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不自由な左足を引きずりルークが帰った先は、集落の外れに建つ一軒の屋敷だ。住人が数年前に死去して以来空き家だったものを、仮の住まいとして使用していた。
二階建ての屋敷は数年来人の手が加えられなかったことから所々に修繕が必要な箇所もあり、終の住処としてはあまりに似つかわしくない。
ただ満足している点を挙げれば、部屋数が多いことだ。
少なくとも二人暮らしをする分には困らないほどに。
「おかえりなさいですの」
玄関を開けた瞬間、ソフィアが出迎えてくれた。まるで待ち構えていたかのようなその所作は、毎度のことながら苦笑してしまう。
「まさか一日中そこに立ってたりはしないよな」
「もちろん。こう見えてわたしも暇ではありませんの」
「そうだったな。いつも助かってる。だから怒るな」
足音や気配を察しているのだろう、とルーク自らを納得させる。足を引きずっているとはいえ、そこまで音を立ててはいないはずだが。
「怒ってはいませんの。ところでルーク様」
「ん?」
広間へ向かおうとしたところで足を止める。振り返ると、ソフィアは言った。
「おかえりなさいですの」
意図を察し、ルークは再び苦笑し、応える。
「あぁ……ただいま」
「はい」
ソフィアが満足げに笑みを浮かべる。二人で暮らすようになったこの数ヶ月の間に、彼女はずいぶんと感情を露わにするようになっていた。
着替えを済ませ、食堂へ向かうとすでに夕食がテーブルに広がっていた。ルークが着席すると、その対面にソフィアが座る。二人で暮らすようになってからは、基本的に食事は一緒にとるようにしていた。
「いただこう」
「今日こそお口に合えばいいですの」
食事の支度はソフィアが一手に引き受けていた。が、その料理の腕はランスと比べるまでもなく悲惨なもので、当初はどんな料理も無味無臭の代物であった。そんな食生活がひと月ほど続き、初めて味――とんでもない苦味だったが――のついた物を食べたときは喜びすら覚えたものだ。
「こうして作ってくれるだけでありがたいさ」
野菜スープをひと匙すくい、口へと運ぶ。
「……うまい」
思わず感想――いや感動が口をついた。さらにひと口、ふた口とスープをすする。
世辞でなく、本当にこのスープは美味しかった。かつてランスが作っていたものと比べても遜色のない味だ。
ソフィアはかすかに頬を緩め、
「実は本日、アルフレッド様の奥方から料理の指南を頂きましたの」
「ほう?」
アルフレッドがそうしてくれているように、その夫人もまたルークたちの新生活を支えてくれていた。この屋敷の清掃を手伝い、ソフィアが問題なく集落の輪に入れるよう面倒を見てくれたのも彼女だ。
そんな彼女の親切心が、今度はルークたちの食卓にまで及んだのかと思ったのだが、ソフィアはさらに続けた。
「わたしから奥方に頼みましたの。料理を教えていただきたい、と」
驚く。しかしその驚きは、小さな喜びを伴っていた。
不慣れな集落での生活。その日々において、ソフィアはルーク以外の領民たちとも積極的に交流を図っていた。その口数は少なく、声を上げて笑うようなこともないが、確かな変化だった。
ソフィアもまた、これまで魔王城という小さな世界に囚われていた。そんな彼女の世界が広がっていくことを、ルークは我が事のように好ましく受け止めていた。
「そうか。よかったな」
「はいですの」
静かに頷くソフィアを横目に、スープの横に置かれた主菜――川魚の蒸し焼きへとナイフを伸ばす。期待に胸を躍らせながら、切り分けた身を口へと運ぶ。
手が止まった。
「……ちなみに今日は、料理全般について教わったのか?」
「いえ。時間も限られていたので、今日はスープの味付けだけを教わりましたの」
「……なるほど」
ルークは納得し、味のしない魚をもう一切れ口に運び、飲み込んだ。
「明日は魚料理の味付けについて教わるといい」
「頼んでみますの」
ソフィアが頷いたことを確認し、ルークは再び卓上の魚へと目を戻す。料理はまだたっぷりと残っていた。
夕食後、二人は盃一杯の葡萄酒を傾けながらショーギを指していた。駒や盤は城と一緒に燃えてしまったため、わざわざ作り直した物を使用している。
集落に住むようになってから、二人はほぼ毎晩のようにこうして対局をしていた。
魔王城に住んでいた頃もソフィアと対局することは時折あったが、これほどの頻度ではなかった。いくら娯楽に乏しいとはいえ、なにがこうもルークを突き動かすのか、彼自身にもわからない。
ただ一つ言えることは、酒を嗜みながらソフィアとショーギを指しているこの瞬間、ルークの心は確かな安らぎを覚えるのだった。
パチンという駒音を立て、ソフィアが一手指した。
「む……」
その妙手に思わず声が漏れる。
こちらの優勢で進んでいた盤面が一瞬にしてひっくり返された……ように思える。ルーク自身大した腕前ではないため、読み漏れもあるだろうが、劣勢に追い込まれたことは確かだ。
「……陛下から便りはありましたの?」
「ん?」
不意に発せられたソフィアの問いに、逆転の一手を探っていたルークの意識が引き上げられた。盤上を眺めながら答える。
「あるわけないだろう、そんなもの。あればとっくに教えている」
そもそも人界からこの魔界に便りを出す術がないのだ。便りがないことに一喜一憂していられるはずもない。そしてそんなことは、ソフィアも百も承知のはず。
「どうした。なにかあったか」
「いえ。ただ……ルーク様は心配ではありませんの? 陛下やヒナタが人界で無事やっているのかどうか」
ソフィアとしては珍しく、歯切れの悪い物言いだった。彼女なりにルークを気遣ってくれているのだろう。
イヴたちのことが心配かどうか。問われたことで改めて考えてみると、思いのほかあっさりと答えは出た。
「いいや、べつに」
「本当ですの?」
「本当だよ」
嘘偽りのない、心からの言葉だった。
「いまのイブに心配なんて不要だ。ヒナタもいるしな」
二人はなにも人界へ攻め入っているわけではない。よほど目立つ真似をしなければ、その素性が露呈することもないだろう。
「イヴは必ずこの魔界に戻ってくる。それは間違いない」
それは一年か五年か、あるいはもっと先のことかもしれない。なんにせよ、やがて来るそのときをルークは信じて待てばいいだけだ。
「けれど、寂しくはありませんの?」
「……」
予想外の問いに、思わず間を空けてしまう。
これまでルークたちは魔王城という小さな世界に囲われて、生きてきた。そのため二人が顔を合わせない日など、一日たりともなかった。
それがいまはどうだ。イヴが魔界を去ったあの日から、早数ヶ月、彼女のいない日々を送っている。
いまは鮮明に思い浮かべられるイヴの顔も、忘却の彼方へ追いやられてしまう日が来るのかもしれない。
記憶のなかの姿と、現在の彼女に乖離が生まれる日は、きっとすぐに来るのだろう。
――寂しい。寂しいに決まっている。寂しくないはずがない。
そう叫ぶ自らの心を、しかしぐっと抑えつけ、ルークは答えた。
「まさか。面倒なお世話役から解放された喜びを痛感してるくらいだ」
精一杯の虚勢だったが、ソフィアはじっとこちらを見つめてくる。なにか言いたげなその視線から目を逸らし、ルークは付け足すように言った。
「……まぁ、あれだな。ほんの少しだけ寂しいと思う瞬間がある可能性は、否定できないかもしれない」
「そうですの」
ソフィアが微笑む。まるですべてを見透かされているような表情だが、不思議と居心地の良さを覚えた。
寂しさを伴う日々において、こうして穏やかな気分でいられる理由。言うまでもなくそれはソフィアの存在に他ならない。
彼女の存在が、いったいどれほどルークを救ってくれているか。どれほどルークを支えてくれているか。
感謝してもしきれない。それでも、その想いはルークの口をついた。
「ありがとう」
「何に対する感謝かわかりませんの」
「わからなくてもいい。とにかく、ありがとう」
駒台に手を伸ばし、一つの駒を掴む。掴み取ったその駒――『歩』をソフィアの『王』の眼前へと打った。
「……これは?」
ソフィアが首を傾げる。ルークの打った『歩』が悪手だと思ったのだろう。
そんな彼女に、ルークは冗談まじりに言う。
「もしかしたらその駒、お前の『王』を連れてどこかに行ったりしないか?」
盤上の駒が、こちらを向いて笑ったように見えた。
終わり




