#006 恋する乙女 #03
「やっぱり、近くで教えた方がいいのかな?」という青木先生の言葉に、あたしは力一杯うなずいた。
先生は笑いながら机を動かして、あたしがいつも使っていた席と向かい合わせにくっつける。
あたしはノートを抱えて立ったまま、思い切って訊いてみた。
「先生、小林さんたちから、聞いたんでしょ?」
「……ん? 何を?」
知らん顔しようとしてくれたみたいだけど、一瞬反応したのがわかっちゃった。
「今日ね、言われたの。お昼に、小林さんたちから。だから隠さなくていいです」
どうせバレてるなら、もう一度ちゃんと自分で言いたいし。だって、こうなっちゃったらしょうがないじゃない。
先生は椅子に座ってあたしを見た。しばらくして、「……ごめん」と、困ったような顔でぽつりと言う。
やっぱり、そういう意味もあったんだ。
「ううん、先生、悪くないし。でもあたし、数学も頑張ってるから、それは誤解されたくなくって」
一気に言い切ると、先生は少し驚いたみたいで目が丸くなった。何回か目をまばたいて、あたしの顔をもう一度見てくすくす笑う。
「東雲はまっすぐでいいなぁ」
「いや、あたし頭悪いから、嘘とかつけないだけですよぉ」と言いながら座ってノートを開く。
ひゃぁ……どうしよ。今更この距離が恥ずかしくなって来ちゃった。
「そういうことを言える素直さが羨ましいよ……先生はもう年取ってひねくれてるからねぇ」
先生は眉を下げて、しょんぼりしながらため息をつく。
「そうですかぁ? 全然、素敵ですよぉ」
あっ……またつい本音がぽろっと出ちゃった。ちらりと先生を見ると、また笑ってる。
「本当に……高校生の頃に東雲に会ってたら、俺も違う人生になってたかな」
「え~? やっぱりそれは困りますぅ」と咄嗟に言うと、先生は不思議そうな顔をした。
「何故?」
「数学、教えてもらえなくなっちゃうじゃないですかぁ」
先生は一瞬呆気に取られた顔になる。
「ふぅん……そっか、東雲は、教師の俺が好きなんだね」
「えっ……あっ。そ、そうなのかな? でも、よく考えたらあたし、先生が先生じゃないとこって、知らないから」
「ははは、確かにそうだ」先生はそう言ってプリントを開く。なんだかさっきまで緊張してたのがちょっとほぐれた感じがする。
「え~と、それじゃぁ……数学、始めようか」
「はいっ」
あたしが元気に返事をして、先生はまたくすりと笑った。
青木先生はいつもスーツ姿で、前髪ちょっと立てて、細いフレームの眼鏡。たまにジャージだったり、コンタクトして来たりするけど、それもやっぱり『青木先生』って感じ。
先生がスウェットにサンダル履きとか、腰パンとか、ちょっと想像できないし、できればして欲しくないし……
あたしきっと、こうやってわからないとこを教えてくれる『青木先生』が好きなんだよねぇ。
「俺……あ、っと。先生はさ」
あたしがもう一度プリントをやり直してる時、小さい声で青木先生が言った。
「正直、そういう風に見ようとは思ってないんだ。東雲だけじゃなくて、誰に対しても」
顔を上げると、先生はノートで顔を半分隠しながら何回か咳払いをした。
「不器用なのか、教師だからと考えるのかはわからないけどな。先輩たちの話を聞くと……まぁ、告白されたり、そういう、色々、あるらしい、けど……」
「それでもいいんです。あたしが青木先生のこと好きだから。それで」
もう、告るどころか、暴露しまくりだよね。さっきまで恥ずかしいとか思ってたのに、今は何度でも先生に『好き』って言いたくなってる。
自分の開き直り具合に呆れながら、改めて先生を見ると……あれぇ?
「せんせ……顔、赤いしぃ」
ノートで隠してた先生の顔。耳とかおでことか、真っ赤だぁ。なんでぇ?
「だから、俺モテなかったから。そういうの慣れてないんだよ。っていうか、先生をからかっちゃ駄目だろ」
えー、今までカッコいい先生しか知らなかったけど、照れてるの、かわいい。すっごいかわいい。大人の人でもこんな風に照れたりするんだぁ。
「さっき言ってたじゃないですかぁ。教師の俺が好きなんだぁ、って」
「……そ、そうだったか?」
また眉が下がってる。なんかちょっと子犬みたいで、さっきまでとイメージが全然違う。
「えーと……なんか脱線しちゃったな」
咳払いをしながらノートで顔を扇ぐ先生。あたしと目が合って照れながら少し笑った。
* * *
「……で、ここで代入……そうそう。手際良くなって来たな」
ボールペンを軽く持った手で、先生はノートをとんとんとつつく。
この癖が好きで、こっそり真似してみたりしてた。
「あ、そうだ。ここの解き方、いっつも引っ掛かっちゃうんですよぉ」
じっくり教えてもらえると、こんな風に苦手なところも見えて来る。今まではどこがわからないのかもわからなかったのに。
前にさやかちゃんに教えてもらったりもしたけど、あたしが混乱するとさやかちゃんにも迷惑掛けちゃったりして……こうやって最初から先生に訊けてたら、さやかちゃんの勉強を邪魔しちゃうこともなかったかなぁ。
少しの時間、あたしだけの先生。今はこれで幸せ。
ドラマみたいにカッコいい彼氏とデートしたり、キスしたりってやっぱり憧れるけど、青木先生とじゃ全然想像できないよ。
ドラマなら当たり前の展開でラブシーンも観られるのになぁ。でも先生が近くにいるだけですごく幸せになっちゃうんだもん。それ以上望んだら罰があたっちゃいそう。
最後の問題を解いている時、先生がぽつりと言った。
「講習も明後日のテストで終わりだなぁ。東雲はほんとによく頑張ったよ」
うん、自分でもそう思う。大変だったけど、解けるようになると少しだけ楽しいし。何よりも先生に褒めてもらえるのが嬉しい。不純だけどねぇ。
少しでも青木先生と話がしたくて、あたしは話題を振る。
「参考書買いたいんですけど、どんなの買ったらいいかわかりますか?」
「う~ん? 東雲が読んでわかりやすいのが一番だと思うけど」
「見てるだけで目が回りそうになっちゃって、どれ買えばいいのか……」
先生は笑った。
「この辺では限界があるもんなぁ。大きい店ならもう少し選びようもあるけど、近場でも車で一時間は掛かるしなぁ」
「あの、観覧車のある所ですよねぇ? こないだ友だちと行ったんですよぉ」
先生はあたしの言葉にうなずきながら、壁にかかってるカレンダーを眺める。
「じゃあ今度の土曜日に一緒に見に行く? 俺、車出せるから……」
「え? いいんですかぁ?」
思わず声がうわずったあたしを見て、先生はちょっと困った顔をした。
「あ、そっか、どうなんだろ……こういうの駄目なのかな」
えー? 折角のチャンスだもん。そこは食い下がるでしょ。
「じゃあ、先生が参考書一緒に探してくれる、ってうちの親に言いますからぁ」
「う~ん……それならいいのかな?」
「大丈夫ですってぇ。むしろ先生、うちの親に感謝されちゃうかも」
親公認だもんねぇ。やましいことないし。
先生は先生だから、親切で言ってくれてるだけだから、期待しちゃ駄目だよね。
わかってるのに、どうしても頬がゆるんでしまう。
でも、待ち遠しいよ。嬉しいよぉ。