無感情
龍馬が息を引き取る頃、近江屋の階下にある土間では一人の男が顔を洗っていた。
顔に表情などは微塵も無く、まるで泥を洗い流すように顔や手に着いた返り血を洗い流す様は、異様な光景だった。
夜も更けて来たが、近江屋には「ええじゃないか」の騒乱が近付いて来ている。男は返り血を洗い流すと、太刀に着いた血脂も拭い、袴の中へと隠し表へ出る。
自分が何をしたのか…。記憶はあるが感情が戻らない。
ただひたすらに、全ての物を否定するように感情をも否定したまま、ゆっくりと通りを歩く。
やがて騒乱の中を進み、人混みの流れと逆行するようにある場所へと向かっていた。
「岡田…待て」
背後から何とか追い付き、肩を止めたのは原田左之助だった。
振り返った男の表情を見て、原田の手は肩から離れる。
「お前ぇ…岡田…だよな?」
感情を無くした男の表情は、目が見開き、口をギュッと閉じ、頬は強張り…そう、修羅そのものだった。
「何があった!? 坂本が襲われたのか!?」
騒乱の中から男を連れ出し、路地へと着いた頃に原田は聞いたが、返答は無い。いや、視点すら定まらないその男には、その設問すら届いて無いようだった。
今すぐ近江屋に向かい、状況を把握したかったが…鈍い原田にもこの状態なら何となく想像ができる。すぐに肩を抱き、屯所へと連れ戻り、土蔵の中へ押し込む。
「良いか、ここで待ってろ」
男にそう良い、すぐに外へと向かい土方を呼びに行く。
「斬った…。友を、斬った」
二刻程経った時、ようやく男は口を開いた。
「斬った? 坂本を、だな?」
土方の問いかけに、男はまだ答えない。
この時、既に新撰組は近江屋に行っており、京都奉行所をはじめ土佐藩邸に居た海援隊、御陵衛士も現場の検分を行っていた。
「今、誰が暗殺犯かを検分しているが…全く分からない状況らしい。ただ、刀の鞘が残っており…伊東が原田の鞘だと証言した、との話は来ている」
「俺の鞘だと? 槍しか持ってねえ俺が、鞘なんか持ち歩く訳が…」
原田が疑惑を打ち消そうとしている時、男は袴から抜き身の太刀を引き出す。
「!? 岡田…山南の鞘はどうした! まさか、その鞘を!?」
「何て事を…。見廻組に俺は見られてるから、その鞘があると真っ先に疑われちまうじゃねぇか」
「見廻組を追い返したのか?原田は…」
「あぁ、怪しい動きをしてやがったんで、ここらは新撰組の担当だから出て行け…って」
「成る程…。それなら原田の疑惑はすぐに晴れる。槍しか持って無かったんだしな」
「しかし…何故、岡田が坂本を斬らなくてはいけなかったんだ?」
土方は男に聞くが、男は『友を斬った』としか口にしない。
二人は溜息を吐いて土蔵を出る。
「気が触れる…だろうな…」
土方の言葉に、原田は驚きの表情を向ける。
「真の友を、経緯がどうあれ自らの意思で斬り殺したのだ。そして、その事を認めている。全ての感情を押し殺してまで殺さなければいけなかったのだろう…。正体(正気)に戻る事は困難だろう」
そう言いながら、土蔵に南京錠を填める。
「副長、何を…」
「伊東の奴が動いている以上、奴を外に出すのは我々にとって危険だ。正体が戻る事を祈りながら、ここに閉じ込めておく」
「しかし岡田が斬ったってぇ事は、それが刻の意思じゃねぇか! 奴は悪じゃねぇ!」
「勘違いをするな、原田。何も牢に入れる訳じゃ無い…。反対だ。奴を守る」
土方は羽織を翻し、組長室へと向かう。
「最早伊東を生かしておく訳にはいかぬ!」
そう言いながら、その背中からはこれまで見せた事の無い怒りを纏っていた。
「伊東…。我が友、山南敬介と浅野薫をよくも…」
遂に新撰組は、伊東甲子太郎粛清へと乗り出す。
そして、土蔵に幽閉された男は、感情を戻すこと無く、ただただ町の騒乱を耳に流し込みながら、怪しくも悲しく照らす月明かりを眺めていた。