第一章 そこにない光
地球から約四百キロメートル。
宇宙空間は、どこまでも静かだった。
ロイド・ハリスは、宇宙ステーションの外壁に取り付けられた固定パネルを点検していた。
宇宙服の中には、自分の呼吸音と冷却装置の低い作動音だけが響いている。
「こちらロイド。第三固定金具、異常なし。次の接続部へ移動する」
『了解。作業時間は残り二十分だ。無理はするなよ』
通信機から、同僚のマックの声が返ってきた。
「分かってる。これが終わったら帰るさ」
ロイドは手すりをつかみ、身体をゆっくりと移動させた。
眼下には青い地球が広がっていた。
雲の渦。深い海。太陽の光を受けて輝く大気の縁。
美しい景色だった。
だが、十か月近く宇宙に滞在しているロイドにとって、それはすでに見慣れた光景でもあった。
彼は次の作業箇所へ向き直った。
その瞬間だった。
眩しい。
突然、視界が真っ白になった。
「っ……!」
ロイドは反射的に目を細めた。
何かが目の前で閃光を放った。
そう感じた。
強烈な白い光。
視界の中心から広がる、逃げ場のない眩しさ。
しかし、奇妙だった。
目は痛くない。
バイザーに光が反射している様子もない。
周囲の宇宙船も、作業用パネルも、何ひとつ照らされていなかった。
それなのに、眩しい。
あまりにも眩しくて、目を開けていられない。
ロイドは顔を背けようとした。
だが、何を見ているのか分からないまま、数秒間、身体が固まっていた。
そして――
唐突に、眩しさが消えた。
暗い宇宙が戻ってきた。
目の前には、先ほどと何も変わらない宇宙船の外壁がある。
地球も、星々も、すべて元の位置にあった。
ロイドはゆっくりと瞬きをした。
「……何だ、今の」
自分の声が、ヘルメットの中で妙に大きく聞こえた。
彼は周囲を見回した。
何もない。
光源らしきものは、どこにも見当たらなかった。
太陽の位置も変わっていない。
宇宙船の照明が点灯したわけでもない。
そもそも、周囲に何かが閃いた形跡すらなかった。
『ロイド?』
通信機からマックの声が聞こえた。
『どうした? 急に動きが止まったぞ』
ロイドはすぐには答えられなかった。
自分が何を見たのか、説明できなかったからだ。
「……いや」
喉がひどく乾いているように感じた。
「ちょっと目が眩んだだけだ」
『目が眩んだ? 太陽光が反射したのか?』
「分からない。何か、一瞬……」
ロイドは言葉を切った。
何かが光った。
そう説明しようとした。
だが、違う。
光があったと言うには、あまりにもおかしかった。
周囲は何も変わらなかった。
自分だけが、突然、眩しさを感じたのだ。
「……気のせいだと思う。作業を続ける」
『本当に大丈夫か?』
「ああ」
ロイドは手すりをつかみ直した。
指先がわずかに震えている。
彼はその震えを、無理やり意識から追い出した。
長期間の宇宙滞在。
疲労。
睡眠不足。
地上でも、強いストレスの中で視覚的な異常を感じることはある。
そう考えれば、説明できないこともない。
ロイドは作業を再開した。
その後、船外活動は予定どおり終了した。
帰還後に映像を確認しても、作業用カメラには異常は映っていなかった。
ロイドが突然立ち止まった様子もない。
周囲の明るさが変化した形跡もない。
記録上、彼は一度も作業を中断していなかった。
だが、ロイド本人だけは覚えていた。
あの瞬間の眩しさを。
目の前に光源などなかったはずなのに、目を開けていられなくなるほどの、あの感覚を。
そして、彼はまだ知らなかった。
あのとき、彼が見たものは、光ではなかった。
そこに存在していた何かを、彼の脳が光として認識してしまったのだ。




