鴨川にて
油小路で伊東を討ち取った以蔵は、京の暗がりをひたすら歩いていた。ひと時は街を覆い尽くした「ええじゃないか」の騒乱も、この時間には落ち着きを見せていた。
以蔵は細道から大通りに出て、鴨川に向かいながら長い沈黙の町の空気を味わう。彼を照らす月は細く、黒い雲が時折光を遮る。
鴨川に辿り着いた以蔵は土手に腰を下ろし、まだ薄暗い月明かりに照らされる水面を眺める。既に空気は冷たく、吐く息も白い。
「斬りかかる気が無いのなら、隣へ座ったらどうだ?」
以蔵は水面を眺めたまま語りかける。
「やっぱり気付いちょったがか…」
背後から出て来る男は、ゆっくりと背後から歩み寄り、以蔵の隣に腰を下ろす。
「何のつもりだ?」
「何ちゃ…。おんしとゆっくり話しがしたかっただけじゃき」
男は笑って以蔵に語りかけた。
「坂本を斬った…。ワシ等にとっちゃ想定しておらん行動やったきの」
「だろうな。俺自身、できるなら斬りたくは無かった」
「斬らない方法を考えはせんかったがか?」
「考えたさ…。考えた結果、こうなった」
二人は表情に感情を持たさずに話し込む。まるで古い友人が語り合うかのように、ごく自然に。
「宜振、お前は坂本龍馬を斬るつもりじゃ無かったのか?」
「ああ、そのつもりじゃった。おまんから全てを奪う事が、ワシが生き延びた目的ぢゃきの」
「なら、何故伊東の策略に加担した。奴は坂本龍馬を斬らず、この国を軍事大国にする事が目的だった筈…。その中枢に座り、支配する為の策略は、お前に何の得ももたらさない」
「ワシは斬るつもりじゃった。斎藤が間諜じゃと気付いておった伊東は、ワシも利用し、坂本龍馬暗殺計画をでっち上げたがじゃ…。伊東は新政府の偶像として、坂本を利用するつもりで、ワシ等ぁを利用したがじゃ」
「お前も、伊東に翻弄されたか…」
以蔵は苦笑いを月明かりに照らしながら、宜振の顔を見た。
「ワシ等ぁの決着も、そろそろ着ける時かも知れんの…」
宜振も、その苦笑いの以蔵に応え、同じく苦笑いをしながら答える。
「刻に翻弄された、二人の以蔵って事でか?」
「…そうじゃ、ワシがお主に斬り掛からんかった理由を、教えちゃる」
「正々堂々…って簡単な理由ではなさそうだな。何があった?」
「土佐・薩摩共にひた隠しにしちょるが…坂本の亡骸が盗まれたちゃ」
一瞬、時間の流れが全ての動きを奪う。風の流れ、水の流れすら止めてしまう。無論、実際に止まった訳ではないが、刹那の時間が永遠に感じた。
「まさか…本当に盗まれたのか!?」
「いや、恐らくお主や高松と同じじゃろぅ。今はどこかの刻に旅立ったのかも知れんがの」
宜振は、そう言いながらゆっくりと立ち上がる。
「つまり、ワシは刻を超えんとおんしへの復讐は果たせん様になってしもうたがじゃ」
「龍さんが…どこかで生きている…」
以蔵は安堵に襲われ、自然に笑みが浮かんで来る。
「立て、ワシと対峙するがじゃ」
「俺と勝負し、刻を超えるつもりか…?」
「おんしがワシを斬る事が出来れば、その可能性もあるが…。斬られるつもりも無い。復讐っち言う感覚でも無いがじゃ。ただ、ワシ等の呪われた刻を取り戻したいがじゃ」
「それが、死ぬ事ですら無かったとしてもか?」
「刻が選ぶなら、仕方ないがじゃ」
宜振の言葉に、龍馬が重なる。
人の力は、刻を歪ませる事はできない。自らの意思で、自然にそれを選択したかのように必然を感じさせずに流れて行く。
周りを巻き込み、自身の運命へと変化を遂げ、流れて行く。
「俺は、刻の流れに見放された存在だ。それでも仕合を望むのか?」
「ワシが此処に居るっちゅう、確かな実感を味わわせてくれんかの」
宜振から出た言葉は意外だった。
正体不明の浪人にその存在を奪われ、武市から捨て駒の様に扱われ、伊東からも信用されずに駒として扱われた男。剣一が江戸に来た事での一番の被害者だった事は、明白である。
「俺の名前は、木下健一だ。今より百五十年後から来た」
「そうかい…。もし違う出会い方をしちょったら、ワシ等はどうなっちょったかのぅ」
宜振の言葉の後、以蔵は草履を脱ぎ棄て河原に降りる。
「語り合おう、もう一人の俺」
以蔵が下から声を掛けると、宜振はニッと笑い下に降りる。
「健一、おんしと最後に斬り合える事、これ程楽しみじゃとは想像だにしちょらんかったわ」
宜振は歪みなく笑う。
鴨川の河原で、二人は左足を引き、腰を落とし、柄に手を軽く乗せる。
「土佐居合術…。考えれば当たり前の事か」
健一は軽く笑い、自らと対峙する。