は嵐で沈没すれば、たちまち巻き添えを食らってしまう。晴天であれば有利であっても、嵐ではそれが逆になってしまう作戦だった。
暫く沈黙が続き、波の高さを計る二人…。
突然、身体が宙に浮く程の高波が船を襲う。
慌てた二人は、そのまま這いつくばる様に甲板へ出ると、艦隊は嵐の中に居た。
船員それぞれが手摺に捕まりながら嵐への対策に駆けまわっていた。そこは最早、雨か海水か分からない程の水に溢れ返り、混乱していた。
「たった一瞬で嵐になったか!」
土方が叫ぶが、周りには聞こえない。
「土方さん! 高波の影響です! 恐らく雨は激しくありませんが、この風では危険です!」
「岡田、船尾に向かうぞ!大綱を見る!」
土方と以蔵は、高波に翻弄される回天の上を、弄ばれるように船尾へと必死に向かう。
途中、積み荷などが身体に当たり、所々に怪我を作りながら、ようやく船尾に辿り着くと、そこには指揮官の海軍奉行・荒井の姿があった。
「荒井殿! 艦隊は…!?」
大声を上げて土方が叫ぶ。その声に反応した荒井は、後方を指差し、叫ぶように答える。
「蟠竜が妙な煙を上げている! 恐らく浸水で機関がやられた!」
荒井の指の先を見ると、薄らと暗くなり始めている中に、煙に包まれている蟠竜が見えた。前後に大綱を付けられ、波の重みと船の重みで自由度が無かった蟠竜は、他の二隻よりも被害は大きかったのだろう…。
「荒井殿! 大綱を切り離して下さい!」
「何だと!? 蟠竜を見捨てろと言うのか!」
「逆です! 前後を綱で縛られ、船首・船尾の自由が利かねば、波に翻弄され沈没します! 更に中の一隻が波に呑まれれば、前後の二隻も海中に引き込まれます!」
「分かっている! だが離散すれば奇襲はできん!」
「船を一隻でも失えば、制海権の奪取は不可能になります!!」
荒井は波に呑まれかけ、自由の利かない蟠竜を眺めていた。
「またしても嵐で…!」
荒井は苦難の表情を浮かべていた。ここまで沈没・放棄した軍艦は、全て嵐による損失。神の仕業としか思えない。
「我等は、天に見放されたか…」
こうなると、神まで敵に思える。そうなれば、自ら鬼と化すしか勝利の手立ては無くなる事を覚悟するしか無かった。
目の前には、鬼神・土方、その後ろには蟠竜より後方を眺める修羅・岡田が居る。
「土方殿…、斧を持って来てはくれんか?」
荒井は大綱を切る決意を固めた。そして、同じ頃…蟠竜の後方、高雄でも大綱を切る判断を下していた。高雄は既に浸水を始めており、これ以上の繋留は自船すらも沈没の危険があると判断した為だった。
この嵐により、三隻は離ればなれとなり、機関室がやられた蟠竜は山田港に入港。修理を止むなくされた。
残った回天と高雄は、嵐の後合流する事ができ、鮫村沖で蟠竜の修理を待つ事にした。万が一はぐれた時は、この場で落ち合う様に段取りしていたのだ。
既に三月二十四日となっていた。
準備を整え、万全の態勢とは言えないが、東郷の指示の元で士気を保つ新政府海軍と、度重なる嵐で疲弊と士気の低下が続く幕府海軍。
天は既に幕府軍を敵と見定めていた。