刻の流転
月明かりを眺める表情は、いつしか普段の以蔵の物に戻っていたが、その目は何も捉える事無く宙を漂っている。
丸一日、ただ何か一点を見つめる以蔵の様子を、飯を持って来ては持ち帰る原田を不安にさせていたが、その問いかけに応える事も無く、ただ無情に時が過ぎて行く。
『どこだ…ここは?』
以蔵の意識は、夢なのか未来なのか、過去なのか…。知らぬ山道の中にあった。
暫くすると銃撃の音が次第に大きくなる。近付いて来る音では無く、無音の世界に音が戻って来る感覚に似ていた。
『戦場か…』
半ば呆れたように溜息を吐き、ゆっくりとそちらに足を向ける。
林の隙間から男達が見えるが、彼等は洋式の軍服を身に纏い、ライフルと太刀を持ち、戦っていた。
『土方…副長!?』
そう、その中には髪を切り、洋式軍隊としての様相をした土方が居た。以蔵は慌てて周りを見回すが、どうやら戦場には違い無く、土方達が圧されていた。
その中で土方は以蔵の存在に気付き、声を掛ける。
「…………」
言葉が聞き取れない。周りの雑音のせいでは無い。彼の言葉だけ無言なのだ。
以蔵は唖然としながら後ろを振り返る。
そこには群衆に囲まれ、腕組みをして悲しそうに目を閉じた巨漢がある。
『西郷殿!?』
周りの光景は戦場では無く、どこかの日本家屋に変わっている。
『何が…おきてる? 気が狂ったか…』
そう感じてはいたが、そのあまりにリアルな光景に気が触れたとは思えない。
以蔵は口を開き、喉の奥に、腹に力を入れ舌を動かす。
「…………」
今度は自らの声が聞こえない。確かに言葉は発したのだろう。巨漢を取り囲む男達と、西郷自身はそれに呼応し、こちらを見、口々に何かを発する。しかし、その瞬間辺りは暗闇が覆い隠す。
「いかんちゃ。おまん、やるべき事をやったまでじゃろ? 何を躊躇うがじゃ…ワシは後悔などしちょらせん。剣さんに斬られるなら、仕方無いき…刻がそれを望んだんじゃろぅ? 友に斬られてワシは本望じゃきのぉ」
闇の中から声が聞こえる。微かに笑いも含まれる声は、紛れも無く彼の声だった。
闇の中に、光が一瞬煌く…。
土蔵の地面に倒れていた。
「目が覚めたか」
どうやら殴られていたらしい。左頬がズキズキと痛む。
「土方…副長」
「以蔵、貴様の運命を呪い責める前に、友の魂に応えろ」
以蔵はゆっくりと立ち上がり、頬を押さえた。
「私はどれくらい…?」
「丸二日だ」
土方はそう言うと、地面に転がる太刀を以蔵に渡す。
「明日の夜、近藤局長が伊東をおびき出し酒を酌み交わす」
そう言い残すと、土方は土蔵を後にした。
迷っている時間は無い。以蔵は自身の推測が正しければ、日本そのものの壊滅に繋がる事の危機感もあり、その地に赴く事を選ばざるを得ない。
「龍さん…済まない。いずれ、また会おう」
以蔵はグッと帯を締め直し、土蔵を後にする。
坂本龍馬亡き後、日本は戦乱へと動いて行く。