後編
ゆっくりと夜が近づいてきた。クリーヴはいつものように眠りに落ち、やがて何らかの音で目を覚ます。またあの“生き物”が訪れたのかと考えたが、今回はそうではなかった。彼を起こしたのは吹き荒れる風と窓を打つ雨。外は嵐だ、とクリーヴは思った。起き上がって確認するまでもない。
しかし一度目が覚めてしまうと雨音がやたら耳につき、眠りに戻ることは難しかった。仕方なしにクリーヴはトイレに立つ。すっかり膀胱を空にした直後、カチャンという金属的な音が聞こえた。それはクリスの部屋からだ。油瓶でも倒れたのだろうかと、クリーヴはアトリエに足を向ける。
いつから起きていたのか、部屋の奥にクリスが立っていた。窓を大きく開け放ち、吹き込む雨にシャワーのように身体を打たせている。血液が凍りそうなほどの外気が流れ込むなか、画家はやはり裸だった。熱いシャワーを浴びた後なのか、それとも熱病にかかっているのか、身体からオーラのように蒸気が立ち上っていた。室内にはまだ暖かさが残ってはいたが、それが奪われるのも時間の問題だろう。
クリーヴはよろめくようにクリスに歩み寄った。
「きみは……」
───“狂っているのか?”。
喉から質問が出かかったが、狂人にそう問うたところでまともな答えが得られるわけがない。
「おれが狂っていると思うか?」
心を読んだかのようにクリス。
「おれが狂っていると思うか?」
再度、同じことを問う。
「わからない」クリーヴは答えた。目を細め、頭を左右に小さく振る。「ぼくはきみじゃない、わからない。でも……」そっとクリスを見る。「狂気に近いところにはいると思う」
その答えに満足したか、クリスはにやりと笑いを見せた。
白い湯気が闇のなかに、ぼんやりとクリスの輪郭を浮かびあがらせている。その縁取りがなければ、彼の肉体は闇に溶け、まざり、見えなくなってしまうことだろう。
今にも吹き消えんとするキャンドルの明かり。クリスの瞳にはその炎が宿っている。まるで聖職者のような輝きだ。
「みんな自分の見たいものを見ているだけだ」と、クリスは言った。「おれを見ていても、おれを見ていない。おれの絵を通してはいるが、その実、自分の見たいものを具現化しているだけだということに気づいていない」
ここに来た当初であれば、今のクリスの言葉を、クリーヴは免罪として捉えたに違いない。問題の核心を逸らし、死者が出たことの責任から逃れようとしている。しかし今のクリーヴはそのようには考えなかった。ただ彼が考えていたのは、『肉体は神殿である』ということ。
神殿は燃えている。それは今にも燃え尽きてしまいそうで、心もとない。触れればバラバラのピースになってしまう。手をのばせば通り抜けてしまう。まるで存在すらしていないかのように、それははかない───。
「命ははかないもんだ」とクリスが言う。
まただ、とクリーヴは思った。また心を読まれた。それともこれは単なる偶然。いや、“単なる共時性”なのか。
雨に打たれながら、クリスは空を見上げ、「今夜は月が見えないな……」と、つぶやいた。「あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも無数の原子を見るのか……」
その台詞からクリーヴは気がついた。クリスが、ある哲学者と思想家の会話を引用していることに。
「“タゴールとアインシュタイン”」とクリーヴ。原典を言い当てることができたことに、彼はわずか勝利を感じたが、その声は確かに震えていた。「彼らは狂人だって話だ」現時点できる、せいいっぱいの皮肉を込めて反論したが、それは裸の男の前には虚しかった。
「狂人が真実を語ることもある」と、クリス。
「それはきみがいま言っているようにか?」
画家は無言で微笑んだ。その笑みはまさに狂人のそれだった。
足下には水たまりができ、部屋は冷気で満ちてくる。クリーヴは負けを認めた。皮肉やハッタリは通用しない。彼は彼自身の声で(それは思いのほか弱々しかった)ゆっくりと、言葉を見つけ出した。
「ぼくは……なぜ自分がここにいるかわかったんだ」両手を脇に垂らし、ぽつぽつと話し出す。「最初は復讐に来たつもりだった。兄をきみに殺されたと思ったからだ。でも今は違うとわかった」
ざあっという音と共に突風が吹く。雨脚はさらに強くなった。
「ぼくは……導かれたんだ」クリーヴはクリスを強く見つめた。「ぼくはここにいる。きみの魂を救いにきたんだ」
「おまえがここにいる理由がそれだと?」
「そうだ」
「かなり近づいたな。だがハズレだ」
「正解は?」
「それはおれにもわからない」
「じゃあどうしてハズレだと?」
「ハズレはわかる」クリスはかすかに微笑んだ。
「きみはぼくをあのモンスターたちに会わせてくれた。それはきみも……きっと無意識にぼくに助けを求めて……」
「それがおまえの解釈か」遮ぎるクリス。切り捨てられ、クリーヴは思わずカッとなって反論した。
「間違っていると言うんだな? じゃあ、きみの解釈はどうだ? ぜひ聞かせてくれ。どうしてぼくはここにいる?」
「おれは解釈はしない」びっしょり濡れた髪の間から、クリスがささやく。「おまえが何故ここにいるか……それはいずれ時がくればわかるだろう」
詭弁だ、とクリーヴは思った。結果の後に何かを言うのは子供でもできる。“時がくればわかる”などと言うのは、トリックの一種だ。
クリーヴはつかつかとクリスに歩み寄り、彼を通り過ぎて、バタンと窓を閉めた。ここでロジックを弄んでいるのは馬鹿らしいことだと、若者はようやく気がついたのだ。
眉を上げるクリスに、クリーヴは「絵を完成させる前に死なれたらかなわない」と、ぶっきらぼうに言った。「すぐにシャワーを浴びて身体を温めるんだ。肺炎になって死にたいってなら別だが」
「おれとの議論は?」
「議論は終わりだ。今日のところは」
「クリーヴ、おせっかいめ」クリスはさも愉快そうに微笑んだ。
確かにクリスの言う通り。“救う”などとは、本当におせっかいなことだ。だがそれでも放ってはおけない。それは使命と言うよりも、本能に近い感情だ。倒れた者があれば助け起こす、飢えた者には食べ物を与える。寒さに打たれ、道に迷っている者がいれば──それがたとえ好き好んでの結果であっても──外套を肩にかけてやりたいと思うことは自然でありこそすれ、愚かな行為だとはクリーヴには思えなかった。
洗礼を受けるように、身体を雨に晒すクリス。肉体は神殿である。しかし神殿に祈る者が訪れなければ、それはただの空いた建造物にすぎない。画家はとても奇妙な方法で、彼の神殿に祈りを捧げているようだ。きっと射精の瞬間は、聖なる言葉を吐いているのだろう。
誰にでも寿命というものがある。その長さは人によってまちまちで、クリーヴの兄は二十七年でその生涯を閉じた。死の間際、彼はその運命を予期していただろうか。クリーヴから見て、兄の創作のペースはまるで何かに追われるかのようで、あたかもそれは『残された時間があとわずかしかない』と、本人が自覚しているかのようだった。
そう長くないような気がすると言ったクリスの言葉は、真実かもしれないとクリーヴは思った。だからこそ彼は、あんなにも昼夜を惜しんで仕事をしているのかもしれない。もしそうなら、芸術家であるクリスにとって多く作品を残すことは、確かに幸福なことなのだろう。しかしそれが悪魔に踊らされた結果というのであれば話は別だ。呪いの込められた絵を描かされ続け、それを見た幾人かの人間が命を落とす。見えざる怪物たちの目的が何であれ、罪なき人々が死んでいくことは間違いなく不幸なことだ。
アトリエからほど近いコーヒーショップで、クリーヴは考え事をして過ごした。気の触れたアーティストと始終一緒にいることは、やはり疲労を伴うものだ。ときには外の空気を吸って、自分がいる世界を再認識したいとクリーヴは思い、この店に来たのだが、頭に浮かぶのはクリスのことばかり。それでもあの濃密な部屋にいるよりは気が楽だ。店員の笑顔も、おなじみの味のカフェラテも、何もかもが凡庸で安心できる。
リンゴのマフィンをかじりながら、クリーヴは通りを歩く人々を眺めた。髪を短く刈り込んだ中年男性。子犬を散歩させる親子連れ。小脇にビールの箱を抱えた若者。背の高いブロンドの服装倒錯者……。誰もが普通に生活を送り、明日もまた同じような人生が続くと信じている。クリーヴもほんの少し前までは、彼らと同じ場所に住んでいた。しかし今はまったく違うものを見、そして聞いている。同じ空間に存在しながら、別の次元に生きている感覚。それは奇妙な体験で、彼がかつて一度も味わったことのないものだった。
そんなことを考えながら、視線をぼんやりとさせていると、ガラス越し、目の前に突然、人が現れた。ノックをするような仕草で、クリーヴの注意を引いたのはパンだ。ハンプティ・ダンプティのような笑みを浮かべ、身振りで“そっちに行ってもいいか?”と聞く。特に断る理由もなく、クリーヴは頷いた。
「やあ、本当に今日は寒いな」コートの襟からマフラーを引っぱり出しながら、パンはクリーヴの隣に腰を下ろした。
「これからクリスのところへ行くんですか?」
「いや、今日は別の画家のところだ」パンはコーヒーに口をつけた。「きみはまだクリスと一緒に? あいつは元気にしてるか?」
「元気です。もうすぐ死ぬかもと言ってましたが」
そのコメントにパンは短く笑い、「そう言う奴ほど長生きするもんだ」と言った。「おれのお袋は九十八で死んだが、四十の頃から言っていたよ、“あたしはもう長くない”とね」
「そうですか。でもクリスは……」
「ああ」
「本当にあまり長く生きられないのかもしれません。あんな生活を続けていたら、身体にもよくないのは誰の目にも明らかです」
「かもしれんな。だがそうかと言って、あいつを長らえる術があるわけでもなし」
「普通の暮らしをすればいいんじゃないですか? まともな食べ物を口にして、暖かいところで眠る。それだけでも寿命が十年は伸びるでしょう」
「おいおい、それは誰の話をしているんだ?」パンはくっくと笑い出した。頭を左右に振り、オーバーに眼球をぐるりと回して見せる。
「普通の暮らしをするクリスか……まるで想像がつかんね」
パンは画商なのだ、とクリーヴは思った。彼にとって価値があるのは、絵描きではなく、それが生み出した作品だ。金になるのはアーティストではなく、アートの方。作者が亡くなればむしろ絵画の価値は上がるというもの。作家の健康状態を気遣えないのは無理もない。
パンは頬に手をあてて顔を支え、「きみはクリスを普通の男にしたいのか?」と訊いた。
「いいえ」と、クリーヴ。「そういうわけではありません。ただ、命を削ってまでして描くべき絵などないとは思っています。ぼくの兄はアーティストでしたが、彼はまさにそんな感じでした。まだとても若かったにも関わらず死んでしまった。残された両親は悲しみました。不幸なことです」
「ご両親にはお気の毒なことだ」パンは小さく頷いた。「だが兄上は満足だったかもしれないね。そうまでして芸術に打ち込めることは、誰にでもあることじゃない」
レイの死を赤の他人に簡単に評して欲しくはないとクリーヴは思ったが、パンの言ったそれは真実でもある。悲しみに暮れたのは両親であって、レイ自身ではない。
「そうかもしれません。でもぼくはもしあのとき、兄が死に近づいているとわかっていたら、きっと止めたと思います。必要とあらば兄の絵を燃やしたかもしれない」
「兄上がそれを望んでいないとは考えないのか? 彼にとっては命をかけたものかもしれないのに」
「作品を残すことが命より重いとでも? ぼくは命を第一に考えます。ましてや家族であれば当然のことです」
意見が対立し、沈黙が流れる。クリーヴはカフェラテのカップに視線を据え、「クリスはいなくなってしまうかも知れません」と、つぶやいた。「クリスと同居していた女性……彼女のように、ある日突然、姿を消すかもしれない」
「その話はクリスが?」
「ええ」
「そうか……」パンは何やら思案げな顔をしたが、すぐにそれを手放し、「きみの言ってることは、あまり穏やかではないね」と評した。「いったいどうしてそんなことを思う?」
クリーヴは無言で、じっとカップを見つめている。穏やかではない考えの“理由”について、言及することは少しもできない。
黙りこくるクリーヴにパンは言った。「あいつは大丈夫だ」。コーヒーの香りの息を吐き出し、画商は言葉を続ける。「何を心配しているか知らんが、クリスは失踪したりはしない。おれは何人もの画家を育て、ひとりひとりを見つめてきた。その経験上、自殺したり行方不明になる奴は何となくわかる。クリスはあれでしっかりしている方なんだ。普通の人間から見たらおかしな振る舞いに思えるだろうが、実際のところ、さしたる問題はない。あいつを精神病院に入れたのは医者と警察だ。ピカソとピカビアの区別もつかないような人間がクリスを裁いた。まったく愚かなことだよ」
あの化け物に遭遇したら、パンの意見も変わるだろうか、とクリーヴは考える。本当に死に近いところに、クリスがいると知ったら───。
「あなたはクリスが心配だと思ったことはないのですか」
若者にそう言われ、パンは片方の眉を上げた。
「昨夜、彼は裸で雨に打たれてました。肺炎になってもおかしくはない。狂気の沙汰だ。それでもあなたは彼を大丈夫だと?」
「大丈夫だね」
自信たっぷりのその言い方に、クリーヴは深くため息をつく。
「あなたはクリスを可愛がっているのかと思ってましたが」
「可愛がっているさ。もちろん。あいつのことは誰より気にかけている」
「あなたが気にかけているのは彼の作品ではないのですか」
「その両方だ。きみはどうだ?」
「ぼくはクリスのことを考えています。作品は彼が生きてこそだと」
「あいつのことを考えるのであれば、あいつの望みについても考えてやれ。奴は絵を燃やされることなど望んでいない」
「彼の望みは何だと?」
「あの部屋に住み続けること。そこで絵を描き続けることだ」
「それはクリスの意志じゃない」
「どういう意味だ?」問われ、またしてもクリーヴは黙り込んだ。
「きみが何を言いたいのか、おれにはさっぱりだな」言って、パンは席を立つ。クリーヴは厳しくコーヒーカップを見つめたまま、つぶやいた。
「クリスは……操られているんだ。悪魔に」
頭がおかしいと思われることを承知でそう言ったが、あまたの変人を見慣れているパンはさして驚かず、「それは興味深いね」と、頷いただけだった。
「なるほど、ようやくわかってきたよ。きみは悪魔から救えなかった兄上の代わりに、クリスを救おうというのだな?」
半分は当たりで、半分はハズレだ。レイは悪魔に操られていたわけではない。彼は単に犠牲者に過ぎないのだ。
「よし、ではきみがクリスから“創作の悪魔”を引き離したとしよう。その後はどうなる? 悪魔から解放された後の彼の人生は?」
クリーヴは固い表情を変えようとはせず、またパンのことを見ることもしない。何かを考えているのかもしれないが、既にパンの興味は彼にはない。
「クリスの絵を燃やしたらただじゃおかんぞ」と捨て台詞し、商才のある画商は店を出て行った。
『その後はどうなる?』とは、なかなかふるった質問だ。クリーヴはそこまで考えていなかった。しかし、指輪を捨てに行く旅に出る者が、その後の人生について思い悩むだろうか。悪魔から解放された後については、クリスが自分で選択すればいいことだ。己の意志で絵筆を持つもよし、まったく別の人生を選ぶのもいい。クリスの人生を変えた責任がクリーヴにあるというのであれば、自分はその責任を負うべく、彼をカリフォルニアの自宅に連れ帰ってもいい。
『誰かに秘密を分かち合う時期なのかもしれない』。クリスはそう言っていた。そして“そうした”。あの謎の生き物をクリーヴに引き合わせたのだ。
腕時計のカレンダーを見るクリーヴ。カリフォルニアを離れてから、まだひと月も経っていない。使命に燃えてこの街に来たことが、ずいぶん昔のことのように思える。軽々しく“使命”という言葉に酔えたあの頃が早くも懐かしい。
今やかつての目的は消滅し、代わりに新たな意志が産まれた。これが使命かどうかはわからない。運命に選ばれたのかどうかも。だが、少なくともクリスからは選ばれたではないか。彼は秘密を分かち合う相手に、パンではなくクリーヴを選択したのだ。
そして今、クリーヴはここに留まることを選んでいる。運命を司る神に仕えるためではなく、自分の存在を選択した者のために───。
残念だが、これは決して美談などではない。むしろクリーヴは恐怖すら感じている。あの絵の奥に狂気を見つけ、兄のように自らを生け贄として差し出すことにならないとは誰にも言い切れないのだ。
悪魔との戦いは始まったばかり。今はコーヒーショップでわずかばかりの休息だ。
「今日はいい天気だ!」
曇ってどんよりした天気の日に、クリーヴの父親はよくそう言っていた。
フィッシングを好む者にとって、晴天の日は必ずしも“釣り日和”ではない。日が陰っていれば、湖面に釣り人の影が落ちることはなく、そのためドナルド・シモンズは曇りの日を好んだ。
「自分をひっかけようなんて人間がいることに、魚はちっとも気がつかないんだよ」
そう彼は言い、ふたりの息子──レイモンドとクリーヴ──に、釣り竿を持たせたものだった。
今、この部屋は“いい天気”だ。時刻は深夜を過ぎた頃。クリスと“もうひとり”は、クリーヴがいることに少しも気づかない。
“見えざる存在”の来訪に気づいたクリーヴは、キッチンから彼らの姿を盗み見ていた。今度の奴は、ロング・ジョンでもマミーでもない。
クリスは女王陛下にするように、“彼”の手にキスをした。するとクリスの唇に絵の具がつく。その化け物は、全身にカラフルなペイントをまとっている。他の存在同様、透明の肉体を持っているのだが、身体に様々な色が施されているため、クリーヴは傍目からでも全体像ををイメージすることができたのだ。
体長はおよそ七フィート。バスケットの選手のように背が高く、プロレスラーのような筋肉を持っている。衣服の類いは身につけておらず、それは対峙するクリスも同様だった。画家は母親に甘える子供のように、その化け物に裸体をすりよせた。頬から胸、腹と、彼の身体に絵の具が付着する。赤、青、黄、紫、緑……およそ使っていない色彩はない。無秩序に塗りたくられたそれは、まるでポップアートのようだ。
クリーヴは、以前クリスが絵の具を使ってマスターベーションしていたことを思い出した。この化け物をペイントしたのはクリスなのだろうか? だとしたら何のために? 透明な存在を立体的に浮かび上がらせる目的なのかもしれないが、そうだとしても、こんなにも多色を使用する意味がわからない。
化け物は、絵の具だらけの両腕をクリスの背に回した。べちゃっという湿った音は、クリーヴの耳に不快だった。しかし当のクリスは目を閉じ、至福の表情を浮かべている。そのこともまたクリーヴには不快だったが、覗き見をしている彼には、異議を唱える権利はない。
クリスはしばらくその存在と抱き合っていたが、やがてどちらともなく身体を離す。その瞬間、あからさまに“別れ難い”といった表情をするクリス。それを見、クリーヴの不愉快さはさらに増した。
滑稽なほど派手な色にまみれた化け物は、数歩後ずさり、そのまま壁に取り付けられたキャンバスに飲み込まれるようにして、消えていった。それはゆっくりと、絵の中に、入っていったのだ。
残されたのは裸の身体に絵の具をくっつけた男。これもまた滑稽とも言える眺めだが、怪奇現象を目の当たりにした今は、少しも笑うどころではない。
見られていることにようやく気づいたクリスの視線が、呆然とするクリーヴと合った。しかしクリスもまたどこか呆としていて、言葉を発する気配はない。ふたりの男はただ見つめ合い、謎の現象の余韻を感じていた。(ただ、その余韻の内容は、二人にとってまったく違う意味を持つものであるが)。
「今のは誰だ」
先に口を開いたのはクリーヴの方だった。クリスに歩み寄りながら、確認するように「あれは人間だな?」と聞く。「今の奴は他の化け物たちとは違う。人間の男だ」
クリスはけだるそうな視線をクリーヴに向け、「どうしてそう思う?」と言った。
「あれが人間の形をしていることは、きみも承知の上だろう」
「そうか? “人間の形”をしていれば“人間”か?」
クリーヴは返答に窮した。見えざる男が何者かクリーヴにはもちろんわからない。そもそも“人間”は透明にはなれはしないではないか。もしあれが人間だとすれば、“やたら巨大な透明人間”ということになる。
クリスの頬には、黄色と紫の絵の具がべったりとついている。頬と唇。胸や腹、腕、手の平、背中、性器、両足。そのすべてが、あの化け物と触れ合った箇所としてマークされている。
「あいつにも名前を?」とクリーヴ。
「ああ」クリスは頷いた。
「彼は何て?」
「“キング”だ」
キング───。それはクリスが考えた中では、もっとも相応しいと思えるネーミングだ。
「今までで一番いい。少なくとも“ロング・ジョン”よりは」
「おまえが名付けたいんだろう?」
「いいアイディアがあったら教えるよ。今はそれより……絵の具を落とせ」
クリーヴの言葉を無視し、クリスはそのままベッドに横たわった。白いシーツに絵の具がつく。いくらクリーニングに出しても、次から次へと、それは汚れていく。
今夜、クリスはキングを紹介しようとはしなかった。これまでクリーヴが化け物と対面するときは、必ず画家の誘導があったのだが、今回は違う。ふたりが抱き合っているところをクリーヴが偶然目撃し、その結果、『キングだ』と教えてもらったのだ。そのことにクリーヴは疎外感を感じた。“おまえには教えてやらない”と、宣言されたような気持ちになっていた。
今、この部屋はとても暗い。今日はいい天気だ。今日はいい天気だ。無垢な魚たちは、ただ幸福に泳いでいるだけの日だ。
キングが現れた翌日、壁から絵がなくなっていた。かつて作品があったその場所には、新しいキャンバスが貼られ、目にまぶしいほどの白さを放っている。
絵が完成したのだと聞かされるまで、クリーヴは何が起きたのかわかっていなかった。昨夜の超常現象により、キャンバスから絵の具がかき消えたのかとすら考えたのだ。
「朝早くパンが来て、絵をトラックで運び出したんだ」
クリスはそう言って、タバコに火をつけた。窓から外を眺め、満足そうに煙を吐き出す。作品が完成した後の充実感。それが何ものにも代え難いことは、クリーヴにも覚えがある。
青灰色のマンハッタンの空を背にして立つクリスは、穏やかな表情を浮かべていた。創作活動をしている時とはまるで別人の顔。エネルギッシュな様子は影を潜め、まるでゴーストのように存在が薄く、向こう側の風景が透けて見えるかのようだ。
彼は作品を仕上げるごとに命を吸い取られている。クリーヴはそう思い、早く行動を起こさないと間に合わないかもしれないと考えた。“あいつは大丈夫だ”など、パンのように悠長なことは言っていられない。
「きみの恋人……“クリス”がどこに消えたか、考えたことがあるか?」
ごく静かな声で、クリーヴはそう聞いた。言葉は街からの風に吹かれ、消えてしまいそうだったが、クリスはそれをきちんと聞き取っていた。彼は窓の外に視線を据えたまま、クリーヴと同じくらい静かに、「何度も」と、答える。「彼女は“向こう側”に行ってしまった……」
それはクリーヴが出した結論とまったく同じだった。
「連れ戻せるかもしれないと考えたことは?」
クリスは振り返り、「どこから?」と訊く。
「どこかはわからないが……連れ戻せるかもしれない。ぼくは見た。キングはあの絵に入っていったんだ。あいつらがどこから来るのかはわからないが、絵が──きみの絵が通り道になっていると、ぼくは考える」
「おれの絵が彼女を飲み込んだと?」
「可能性はある」
再び外に視線を向けるクリス。タバコの煙が、曇り空に溶けていく。街を見据えながら、彼は言った。
「おまえはおれの魂だけでなく、彼女のことも救おうと?」
「ぼくは……」
「おせっかいめ」
くすりと笑われ、クリーヴはわずかに傷ついた。
「確かにぼくはおせっかいかもしれない」
「そうとも」
「おせっかいがここにいては迷惑? 邪魔か?」
「いや、邪魔じゃないよ」
クリスは微笑んだ。その横顔は、遠い昔、クリーヴが幼い頃、聖書の挿絵で見たような笑顔だった。
クリーヴはインターネットカフェで、悪魔払いに関する情報を集めた。そのほとんどは他愛もない内容で、オカルトおたくの趣味を充実させることはできるだろうが、真に救いを求めている者の助けになりそうなものは、何も見つけることはできなかった。
そこでクリーヴは、改めてクリスのことを調べ直すことにした。ニュージャージー出身の才気あふれるアーティスト。その作品は世界を回り、各国の芸術賞を総なめにしたと記されている。
順風満帆に思えた彼の人生の転機は(あくまで“世間的に見て”だが)このアトリエが火事に見舞われたその日からだ。以降、クリスには狂人のレッテルが貼られ、それに伴い、作風も変化していった。
出火元は可燃性の画材で、原因は不明。火災による損失は、描きかけの絵画が一枚と、一匹の犬だ。クリスが飼っていたとされるその犬は、正体がわからないほど燃え尽き、炭化していたという。火事の規模に対して、その死骸の状態は不自然として、動物愛護団体はクリスを糾弾。画家がペットに火を放ったと彼らは主張している。「燃える犬の絵を描きたかった」とクリスが発言したという情報もあったが、それはあまりにも出来過ぎていて、眉唾ものだ。
そのように迫害される一方、クリスを支持する声もまた少なからず存在する。アーカム・アサイラムの人となったアーティストは、一部のマニアから大いに好評を博している。(※アーカム・アサイラム=ゴッサム・シティに存在する架空の精神病院)。クリスの作品について独自の解説を延々と展開したり、事件の真実と称して、空想に満ちたストーリーを捏造しているのは、そうした熱狂的な支持者である。
「どいつもこいつも分かってない」
クリーヴは歯噛みし、ブラウザを閉じた。本物の神秘に触れたクリーヴにとって、そうしたサイトは興味が湧かないどころか、今や嫌悪の対象にすらなっている。クリスを神と讃える者、悪魔として崇拝する者。そのどちらも真実ではないというのが、クリーヴの解釈だ。
くだんの消えた恋人についての記述は、ネット上には見当たらない。ましてや見えざる生き物についてなどは、オタク的な妄想サイトにすら、存在しなかった。そのことからクリーヴは考える。クリスにここまで近づいた者は、自分をおいて他にいないのだ、と。それはすなわち、“助けは外の世界に存在しない”という意味でもある。
“手段”はどうやっても必要だ。しかしそれは誰にも教えてもらえない。そこまで考えて、クリーヴはふと、高校の頃、同級生とした会話を思い出した。
ある絵画の授業の後、クリーヴは友人にこう聞かれたことがある。「きみはどうやって絵のインスピレーションを得ているんだ? どっちに絵筆を動かせばいいとか、どの色を使おうとか。何か法則や手法があったりするのか?」
クリーヴは答える。「どうやってなんて自分でもわからないよ。ただなんとなく湧いてくるんだ。どっちに絵筆を動かせばいいかとかも考えたこともない。ただ感覚的に“そうしたい”ってだけで、法則なんてありゃしない」
その友人は「わけがわからないな」と、言っていたが、わからないのはクリーヴの方だった。絵を描くことは彼にとってごく自然であり、それについてさきほどのように聞かれるのは、あたかも「どうやって歩いているのか? どうやって呼吸をしているのか?」と問われるに等しいことだった。
「必要なのは理解や考えじゃない。ただ感じて、“そっちだ”と思う方に進めばいい」
クリーヴは当時、友人にそう言った。そして今、彼は忘れていたそのことを、はっきりと思い出していた。
助けは外の世界に存在しない。そして答えもまたしかり。そのどちらもがアーティストの体内に───もしくは、あの“暁の部屋”に───存在するのだ。
クリスを救うためにクリーヴがまずしたことは、絵の道具を買いそろえることだった。画材を買うのは数年ぶりで、彼はクリスのアトリエで絵を描いた。
兄の影響で筆を取り、兄の影響で筆を捨てたクリーヴ。へたくそだと画家から評されることは恐ろしくはない。自分に才能がないことはずいぶん前からわかりきっている。
クリーヴが作業を中断している間、クリスが彼のキャンバスを、じっと見つめていたときには、さすがにいくらか恥ずかしさを感じもしたが、ここは美術学校ではないし、そもそもの目的がまるで違う。今、クリーヴが絵を描いているのは、学校に提出するためでも、オートバイを買う資金が欲しいからでもなく、もっと純粋な動機によるものだ。
─── ゲートを開く───
神秘への扉を開き、そして二度と開かぬよう封じ込める。クリスの絵を破損するわけにはいかないが、自分のものなら文句も出まい。もしこの部屋が、絵画に何らかの神秘をもたらすのであれば、三流の絵師にもいくばくかパワーを宿すかもしれないと、クリーヴは考えた。
神秘は訪れ、そして去る。その循環を永遠に封印することができれば───それがクリーヴの勝利だ。クリスのように隷属させられるか、もしくは女の“クリス”のように、存在を消されるか……そうなればクリーヴの負け。景品のひとつも出ることはない。
とすると、クリスは悪魔に負けたということになるのだろうか? 芸術の歴史に名を残し、これ以上ないほどに絵画にのめり込む彼が敗北者?
それについてクリーヴは考えることをしなかった。絵筆を動かす彼は、創作の間だけ、頭のスイッチをオフにしようと決めていたのだ。
クリーヴに追いつくように、クリスは新作に着手し始めた。壁に貼られた巨大なキャンバスには手をつけず、さほど号数の大きくないものを彼は選んだ。
それは奇しくもクリーヴが描いている作品と同じくらいの大きさで、共にイーゼルに向かう二人を見たパンは、「おまえたちは揃って学校の宿題でもしているのか?」と、笑って彼らを茶化しもした。
もしこれが学校の宿題なら、クリスはA+で、自分はD−だろうと、クリーヴは内心、自嘲する。しかし意外なことに、パンは「おや、きみの作品も悪くはないじゃないか」と褒め、クリーヴの安っぽい絵の具箱に、自分の名刺を滑り込ませた。
「これも何かの縁だ」パンはクリーヴに片目をつぶり、それからクリスに「ライバルがいるのはいいことだな」と言い残し、去っていった。
「ぼくがきみのライバルだって? それは間違った評価だな」
クリーヴの言葉に、クリスはキャンバスを見つめながら答えた。
「ああ、おれたちは別に争ってはいない」
「いや、そういう意味じゃなくて」クリーヴは軽い笑い声を立てる。「ぼくの作品はきみの足元にも及ばないよ」
「どういう意味だ?」
「だから、実力の点でさ」ひょいと肩をすくめるクリーヴ。「もしこれが学校のテストなら、きみはA+で、ぼくはD−だってこと」
「おれはA+なんてとったことない。教師からはいつも“評定以前の問題”だと言われていたよ」
「それは……真の芸術はときとして……」
「きみの芸術評価はA+からD−までか? デッサン力や構成力がすべてだと?」クリスは絵筆とパレットを床に置いた。「なにをもってして、おれの足元に及ばないと?」
“なにをもってして”だと? クリーヴは画家の発言を不思議に思った。自分が彼の足元に及ばないというのは、誰が見ても明らかだ。ライバルと見なされるのは光栄だが、実力の差は自分が一番よくわかっている。
分相応でない評価は、クリーヴを軽く落ち込ませた。もしクリスが慰める目的で言っているのだとすれば惨めだし、真に高く買っているのであれば、画家の審美眼はあまり良いとは言えない。クリスが他者を“励ます”などとは、まずあり得ないだろうから、おそらくこれは後者だろう。得てして天才とはそんなものだ。クリスは絵を判断することができない。彼の美しいブルーグレーの瞳は節穴なのだとクリーヴは考え、自分の作品についての評価は、気にしないことにした。
クリスは床にあぐらをかき、パンが持ってきた差し入れの包みを開いた。茶色の紙袋から取り出したのは、カリフォルニア・オレンジだ。
「パンは目利きだ。きみは目をつけられた」オレンジを一瞬、鼻に近づけ「せいぜい気をつけろ」と言って、ひょいとクリーヴに放り投げる。
「ぼくが?」それをキャッチするクリーヴ。彼もまたクリスの真似をして、オレンジの芳香を吸い込んだ。
「何に対して気をつけろと?」
「尻を撫でられるようになる」
その言葉にクリーヴは爆笑した。「オーケー、彼が背後に立ったときは気をつけるとするよ。ご忠告ありがとう」
それから二人はオレンジを食べ、子供の頃に飼っていたペットの話をした。話題としては他愛もないものだ。
『これも何かの縁だ』とパンは言った。そしてそれはおそらく間違いではない。大陸の西と東にいる者が、アートを通じてここに出会った。共に絵を描き、汗を流し、同じ空気を共有している。黙々と創作に打ち込む彼らは、まるで兄弟のようでもある。
クリスと共に制作するのは、クリーヴにとってとても気分がいいものだった。上手さを競い合うようなプライドはなく、ただ単純に作業に没頭する。そうするうと、彼は次第に絵筆を持つことの愉びを思い出していった。
クリーヴがまだ少年だった頃、父親が川に魚釣り行くときには、彼も必ずついていった。持ち物は母親の作ってくれたサンドイッチと絵の道具。少年は竿の代わりに絵筆を持った。父親が釣り上げた魚や、川岸の風景など、目につくものを好きなように描き続けた日々。今、クリーヴはあの頃の感覚を取り戻しつつあった。ゲートを開く目的はあるが、創作の間はそのことを忘れた。実際、そんなことはどうでもいいとすら思う瞬間すら、彼には何度もあったのだ。
だがしかし。夜が来ると、クリーヴは再び決意を新たにした。闇に乗じてやってくる存在は、クリスを諦めるつもりはないらしい。彼を嬲り、狂わせ、絵画に魔力を塗り込める。切れ切れに聞こえる画家の艶めいた声。台所の床でそれを耳にしながら、クリーヴは自身を叱咤した。
「しっかりしろ、クリーヴ……」
寝袋に丸まり、己の決意を確認する。耳をふさいでも聞こえてくる音に、祈りの言葉でも唱えるべきかとクリーヴは考えたが、日頃の不信心がたたり、何も出て来ない。もとより宗教に頼ろうとは思っていなかったが、こんなときには何でもいいから口にしたかった。
そこで彼は詩を暗唱することにした。女に振られ、狂気の道を歩んだ哀れな天才、フリードリヒ・ニーチェ。〈善悪の彼岸〉の一節を、クリーヴは諳んじた。
「怪物と戦う者は、自らも怪物とならぬように心すべし。汝が久しく深淵を見入る時、深淵もまた汝を見入るのである……」
神は死んだとニーチェは言った。キリスト対ディオニュソス。詩人は古代ギリシャのありかたを賛美した。彼の哲学をもってすれば、クリスはさしずめ“超人”といったところだろうか。しかしながら、ただのひとりの仮説を状況にあてはめるべきではないし、梅毒が脳に回った男の言葉を鵜呑みにするわけにもいかない。
クリーヴは兄の死により、ある状態から解脱したのだ(ニーチェ的に言えば、“ルサンチマンから解き放たれた”)。だがその先に行き着くべき所に、まだ彼は到達していない。それは恐ろしい迷路に同じ。クリーヴが投げ出された場所は、グリニッチ・ヴィレッジの一室だ。さほどの広さではないが、彼には世界に等しいものである。
ここにもうひとつ、クリーヴが思い出さなかった、ニーチェの言葉を引用しよう。
〈夢はまったく見ないか、面白い夢を見るかのどちらかである。起きている時も同じ、まったく起きていないか、面白く起きているか〉
クリスとクリーヴ。まさしく彼らは起きている。面白い夢を見ながら起きている。詩人は彼岸で羨んでいるかもしれない。
ストリートの凍死者が前年を上回ったとニュースが伝えたその日、クリスは珍しく買い物に出かけ、バターのたっぷりついたワッフルと、箱詰めのチョコレートを買ってきた。それは自分のためでなく、彼の“弟”のために。連日の創作活動で、クリーヴは熱を出して倒れ込んだ。
「とても食欲がない」というクリーヴに、クリスは「それでも何か口にした方がいい」と、グロッサリーストアで食品を見繕う。その選択がワッフル、そしてチョコレート。クリーヴは画家の親切心を嬉しく思ったが、そのふたつはどうしても口に入れられそうになかった。せめて温かいチキンスープでもあれば、少しは食べようという気にもなっただろう。つくづくクリスは変わり者だとクリーヴは確信したが、その変わったところすら、今は好ましく感じられる。
「クリス、ひとつ頼みがある」
「何だ?」
「熱が下がるまで、きみのベッドを使わせてもらえないか? キッチンの床は寒い。どう考えても風邪が悪化しそうな状況だろ?」
クリスは「そうなのか?」と聞いて返した。考えてもみなかったという表情に、クリーヴは弱々しく、笑いを漏らした。
数週間ぶりのベッドは、クリーヴに安眠をもたらした。熱のせいか深く眠り、夢も見なかった。クリスが電話したのか、パンがやってきた。ビタミン剤と風邪薬、果物や野菜などを携えての来訪は、クリーヴにとても有り難いものだった。
「絵を描き続けて倒れたそうだな」ベッドに横になるクリーヴに、話しかけるパン。「きみは命を最優先にするんだろ? 作品は人が生きてこそだと」
「今でもそう思ってます」
「だったら早く良くなりたまえ。そして完成した作品を見せてくれ」
「そうしたいと思っています」
「クリスに心配をかけるな。あいつはこういうのに慣れてない」
「こういうの、とは?」
「人を心配することだ」
「彼がぼくの心配を?」
「おまえが死ぬと言っていた」
「たかが風邪で死ぬわけがない」
「あいつには風邪と癌の区別もつかんよ」
「彼がぼくの心配をしてたなんて……」
「驚きか?」
「少し。そういう感情がない人なのかと」
その言葉にパンは大笑いをする。「そうだな。そう見えるのも無理ない。だがあいつも人間だ。死が怖いのは誰でもだ」
そうだろうか? とクリーヴは思った。クリスは死を恐れて心配をしているのだろうか。それは何か違う気がする。何がとは言えないが、違う気がするとクリーヴは感じていた。
「パン」クリスが果物ナイフを持って、キッチンから姿を現した。「リンゴの中に虫がいたよ」
「ああ、それは有機栽培の果物だからな」
「あぶなく切ってしまうところだった」言って、手を開くと、そこには小さな青虫が丸くなっていた。
「帰りに公園に離してやってくれ」
「この虫をか? わざわざ? 窓から放り出せばいいだろう」
「緑のあるところでないと死んでしまう」
このやりとりを聞き、クリーヴは苦笑した。結局、クリスが心配しているだ何だと言うのは、このレベルのことなのだ。自分は果実に紛れた青虫に同じ。窓から放り出すのは気が退けるということなのだろう。
笑うクリーヴを見て、パンは「おまえが何を考えているかわかったよ」と言い、彼もまた苦笑した。ふたりの常識人は、このコメディを共有できるが、肝心のクリスはきょとんとしている。クリーヴはそんな彼を愛おしいと思った。パンがこの画家を可愛がる気持ちが、わずか理解できたような気がする。
「クリス、ぼくはまだ死なないよ」
子供に言ってきかせる口調でクリーヴは言った。
「きみのベッドを貸してくれてありがとう」
そして目を閉じ、眠りに戻る。熱は高く、身体の節々は痛みを訴えていたが、クリーヴは久しぶりに幸せな気持ちだった。このまま死んだとしても、きっと彼は幸福なままだろう。
昼には太陽があり、夜には闇がある。それはあたかも、希望と絶望を行き来する人の生のようだ。
日中、創作の間、クリーヴは自分が健全さを有していると感じていたが、夜が来て眠る段になると、とてつもない不安に襲われた。さまざまな考え──それはほとんどが悪いものだ──が、落ち着きを失わせ、していることに確信が持てなくなる。そもそも“確信”などは無いものだったが、それでもクリーヴは、“何かがある”と思いたかった。そうでなければこんな風に、固い床の上で寝袋に転がっていられるものではない。
目を覚ますと、クリスは絵を描いていた。大概の場合、クリスはクリーヴより早起きだ。瞼をこすりながら、クリスの背後に近づくクリーヴ。キャンバスを覗き込み、画家の筆を目で追いかける。この新作はもっとも扱いにくい色、すなわち黒を基調として描かれていた。
「タイトルは?」
クリーヴはほとんど無意識にそう問いかけていた。題などないとわかっていたはずだ。しかし思いもかけず、クリスは答えた。こちらに背を向けたまま、少しも手を止めず、「“キング”───」
そうか、これは肖像画なのかと、クリーヴは思った。あの日のキングはカラフルな色をまとっていたが、目の前の作品は、黒や濃紺を主とした、単なる陰影としてで描かれている。確かにこの方が“あれ”を表現するには適切だろう。ピエロのようなカラーでは、あの重厚なイメージには不適当だ。
ふと思い当たり、クリーヴは質問を続けた。
「もしかして……きみ、昨日は寝てない?」
画家はそれには直接、答えず「実は急いでる」と、筆を動かしながら言った。
「どうして?」
「早く描き上げなければ……」
言われてみれば、いつもよりタッチが乱雑なようだ。決して丁寧な画風ではないクリスの絵だが、これはいつもに増して、荒っぽさが際立っていたる。
「パンに急かされているのか?」
何にしろ、クリスが描き急いでいるなら、自分もまた急ぐ必要があるとクリーヴは考えた。クリスはしばらく黙り込み、それからぽつりと、何の脈絡もなく、「これはおれの遺作になるかもしれない」と、つぶやいた。
不吉な言葉に、一瞬クリーヴは怯んだが、すぐに思い直し、「これが遺作だって?」と、つとめて明るい調子で言った。「だったらあっちのデカいキャンバスは? 遺作にするなら大作を手がけないと」
壁に据え付けられたキャンバスに顎をしゃくるクリーヴに、クリスは顔を向けず、「“大作”ってのは、“大きな作品”って意味か?」と、聞き返した。「おれはクリムトの〈水蛇 〉が好きだが、あれは五十センチほどの“大作”だ。マスターピースは必ずしも巨大である必要はない」
「じゃあ何でわざわざ新しいキャンバスを据え付けた?」
「パンは“大作”が好きなのさ。つまり“大きな作品”が。やたらでかいやつを描かせたがる。あれは彼が貼ったんだ。おれの意志じゃない」
「じゃあ、この“遺作”の次は、“やたらでかいやつ”を手がけるのか?」
「どうかな……」クリスは筆を止めようとはしない。「あれはおまえにやるよ」
言われ、クリーヴは顔をしかめた。壁のキャンバスは、少なく見積もっても横寸三メートル以上ある。
「ぼくはあそこまで大きな作品をやったことはないんだ」と、クリーヴ。
「じゃあやってみるといい。いい機会だ」
「それにパンが怒るだろ。せっかくきみのためにキャンバスを設えたんだから」
クリスは何も答えず、もう会話に参加しなかった。元々、創作中におしゃべりを楽しむような男ではない。クリーヴはそれがわかっていたので、早々に自分の作品に向かうことにした。
顔を洗い、歯を磨きながら、クリーヴはクリスの姿を盗み見た。画家はピンと背筋を伸ばし、真剣な面持ちで絵と向き合っている。それはとても強く美しい光景に思え、クリーヴは胸が締め付けられる思いがした。このまま悪魔のことなど忘れ、ただずっと、クリスと創作活動を続けられれば、どれだけ幸福なことだろう。しかし、その可能性はなきに等しい。クリスはどういうわけか死を身近に感じているし、嫌なことにクリーヴもそうだった。
クリーヴは自分のキャンバスに向かう。何が正しいのかはわからない。だが、ここに描くべき作品がある以上、彼らは手を動かし続ける。残された時間はあまり多くない。若く健康な肉体を持った若者たちは、そのことを身体ではない、別な部分ではっきりと感じとっていた。
また雨が降っていた。カリフォルニア出身のクリーヴは、この重たい空気に慣れていない。湿気は夜の闇と混ざり、しっとりと部屋を満たしていく。窓からは雨が、そして部屋の中央には、異形がひとつ───クリーヴをじっと見つめている。
対峙し、ごくりと唾を飲み込むクリーヴ。
「なんてこった……きみも化け物の仲間なのか?」
四つ足で床に這いつくばるクリスは、かつて持っていた人間らしさを失っていた。滑らかな皮膚は以前の通りだが、その色は夜の暗さが定着している。不自然に細くなった手足は、関節の位置がおかしく、妙に間延びして見える。目は金色に光り、まるで獰猛なドーベルマンのよう。クリスは犬に変身しかかっているのだ。
黒く艶やかな肢体にクリーヴはそっと指で触れた。
「いったいどうしてこんなことに……」
すでに人の声帯を持たないクリスは、その問いかけに対し、ぐるると喉を鳴らしただけだった。
「ぼくは……間に合わなかったのか? きみを救おうと……そう思ったのに……」
弱々しくつぶやくクリーヴ。その絶望にクリスは応えたか、軽快にジャンプし、友人の胸に前足を乗せた。そのまま押し倒す格好になり、クリーヴは仰向けに倒れ込む。獣は彼の服を引き裂き、あらわになった胸を、上等な獲物を味わうかのように、べろりと舐め上げた。
「やめろ…クリス……!」
静止も虚しく、クリスは攻撃を開始した。突然、クリーヴの首もとに牙を立て、筋を切断する。狼のような唸り声を聞き、なんてことだ、とクリーヴは思った。彼にとってショックだったのは、噛まれたことではない。あろうことか、クリーヴはその痛みを気に入ってしまったのだ。
咥えたままクリスが頭を振ると、肉が裂けて血が噴き出した。しかしクリーヴは恍惚としている。
「あぁ…クリ…ス……!」
切れ切れに名を呼び、もっと強く噛んで欲しいとすら願う。耳元にハッハッと短い呼吸を聞きながら、自分の身体がバラバラになっていくのをクリーヴは感じていた。手がもげ、内臓が流れ出し、脳が飛び散り、目玉が床に落ちる。それをすべて快感に感じ、自分の声とも思えない絶叫を上げ、彼は目を覚ました。
全身にびっしり寝汗をかいていて、ペニスは痛いほど勃起している。なんという悪夢だろう。ああ、ぼくはおかしい。ぼくはこの部屋にいて、おかしくなりはじめている。クリーヴはそう思い、両手で顔を覆った。
最初に彼を裏切ったのは、その肉体だ。精神はまだ今のところ───少なくとも、“自分はおかしいのだ”と判断するぐらいの理性は残っている。とは言え、それが指の間からすり抜けていくのも時間の問題だろう。それには彼のペニスが同意している。熱く脈打つ肉は、すでにクリーヴの仲間ではないらしい。だとすると、こいつはいったい“どっち側”に位置するアイテムなのだろうか?……もちろん正常な精神を持つ者は、こんなことは考えないものだ。
「ぼくはまだだ……まだ……だいじょうぶ……」
クリーヴのつぶやきに同意する声はない。闇は濃く、ペニスは固いまま、留まっている。触れれば爆発しそうなほど隆起したそれをクリーヴは無視した。もしひとたび触れてしまえば、自分が誰の名前を口走るかわかりきっていたからだ。
「畜生……」
彼は床に縮こまり、くやし涙を流した。指を強く噛み、その痛みで理性をつなぎ止める。自分がどうやって正気を保っているのか、今やクリーヴ自身にも、さっぱりわからなくなっていた。
先日のロスタイムが、今になって響いている。風邪で寝込んだことにより、クリーヴの作品はクリスに遅れをとっていた。回復してから彼は前にも増して情熱的に筆をとり、そのため疲労もしたが、制作は順調で、絵はどんどん厚みを増していった。
クリスの“遺作”に遅れることが、どういう意味を持つのかはわからなかったが、あまりいいことではないような気がしていた。そうして無我夢中で作品に取り組み続けることにより、絵画はクリーヴの納得のいくように仕上がっていったが、それに比例するかのように精神状態は悪くなった。落ち込んで鬱になったり、些細なことで苛立ったりする。夜になると不安になり、過呼吸に陥ることもしばしばだった。
かたん、と小さな音がアトリエから聞こえた。またあれが来ている───クリーヴは気配を察した。クリスが部屋を歩き回っている。月明かりを浴びて、いずれかの化け物(もしくはそれ以外の化け物と)と愛し合おうとしている。
クリーヴは耳を塞ぎ、この嫌悪すべき行為を脳裏から追い払おうと努力した。その努力を打ち破ったのは、彼を呼びかける画家の声だ。
「クリーヴ、起きろ」
寝袋の傍らに片膝をつき、同士を揺り起こす。クリーヴはさっきからずっと起きていたし、クリスの様子にすら気づいていたのだが、さも今、目覚めたかのように、ゆっくりと身体を起こした。
「何だ?」
「こっちへ来てくれ」
「またきみの友人に紹介しようってのか?」
「友人? いや、そうじゃない。とにかくこっちへ……」
「嫌だ」クリーヴは寝袋に潜り込んで言った。「何が起きているのか、まずそれを教えてくれ。そうでないとぼくはここから動かない」
頑なな言い方に、クリスはわずか、驚いたように目を見開く。それから静かに「おまえの絵が動いた」と、つぶやいた。
「おれは見た。さっきおまえの描きかけの絵が、わずかだが動いたんだ」
無言で横たわるクリーヴ。寝袋の中に、彼の呼吸が籠っている。
「クリーヴ……?」
呼びかけには応えない。クリーヴはとても腹が立っていた。クリスは裸だった。一糸まとわぬ姿で現れ、突然、“来てくれ”と勝手を言う。ただそれだけならクリーヴは従っただろう。彼を頑にさせたのはキングの存在だ。クリスの裸体は絵の具で濡れていた。さきほどまで何をしていたかは大体想像がつく。その行為の後で、何事もなかったかのようにクリーヴの元に現れ、厚顔無恥な娼婦のように、アトリエに誘ったのだ。
神秘の訪れ。それこそがクリーヴが待ち望んでいた奇跡の一部だ。しかし彼の反応は鈍かった。自分が絵を描いている理由、本来の目的を忘れ、クリーヴはつまらないポイントに固執し始める。
「きみは何をしてた?」寝袋の中からクリスに訊ねる。「さっきまで、きみは何をしてたんだ……」
沈黙が続き、答えが得られないと分かると、クリーヴはおもむろに立ち上がった。
「なんて奴だ……きみという男は……」
憎むべき者のようにクリスを睨み、強く歯を食いしばる。
「ぼくはきみを助けたいと思ってる。なのにきみは……」
「何の話だ?」
「ぼくは見たんだ。きみがキングと……」そこでわずかに、クリーヴは言葉に詰まる。一拍おいて、なんとか続きを見つけ出した。
「きみがキングと抱き合っているのを」
口にしてみると、それは別段、大それたことではなかった。抱き合うことぐらい、さして取りざたすべきことでもない。しかしクリーヴは、怒りの矛先をキングへと向けている。クリスとベッドを共にしているであろう、ロング・ジョンやマミーにではなく、彼はキングに嫉妬していた。
「あのときのきみの顔ときたら……ぼくはとても見ていられなかった。まるで女だ。きっときみはキングと……」
「わかった」とクリスは言った。「もういい。寝袋に戻れ。話はやめだ」
「いいや、これからだよクリス」
去りかけた男の手首をクリーヴが掴む。不意に繋がれた部分をクリスは見つめ、不快そうに眉間にシワを寄せたが、振り払うことはしない。
クリーヴは興奮の面持ちでクリスに詰め寄った。
「キングともファックしてんだろ……」振り絞るような声で糾弾する。「あんたは……あんたが何をしてるかぼくは知ってる……あの得体の知れない化け物たちと……やってるんだ」
クリスは静かに応えた。
「キングはしない」
他の化け物とのことは否定していない。そのことにクリーヴはすぐ気がついた。
「おれとキングは……」クリスはそう言いかけ、言葉を探すように視線を泳がせる。しばらく思案げな表情をするも、最終的には説明を放棄した。話しても無駄だとでも言うように。それから掴まれた手を乱暴に振り払い、アトリエに戻って行く。
クリーヴはとても腹が立った。まるで仲間はずれの気分だ。もちろん自分は天才などではない。説明を聞いたところで、何も理解できないかもしれない。しかし、そうであってもクリーヴは説明が欲しかった。キングとは何者なのか。クリスとはいったいどういった関係にあるのか。それは神秘への渇望というよりは、もっと俗な感情からくるものだった。
「待てよ!」
怒鳴り、沈黙の画家を追いかける。クリスは秘密をわかちあうという努力を諦めた。そのことから来る怒りが、若者を衝動に走らせた。
「待て……!」
クリスの肩を掴み、振り向かせ、殴り掛かる勢いで唇を奪う。
キングとやってないだって? 舌を絡ませながら、クリーヴは沸き上がってくる笑いを堪えきれなかった。今さら何を否定する? ずっと彼はしているじゃないか! 絵を通して“あれ”とファックしている! 肉体の結びつきよりも遥か深く。それはほとんど淫らと言ってもいいくらいの関係性だ。キングは創造の力となってクリスに流れ込み、そのエネルギーに貫かれ、画家は愉悦する。どちらがどちらかわかなくなるほどに混在し、最終的にひとつの作品を共有する。原子核同士が接近するかのようにして成した、その結果に触れた者は、自らの命を融合炉に委ねるが如く───消滅するのだ。
抱きしめ、キスを続けながら、クリーヴは誓った。ぼくは死なない。兄は死んだが、ぼくは死んでなどやるものか。自分は強く、クリスはただの男に過ぎない。この結末を“死”などという陳腐なもので終わらせやしない。
「……きみは“人間”といるべきなんだ」唇を離し、クリーヴは言った。唾液が糸を引き、ふたりの間をわずかつなぎ止める。
「正常な関係を人と持つべきなんだ」
「誰とだ? おまえとか?」手の甲で唇を拭うクリス。
「誰でもいい。あいつは……キングはきみを破滅させる存在だ」
「破滅?」ふっと短く笑い、そしてクリーヴを睨む。「いったい“破滅”とはどんな状態を指すものなんだ? 教えてくれ」
「キングはきみを殺すかもしれない」
「死が破滅か?」
「誰だって死ぬのは嫌なはずだ。死が怖いのは誰でも……そうだろう」先日パンが言ったことを、クリーヴは無意識に引用していた。「概念として死自体は悪じゃないが、生き物の原始的欲求は死を恐れる。それにきみは絵を描き続けているじゃないか。あれこそが生への渇望だと考えたことはないか?」
「クリーヴ、おまえは物知りだな。そんなにたくさんおれに教えられることがあるとは」
画家のガラスのような瞳に見据えられ、クリーヴは息が詰まるのを感じた。呼吸は浅く、脇の下を汗が流れる。まるで心臓マヒの症状だ。
「知識、観念、情報……」クリスはゆっくりと数えるように言い、「だがそんなものはみんな……」と、かぶりを振った。その拍子、彼の柔らかな髪がさらりと揺れる。その後に続く言葉は発せられなかった。
「あいつらの名前……」浅い息の下、クリーヴは言った。「ぼくがつけてやると言ったよな? 覚えてるか?」
「ああ」頷くクリス。
「いい名前がある。ぴったりのやつだ」汗がぽたりと床に落ちたが、クリーヴはそれに構わなかった。構わずに不敵に笑い、そして言った。
「───“悪魔”」
クリスは苦笑し、「おまえのネーミング・センスもその程度か」と、つぶやく。「がっかりだな」
「いいや、これからだ。がっかりはさせない。その名前がふさわしいとあんたはいずれ知ることだろう」
「がっかりなのはおまえのキスだよ」暗がりの中、クリスの瞳が光っている。それはクリーヴが夢で見た獣そのもの───。「想像してたよりずっと下手だ」それからクリーヴの髪を片手でくしゃりと撫で、月明かりの届かない場所へと戻って行く。おそらくクリスはベッドに横になったのだろうが、闇が濃すぎるあまり、クリーヴには何も見ることができなかった。
ブラックホールのような暗い空間に目を向けたまま、クリーヴはぼんやりと『画家の夢に自分も現れたりするのだろうか?』と考える。自分との口づけを想像するクリス。その光景を思い描くと、クリーヴの顔はカッと熱くなった。
性的エネルギーは、この部屋では創作と直結している。しかし若いクリーヴは、まだその違いを理解していなかった。鼓動が早まり、血管が浮くことを“そのもの”の意味として捉える。精霊との交流を俗なものに置き換え、嫉妬する。そのどれもが決定的な誤りであることに、彼は気づいていない。
運命の回転は急速さを増し、闇は一段と濃くなっている。しかしそのことにもクリーヴは気づいていなかった。もし万が一、クリーヴが真実の一端でも捕まえていたら、クリスをがっかりさせることはおそらくなかっただろう。
クリスの絵は万人が好むようなものではなく、また好む者が見たとしても、対象が不明瞭な作品だ。現在、彼が手がけているのは、奥行きのある闇に満ちている。全体の八割は黒で構成され、それは日本の墨で描かれたように艶やかな輝きを有していた。その作品にクリーヴが見たのは、荒ぶる竜巻と滝。合間に見え隠れし、人らしき影が確認できる。これがキングの肖像だと思うと、絵を破壊してしまいたい衝動に駆られたが、彼の芸術家の部分が、それを実行するのを辛うじて押しとどめていた。もしクリーヴが絵描きでなければ、このアートに火を放っていたかもしれない。それは数年前、このアトリエであった火事のように。
クリスは珍しく椅子にかけ、描きかけの作品を見つめていてた。絵筆は持たず、ただ寂寞とキャンバスに向かい合っている。
ボイラーの音がやけに響くのは、朝から雪が降っているからだ。街を沈黙させる雪は、この部屋からも熱気を奪うのだろうか。今日のクリスは創作をせず、穏やかな表情で絵を眺めるばかり。それは絵画と会話しているようでもあり、同化しているようでもある。
この様子に題をつけるとしたら───とクリーヴは考える。〈絵を見る人〉というのはどうだろう。題としては単純なものだが、作品は得難く、美しい。
それ自体が芸術作品となった男を、クリーヴは見守った。背後からそっと近づき、画家の肩に手をかける。置いた手を胸へと滑らせ、それがタンクトップの中に潜り込む寸前、クリスは「よせ」と短く発し、クリーヴの手首を掴んで侵入を防いだ。
「きみが好きだ」クリーヴは喘ぐようにして言った。「きみも……ぼくのことが邪魔じゃないと言ったね?」
「それとこれとは別だ」
「誰かに秘密を分かち合うと」
「意味を取り違えたな」
クリーヴはスラックスの中で固くなった自らの“ロング・ジョン”を、クリスの背中に押しつけた。
「ぼくとのキスを想像してたと言ったじゃないか」
クリスは答えない。ただ無言で押し付けられたモノを感じている。
「がっかりはさせない……いや、させて悪かった。今度はもっと……」
「今度などない」ぴしゃりと言うクリス。クリーヴは腹立ちに声を荒げた。
「怪物とはできてぼくとはできないっていうのか? ぼくは化け物以下か?!」
「そういう問題じゃない」
クリスの声音は、明らかにうんざりといった様子が聞き取れる。しかしクリーヴには、それはどうでもいいことになっていた。絵筆を持つときと同じ情熱をクリスに感じる。肉体は神殿だ。ならば自分はその神殿に入り込みたい。閉ざされた扉を押し開き、さらに奥へと。
「ぼくは……犯してでもきみと……!」
強引に口づけを交わしたその瞬間、クリーヴの目から火花が出た。顎に一発喰らったのだと彼が理解できたのは、苦しげな画家の声を聞いたからだ。
「くそ…クリーヴラント……」クリスは殴った右手を振った。「おれに手を使わせるな……」それが動くことを確かめるように、こぶしを握ったり開いたりを繰り返す。
クリーヴはうつむき、「すまない……」と、か細い声でつぶやいた。「自分でもなにがなんだか……本当に……」
これはまったくどうかしている。自分より背の高い、一人前の男を犯せるわけがない。恥ずかしさと情けなさが同時に込み上げ、クリーヴは顔を上げられなくなった。
絵の具で汚れたラグの上に座り込んでいると、頭の上から「おまえのせいじゃない」という声が降ってきた。クリーヴにはその言葉の意味がわからなかった。自分のせいでないとしたら、いったい誰のせいだというのだろう。これほど責任の所在が明らかなことはないというのに。
「ホテルに戻れ」クリスの言葉に、若者は弾かれたように顔を上げた。
「い…いやだ!」
自分自身に強い失望をこそ感じてはいたが、クリーヴはまだここにいたかった。拒絶されたばかりだというのに、それでもクリスと共にありたいと感じている。
「さっきのことは……ぼくが悪かった。二度とあんなことはしない。だから……」
哀願し、切望のたけを訴えたが、クリスは首を左右に振った。
「“このこと”じゃないんだ」と、画家は言う。「おまえはこれ以上、この部屋にいるべきじゃない。おれの言っている意味が……おまえにはわかっているはずだ」
クリーヴはかつて、“平凡であること”を嫌っていた。高次の意識を持ち、言葉ではないものを理解したいと希求する。しかし今は、この瞬間だけは、彼はわからずやになってしまいたかった。無知なる者は何と強いことか。今やクリーヴは“理解者”である。クリスの言いたいことが、正しい意味をもって納得できるようになってしまったのだ。
「おまえがここにいたいと思っていることも、おれはわかっているよ」
クリスの言葉はとても優しく、クリーヴは思わず涙が出そうになった。およそ他人に興味がなく、また人に思いやりを示すことが不得意な男がそう言ったのだ。彼は自分の気持ちをわかってくれている。それを理解した上で、追い出そうとしている。それだけでクリーヴは満足だった。
ボストンバッグに着替えと歯ブラシを詰め、ここに来てからずっと使っていた寝袋を小さく折り畳む。終わりは得てしてこんなものだ。クリスは誰の助けも必要としていない。どこかではわかっていたことだったが、荷造りをしている今も、彼にとってそれは認めたくないものだった。
バッグを手にしたクリーヴは、イーゼルに立てかけた描き途中の絵に目を向けた。それは数年ぶりに自分が着手した作品。テーマは特になく、ただ記憶にあるいくつかの風景を合成して再現したものだ。
うつろにキャンバスを眺めるクリーヴに、クリスは言った。
「おまえの絵は後でパンに送らせよう」
「いや……別にいいよ」かぶりを振るクリーヴ。「もしよければ……これはここに残しても構わないか? いずれ廃棄してくれても構わない。ただしばらくは……」
「わかった」
作品はまだ完成していなかったが、もう描き続ける意味もない。そもそも扉を開くということも、根拠があってのことではなかった。今にしてみれば、それはクリスと共にあるための口実だったのかもしれない。数日前、画家は“絵が動いた”と言っていたが、それも何かの見間違いだろう。クリーヴはそう解釈し、現実を受け入れた。妄執に取り憑かれたのは最愛の兄の死と、この閉鎖的空間によるものだ。
ホテルのマッチに携帯の番号を記し、それをイーゼルに挟んで「もし必要があったら連絡してくれ」と、クリスに言う。連絡があるとは思えなかったが、ここで終わりにしてしまうのは嫌だった。通常の状態であればこんな未練がましい行為は、彼のプライドが許さなかっただろうが、今のクリーヴには、なりふりを構っている余裕はなかった。出て行こうとしながらも、心のどこかで“行くな”と引き止められることを願っている。別れ話を切り出されているにも関わらず、あきらめきれない恋人のようだとクリーヴは思った。しかもこの場合はもっと悪い。自分たちは恋人だったことなど一度もないのだから。
自分のみじめさを呪いながら、クリーヴは雪の降る通りを歩いた。ものの数分で靴は濡れ、足の指先が凍り付いたが、そんなことは気にもならない。むしろ肉体の痛みは歓迎だ。少なくとも生きていることを認識できる。
ただ、生きてはいるが、その目的はもうわからない。なぜ自分が歩いているのか。どうしてまだ呼吸があり、命が永らえているのか。生き続ける理由は、今のクリーヴには謎だった。無論すべての人々にそれは神秘であるが、ほとんどの者はそれを疑問視することはない。クリーヴは心底、不思議に思った。なぜ自分が生きているのか。目的を失った瞬間に、消滅するのが筋なように彼には思えた。
雪は降り続け、ピルグリム(放浪者)は歩き続ける。この雪がいつ止むのかすら、彼にはわからない。人生で理解できることは何とわずかなことか。クリーヴは絶望と共に、マンハッタンの街を歩き続けた。
結局は何も残らなかった。ここに来たことは完全に無意味であり、すべては徒労に終わってしまった。そのことを思うと、クリーヴの目から涙が流れた。自らの失敗を悔いているのではない。ただ彼はとても寂しかった。クリスには見えざる味方がいる。そして自分にはなにもない。見せかけの強さと、真実の弱さの間を行き来し、クリーヴの精神はボロボロになっていた。
ホテルのベッドはしっかりしていて、横になるととても快適だった。そして快適だと感じる自分を嫌いだと彼は思う。こんな状態でも腹は減り、喉は乾く。絶望のさなかにあっても、肉体はそれを裏切り、単純な欲求を満たそうとするのだ。
ルームサービスでピザを頼み、それをダイエットではないコークで流し込む。有料のポルノ映像に金を払い、食事をしながらそれを見る。何か俗なもので身体を満たしたい。あの部屋にいるあいだ、神聖なもので汚されたこの身。それを清めるべく、クリーヴはせっせと胃の中に無意味を詰め込んだ。
こんな自分にクリスが愛想をつかすであろうことは、きっと時間の問題だったのだ。クリスは世捨て人で、そうするだけの理由が彼にはある。画家が“付き合い”を持つのは、見えざる化け物たち。おそらくあれは純化した存在なのだ、とクリーヴは考えた。厭らしい感情やエゴとは無縁の生き物。自分とは真逆に位置する者たち。
洗濯物をランドリーバッグに入れ、熱いシャワーを浴びると心からホッとした。冷蔵庫からもう一本コーラを出し、それに口をつけながら、窓の向こうのビル群を見つめる。カリフォルニアの家にはもう戻れないだろう。自分を構成する何もかもが、以前とはまるで違うことになっている。かつての職場に戻って仕事をしたり、両親と一緒に暮らすなど、今となっては想像もつかない。
いっそこの州に移住してしまおうかと、彼は思案する。今いるホテルよりももっと安い宿を見つけて、どこか定住先を探すのもいい。充分な貯蓄をしていたクリーヴだったが、蓄えは徐々に減っていっている。いずれ決めるべきことなら、早い方が良いに越したことはないはずだ。それがわかってはいたが、彼は数日間、グズグズと決断を引き延ばしていた。このホテルは居心地が悪くないからと自分に言い聞かせてはいたものの、本当のところを言えば、クリスの住むエリアから離れたくないというのが真の理由だった。
いつから自分は思い上がっていたのだろうとクリーヴは自嘲する。クリスと生活を共にし、一緒に絵を描いたからといって、彼が自分を受け入れてくれたなどとは、甘すぎる考えだ。いや、きっと“受け入れて”はくれていただろう。しかし“必要とされていた”わけではなかった。
炭酸飲料の助けを借り、ゆっくりとクリーヴは己の間違いを解き明かしていった。あの部屋にいる間は気づかなかった様々な問題点。クリスに近づき過ぎたため、物事を客観的に見れなくなっていた。今となっては何が正常な判断かは理解できる。あんな風に言うべきではなかった。ましてや身体を求めるなど───。いくらゲイが多く住む地区であっても、自分までそうなるとは、あまりにもおかしな話だ。これまでクリーヴは男に欲望を抱いたことはなかったし、今この瞬間、それを考えただけでも不思議な気持ちだ。どうしてあんなことになったのかと誰かに問われれば、“わからない”と答えるしかないだろう。強いて言えば、あの部屋のせいだ。暁の部屋は人を狂わせる。その証拠にこのホテルにいると、まるで憑き物が落ちたかのように、クリーヴは平常心を保つことができた。絵を描く情熱は消え、ふたたび凡庸な自分を取り戻したのだ。
自分は絶対にゲイではない。その確信がありながらも、クリーヴはクリスの元に戻りたかった。「なぜそんなにも?」と誰かに問われれば、彼は「わからない」と答えるだろう。クリーヴは目を閉じ、クリスを想った。他に想うべき相手は、現在のところ存在しない。
切なげな喘ぎと息づかい。声に汗をまとわりつかせた声が、携帯電話を通して聞こえる。いたずら電話の類いかとクリーヴは着信を切ろうとしたが、切れ切れに自分の名を呼ばれたところで、これが尋常ではないクリスの声だと彼は気がついた。
「クリス? クリスだな?」
「クリ…ヴ……来てくれ、今すぐ……」
「具合でも悪いのか? なにがあった?」
クリスはぜいぜいと喘ぎ、「すぐにだ……すぐに来てくれ……」と言った。「ああ、もう駄目だ……キング……」
そして悲鳴、受話器が床に落ちる音、悲鳴、悲鳴、悲鳴───。クリーヴは何度もクリスの名を呼んだが、応答はない。慌ててジャケットを羽織り、スリッパから靴に履き替える。携帯をポケットに突っ込み、クリーヴは外に飛び出した。彼の顔には大きな笑みがあり、考えるのは再会のこと。明らかにクリスの声の状態は普通ではなかったが、クリーヴはクリスに必要とされたことが嬉しかった。もしクリスが何らかの事故に巻き込まれでもしていたら、それはあまりにも不謹慎な喜びだが、今のクリーヴには考え得るどんな不幸な状況すらも、純粋な歓喜の前に鋳溶かされている。仮に現時点、カリフォルニアに帰っていたとしても、彼は何としてでもニューヨークに戻って来たことだろう。幸いクリーヴはまだここにいた。クリスのアトリエまで、急げば二十分足らずの距離だ。生き別れの恋人にでも呼ばれたかのように、クリーヴは走った。もうすぐクリスに会える。“どんな状態だとしても”、またあの男に会えるのだ。
絵が完成している。自分が出ていった後の日数を数えれば、クリスにしては短期間で描き上げた方なのだろう。キャンバスは床に落ち、傍らにはパンの名刺があった。これが作品の譲渡先だということは理解できたが、部屋の中にそれ以外の情報は見あたらない。
アトリエにはぬくもりがあり、今しがたまでいた人の気配に満ちていた。しかしクリスはいない。
ベッドはしっとりと濡れ、シーツは裂けている。近づくと小便の匂いが鼻をついた。おそらくクリスは失禁したのだろう。あの叫び声。生きたまま内臓をえぐられたとしても、あのような悲痛な声は出せまい。いったい彼はどんな苦痛をあたえられたのか。
無駄だとわかりつつも、クリーヴはクリスの名前を呼んだ。
「クリス……」
部屋を歩きまわり、気がふれた者のように、ブツブツと名前をつぶやき続ける。
「クリス……クリス……クリス……」
ぼんやりと画家の言葉を思い出す。
─── 長く時が経って、今おれが思うのは……“彼女は向こう側に行ってしまった”ということだ ───
それはいったいどこのことなのか。画家は消えた。何らかのものに飲み込まれた。それは何の根拠もない妄想だ。しかし暁の部屋に戻ったクリーヴには、もはや理性的な考え方はできなかった。彼にとっての真実は、“クリスは消えた”ということ。そして“もう二度と彼には会えないのだ”とも───。その悟りを得、クリーヴはへたりと床に座り込んだ。すべてが終わってしまった。クリーヴは二度、クリスを失った。一度目は出て行けと言われたとき。そして二度目は本物の喪失だ。
化け物は彼を引き裂いたのだろうか。その存在をキャンバスに写し取る眷属を、キングは無惨に痛めつけたと? 果たして……そうだろうか。クリスのあの声。あれが苦痛によるものだとどうして言い切れる? 彼は痛みで失禁した? 真実はその逆かもしれないじゃないか。クリーヴはそう考え直し、クリスの“快楽のあかし”を室内に探したが、それらしき体液は見つけられなかった。
空調が壊れているのだろうか、室内の温度はとても高かった。汗をかきはじめたクリーヴは、衣服を脱ぎ捨てた。まる裸になり、クリスのベッドに横たわる。濡れたシーツを身体に巻き付け、まだ残る温かさに身を委ねると、ごく自然に彼は勃起した。目を閉じ、そのまま眠りに落ちる。起きたときには射精していた。
ベッドが乾き、そしてまた濡れ、その繰り返しで数日が過ぎた。クリーヴはパンに連絡をとることはせず、ただこの部屋に居続けた。クリスが戻ってくることをわずかに期待することもあったが、その都度、希望は持つなと自分に言い聞かせた。
昼夜を問わず窓を開け放ち、凍てつくような外気を迎え入れる。そうすることにさして意味はない。強いて言えば、ただそれが気持ちがいいと感じるからそうしている。食欲はまるでなく、ただ水だけを飲み続けた。無精髭と落窪んだ眼球。鏡の中にこの部屋の主人の面影を見る。
クリスの遺作を脇に立てかけ、クリーヴは絵を描いた。他にするべきことは思いつかない。それにこのキャンバスは画家が自分にくれたものだ。クリーヴは大きな作品をやったことはなかったが、やってみるのにはいい機会だ。
ボイラーが悪いままなのか、部屋はやたら暑い。そのため服は必要がなくなった。絵筆を取るとペニスが硬くなり、創作の意欲はまったく萎えることはない。それは素晴らしい感覚だったが、心は未だクリスを恋い慕っていた。この部屋は彼のものだ。自分はただ、彼が戻るまでここにいるに過ぎない。そう思いはするものの、“クリスが戻る”という可能性はないこともわかっていた。矛盾した思いを抱えつつ、クリーヴはここに留まる。彼は何かを待ち続けた。何をかはわからないが、“待っている”という感覚はあった。信頼できるものは何ひとつない。それならば、ただ“感覚”のみに従事するのも悪くはないだろう。
汗を流し、呼吸をし、絵を描き続ける。自分の目的をクリーヴはもはや探してはいなかった。かつてそんな考えがあったことすら、彼は忘れてしまっている。
クリスの枕には、まだ彼の香りが残っている。それに頭を埋め、クリーヴは画家とした会話を思い出していた。芸術についての考え方。消えてしまったガールフレンドのこと。その間、幾度か見た彼の笑顔……。感傷にひたりきっていたクリーヴを起こしたのは、パチパチという火のはぜる音だった。きな臭さを鼻孔に感じ、彼は突然、飛び起きる。
「絵が……」
目にした光景を、クリーヴはにわかに信じることができなかった。絵が燃えている。描きかけの彼のキャンバス。ゆうに数メートルあるそれが、真っ赤な炎に包まれていた。
瞬間的に、火を消そうと彼は行動に出る。水を取りに台所に行こうとしたそのとき、目の端が何か異様な光景を捉えた。振り返り、よく見ると、炎は絵を燃やしてはいなかった。まるで頑丈な不燃布のコマーシャルのように、キャンバスには焼けこげひとつついてはいない。だが火は燃えている。見間違えようもないほど、炎はそこにはっきりと存在している。
ふいに絵が泡立ち、そこに火の波が産まれた。波はある姿を形成し、ゆらりゆらりとゆれながら、クリーヴの方に近づいてくる。“それ”が炎から完全に離れてしまうと、キャンバスは沈火。そして空間には、“見えざる者”だけが残った。
クリーヴの頬に感触が触れた。彼はそこに手を伸ばす。掴んだそれは人の手だ。しかし目の前には誰もいない。見えない手をしっかりと掴まえ、クリーヴはつぶやいた。
「クリス……」
そう呼んだものの、その名はすでに誰のものでもなかった。
透明な指と手。そこに続く腕へとクリーヴは手を滑らせ、手探りで相手を確認しようとした。触り心地はまさしく人の皮膚に違いない。ただその長さだけは、おかしなほど長く伸びていた。これが人間であるとすれば、明らかに奇形と言える長さ。いずれは“クリス”を思わせるパーツすべてが変化していくのだろう。
伸び過ぎた腕にクリーヴは頬を擦り寄せ、「きみは幸せかい?」と聞いた。
「きみは……幸せかい?」
見えざる者は答えなかった。クリーヴの唇に感触が触れ、歯を割って柔らかな舌が入り込む。無言で絡ませ合う最中、クリーヴは薄く目を開けたが、口づけの相手はそこにはなく、ただ空間の広がりが視野に入るばかり。しかし目を閉じれば、そこにはっきりとクリスの顔を思い描くことができる。目を開くとなにも見えず、閉じればそこにある。これはなんという狂気だろう。それでもクリーヴはこの口づけを歓迎した。
純粋な歓喜がクリーヴを圧倒し、体内にふくれあがったそれは、若き芸術家に熱い涙を流させる。肉体は神殿である。神殿に宿る命は神聖である。
今、クリスは幸福なのだろう。それは推測でしかなかったが、正しいに違いない。なぜそうと言い切れるのか、説明できる術をクリーヴは持たなかったが、それでも彼は真実を知っていた。アートの直感が、霊感のすべてがそう言っている。クリスはアートと共にいる。芸術家にとって、それ以上の幸福があるはずもない。
サクラメント(聖礼典)にも似た口づけが終わると、部屋は元の静けさを取り戻していた。涙を拭うこともせず、クリーヴはパレットに絵の具を絞り出す。描き留めるものは何か、もう彼は迷うことはない。かつて彼が“悪魔”としたネーミングは、やはり陳腐なものだったと思い知る。
『おれの絵に題はない』と画家は言ったが、クリーヴはこの絵につけるタイトルを決めていた。
〈HE(彼)〉───。
これからは“彼”がいる。アートの霊感を与える、ひとつの存在。画家はひたすらに手を動かした。涙を流し、汗をかき、呼吸をし、起きたまま夢を見る。生きている間、他にすることもない。
END
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本作は続編に〈Long Gone(http://ncode.syosetu.com/n4544h/)〉があります。