戦の成り立ち
ここからは複雑な戊辰戦争へとなって来ます。予備知識をご用意しておりますので、自信の無い方はこの回を読む前に、後書きをご参照ください。
九月上旬。会津藩は尚も抵抗し、戦を続けていた。その中には新撰組の斎藤一の姿もあった。
宇都宮城で土方と共に戦った大鳥圭介の姿もあったが、彼は早々に仙台へと転戦する事を斎藤に伝え、これ以上の被害を食い止めようとしたが、斎藤はあくまで徹底抗戦を行うべきであり、会津に忠誠を誓うべきと訴えていた。
会津戦線を離脱する大鳥隊と、徹底抗戦を誓う斎藤隊。新撰組は分裂した。
そんな状況の中で、土方は仙台へと入っていた。刻を同じくして大鳥隊とも合流。分裂はしたものの、ここで土方は新選組へと復帰。この頃、年号が「慶応」から「明治」へと変わる。
仙台に7艦の軍艦が入港する。
「回天」「蟠竜」「千代田形」「神速丸」「美賀保丸」「長鯨丸」…。当時最強と謳われた「回天」の姿が見えた時は、幕府軍から歓声が上がった。
勿論、その回天を旗艦とし、艦隊長榎本武揚が乗船している。
この榎本武揚こそ、戊辰戦争の火種とも言える存在だった。
大政奉還後、徳川慶喜は「軽挙を慎むべし」との意向を示していた。その上で新政府に異論を投げかけていた事で、鳥羽・伏見で戦が起こったのだが…そこでも榎本が動いていた。
事の発端は鳥羽、伏見にあった。幕府海軍は大坂天保山へ出港。後方支援を進めていたが、鳥羽・伏見の戦で幕軍が敗れると、即座に慶喜公を回収、江戸に引き上げる。
更に江戸開城の直後、徳川家には謹慎命令が下り、それを不満とした榎本は海軍軍艦を率いて江戸を出る。幕府中枢の抗戦派は榎本によって纏められ、次々に呼応して行く形となったのだ。
主君が蟄居され、尚も異論を唱える中で従者が立たずして義は無い。新政府への徹底抗戦を訴えていたのである。幕府の重臣はこれに呼応。遂に幕府海軍を抑える事に成功する。
その熱は、仙台に入港した「無敵海軍」により、更に加熱していた。
彼等が何故、ここまで徹底抗戦をするのか。その思いは様々である。今、その思いをそれぞれに整理しなければ、この先の戦に意味を見いだせない為、幕府軍と奥羽越列藩同盟の関係に付いて説明する。
元をたどれば徳川家の処遇に対する不満が挙げられ、それに反発し訴える戦からだった。主君を救う為に始められた戦は、それぞれの立場・思想により広がりを見せ、北日本を覆い尽くした。
それを危惧した新政府は、その中心に会津藩ありと判断。会津を朝敵と成した。
しかし、会津は朝廷に戦を望んだ訳ではなく、徳川の処遇を不満と訴えた結果の戦。当初は敵意無しと当時の藩主・松平容保は家督を息子に譲り謹慎。恭順の意思を示したが、新政府は認めなかった。
新政府は、会津を取り巻く諸藩へ討伐令を下す。
そして、諸藩は会津の赦免の為に動きだし、遂に会津降伏という話しが浮き上がる。が、その話しは会津が蹴る事となる。
当時、戦に消極的だった諸藩に対し、武力による圧力を掛けようとする新政府。その新政府軍の中心にいたのが「世良脩蔵」という男だった。
会津を取り巻く諸藩が、戦を避けて説得している時に、この世良という男が波紋を広げる。
ある日、会津を墜とす為に派遣されていた世良は、兵力の不足を訴える為に、総督府や京に宛てて増援を頼んだ。その書面を仙台藩士に託すのだが、彼等はその書面の内容を見て激昂。
書面には「奥州皆敵」と記されていた。
怒りに満ちた仙台藩士達は、世良を襲撃し暗殺。
朝廷に対する怒りと諦めから、ある奇策を打って出る。それが「北部政権」構想だった。
皇室の輪王寺宮公現法親王を元首に「奥羽越列藩同盟」が誕生し、これにより日本を東西に分裂させようと考えた。
この北部政権構想こそが、会津戦争以降の動きに大きく影響を及ぼしている。
全ては繋がり、流れになっていくが、そこには様々な動きがあり、単純な戦では無くなっていた。それ故に退けぬ事情がより複雑になって行き、戦う意義を明確にできないままに、戦は加速して行ったのだ。
土方等が『戦う意義』を見失っていたのは、こうした背景にある。
誰の為の戦なのか、この戦で得る物はあるのか…。
歴史に「たら・れば」は禁句だが、この時奥羽越列藩同盟・北部政権構想が無ければ、ここまで多くの犠牲を出さなかった事は事実である。
そして、この成り立ちの違いから事態は急変する事となる。
戊辰戦争はこの辺りから複雑になって参ります。場面場面で説明は入れて行きますが、この時代に明るい方で無ければ、流れが把握できない可能性が高くなります。
既に把握できていない方、これから先が不安な方は、『活動報告』に、「戊辰戦争予備知識のコーナー」を作ってますので、ご参照ください。
本編に書くには、あまりに簡略化しているので、流れの把握として…。
それでも分からない方、遠慮なく疑問をぶつけて下さい。






