日光からの撤退
四月二十三日夕刻。土方が前線より退いた後、遂に宇都宮城が陥落。残る幕府軍は日光山へと移動する。
新政府軍は、この宇都宮城を今後の掃討戦の基点とすべく全隊を集結させた。
更に勢いに乗る新政府軍は今市付近で幕府軍と交戦。日光を攻め落とす勢いで前線を寄せて行く。
「日光攻めか…」
宇都宮城では、新政府軍司令官の板垣退助が居た。
「ここで日光もろとも旧幕府軍を叩けば、奴らの拠り所も無くなり、会津攻めが容易になりますな」
「香川殿、そう事は簡単にはいかんちゃ…」
「日光は攻めぬ…と、仰られるか」
「そうでは無い。じゃが此処で戦を始めると、旧幕軍も徳川聖地を守備しようと交戦するはずじゃ」
「しかし、物量・兵力・士気、どれに於いても我々が勝っておるのでは…?」
「勝ち負けじゃ無いがじゃ…。日光廟は最早徳川だけの聖地では無いがじゃ」
宇都宮城天守で日光攻防戦に当たり、板垣退助と香川敬三が話し合っていた。
「徳川を代表する場所…叩いておくべきでは無いでしょうか?」
「仮に日光廟を叩けば、宇都宮周辺の者らぁは新政府に対し、悪と評するじゃろ」
「徳川に与する輩でしょう。制圧すれば…」
「香川殿。間違ぅたらいかん。ワシ等ぁは独裁の為に戦をしちゅう訳じゃあ無いろぅ?」
板垣の言葉に、香川は言葉を失う。彼の中では徳川に関与する者を掃討する戦だが、板垣はあくまでも反乱に対する鎮圧戦であった。
「最早徳川幕府は崩壊したがじゃ。これからは様々な思想を柔軟に取り入れ、新しい時代を作らにゃ…あの世で中岡に合わせる顔が無いきの…」
そう、板垣退助は、中岡慎太郎と共に武力討伐を目指し、後に大政奉還の意義を説かれた男。
「では、このまま睨みあいを続けると仰るか」
香川の反論に、板垣は腕を組み思案する。
そんな時だった。
「板垣司令官はこちらに居られますか!」
慌てた様子で伊地知正治が入って来た。
「何じゃ、ワシはここに居る」
「只今、日光山僧が登城し、戦役回避の嘆願書を…」
息を切らせながら伊地知は板垣・香川両名に嘆願書を手渡す。
それを手に取った板垣は香川を見て頬を緩めた。
「我等に流れが来た様じゃの」
「板垣殿は天に見込まれている様ですな…。日光山に使者を向けますか」
「香川殿、人選はお任せするき、旧幕府軍を日光山から下ろすがじゃ」
「受け取ると思うか?」
「ああ、板垣は世論を味方に付ける為に思案している筈だ…。土方殿の策に乗る筈だ」
「しかし…日光山僧を使うとは考えたな。幕軍の使者よりも、世論を重視する板垣には効果的だ」
日光山で陣を構え、徐々に兵士を会津へと送り出している辰巳と大鳥は、日光撤退を控えた大芝居の舞台に居た。
「化かし合いだ。この後、奴等は我々に使者を向ける筈だが、その思案を自然に長引かせる事が鍵になる」
「白河は既に新政府に抑えられたとの情報も入ってる。会津防衛は、必ず成し遂げなければな…」
「奥羽越列藩同盟と共に、会津では四編隊を組み防衛戦を展開するとの情報もある。土方殿が先に合流しさえすれば、我々が合流する頃には十分な展開ができている」
「東西を分けるには、少々北上してしまいますがね…」
日光廟で撤退を指揮する二人は、関ヶ原を思い描いていた。
「辰巳殿…。この国を二分する戦で、我々は何を思い描くのだろうか…」
「…侍の時代だ。かつてあった筈の規律・規範、義・礼…失われつつあった士道の時代。この崩壊によって幕府も崩壊した。平和の中で我等侍は腐敗し、かつてあった輝きを失ったのだ」
「戦と共にあらねば、腐敗する我々侍は…有るべき存在なのか?」
「大鳥殿、武による争いだけが戦では無い。その考えこそが腐敗をもたらしたのだ」
「侍は見返りを求めてはいけない…自己犠牲の元に、仁・義を尽くす」
「その通りだ。この戦も我々の為と考えれば根底から覆ってしまう。少なくとも、土方殿は今、己の欲望の為には戦ってはおらん」
「侍とは…奇特な存在だな」
二人は頬を緩めた。土方の存在こそがそれなのだと頭を過ぎったのだが、その域に達すれば皆からこう思われる…という答えに行き着いた。
「忠義に生き、仁義に死する。彼の方こそ、真の侍なり」
辰巳はそう言いながら軍服を正す。
この後、新政府軍の使者により日光を明け渡し、会津方面へと向かう本隊だったが、辰巳は会津へ、大鳥は仙台へと向かった。