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31 祝祭



 セラから新しい手帳を受け取って、十日が過ぎた。


 最初の頁には、翌朝に受けた指名依頼が記されている。


 北西未踏域探索。依頼主はヴァルドが率いる探索隊。ルークに任されたのは、進路の確認と記録だった。


 参加するという返事は、すでに出してある。ただし、出発日はまだ決まっていない。銀鉱山の開坑記念祭が終わったあと、ヴァルドを交えて詳しい目的地と日程を詰めることになっていた。


 今朝、宿を出る前にもその頁を開いた。


 予備の剣はどれを選ぶか。雨季の残る北西部で、何日分の余裕を見ておくか。考えることはいくらでもあったが、今日はまだ仕事の日ではない。


 朝の鐘が鳴るより早く、フロンティアの中央通りは人で埋まっていた。


 建物の間には七芒星を染めた小旗が渡され、窓辺には銀色の布が垂れている。通りを行く者の半分は都市の住民ではなかった。近隣の村から来た農民、荷馬車を連ねた商人、仕事を求める職人。見慣れない服や訛りの違う声が、朝の冷たい空気へ混じっている。


 新聞売りの少年が、人の間を縫って走った。


「号外だ! 銀鉱山、本日開坑! 北西街道の増設も決定!」


 刷られたばかりの紙が、次々と人の手へ渡っていく。


 紙面の上には、竜が倒れていた谷と、そこから南へ延びる新しい街道の概略が描かれていた。実際の道はまだ半分もできていない。銀を掘り出す坑道も、当面は一つだけだ。それでも、地図に一本の線が加わったことで、フロンティアの外には新しい仕事が生まれ始めている。


 鉱夫を募集する天幕には、すでに長い列ができていた。その隣では荷運び、坑木の伐採、道具の修理、食事作りを請け負う者を集めている。


 三年前には、地図の外だった場所だ。


 ルークは人波の端に立ち、新聞へ描かれた線を目で追った。


 竜を倒しただけでは、道はできない。


 素材を運び、危険な場所を調べ、橋を架け、荷車が通れるように地面をならす。その後から商人と職人が入り、ようやく地図の空白へ名前がつく。


 百日を超える遠征で運んだものが、今になって都市の形を変え始めていた。


 そして祭りが終われば、次の遠征が動き始める。


「待ちましたか?」


 背後から声をかけられ、ルークは振り返った。


 セラが人混みの向こうから歩いてくる。今日はギルドの制服ではなく、白いシャツの上へ淡い緑色の上着を羽織っていた。栗色の髪は、先日と同じように首のあたりで緩く結ばれている。


「いや。今来たところだ」


「約束を忘れていなくて安心しました」


「輪投げと焼いた林檎だろ」


「ちゃんと覚えていたんですね」


 セラはルークの手にある新聞をのぞき込んだ。


「朝から地図を見ていたんですね」


「道が増えている」


「今日くらい、探索の準備は忘れてください」


「手帳は宿に置いてきた」


 セラは一度まばたきをしてから、少し笑った。


「持ってくるつもりだったんですか?」


「朝までは」


「置いてきて正解です」


 答えながら新聞を畳むと、セラは満足そうに頷いた。


「では、輪投げから行きましょう」


「最初から決めていたのか」


「一度くらいはやりたいと言ったでしょう」


 忘れてはいなかった。


 広場の端には、祭りのために作られた遊戯台が並んでいる。先日、店主の子どもが試していた輪投げにも人が集まっていた。七本の杭の先に細い瓶が置かれ、その首へ木の輪を入れれば景品がもらえる。


 セラが銅貨を払い、輪を三つ受け取った。


 一投目は手前の杭へ当たった。二投目は瓶を越え、奥の布へ落ちる。


「思ったより難しいですね」


「輪の片側が少し重い」


「調べないでください」


「持てば分かる」


「それなら、最後はルークさんが投げてください」


 残った輪を渡された。


 ルークは重い側を指で確かめ、瓶までの距離を見る。風はほとんどない。投げる者が多いため、地面に引かれた線の手前だけ土が固く踏まれている。


 腕を振る。


 輪は二度ほど傾き、細い瓶の首へ収まった。


 周囲から小さな歓声が上がる。


「やっぱり、こうなりますよね」


「入れろと言ったのはセラだろ」


「もう少し一緒に苦戦してもよかったんです」


 店主が景品を並べた台を示した。木彫りの鳥、小さな布袋、色をつけた髪留め。その中から、セラは迷った末に銀色の糸を編んだ細い腕紐を選んだ。


「髪留めじゃないのか」


「こちらなら仕事中でも使えますから」


 手首へ巻いてみせる。


「どうですか?」


「ほどけにくそうだ」


「聞き方が悪かったですね」


 セラは笑って腕を下ろした。


 広場の中央では、焼いた林檎を串へ刺した屋台から甘い匂いが流れている。二人で一つずつ買ったところで、背後から大きな手が伸び、ルークの持っていた串を奪った。


「人の食い物を勝手に取るな」


 振り向かなくても声で分かった。


 アレンが、焼いた林檎を一口で半分ほど食べていた。


 短い茶髪。人当たりのよい目元。ルークより頭一つ近く高い身体は、旅装を脱いでいても細くは見えない。濃い青の上着の下で、肩と腕の筋肉が布を押し上げている。左腰には、使い慣れた長剣を下げていた。


「五日ぶりの幼なじみに、それが最初の一言か」


「都市へ戻った日に二言話した」


「あれを再会に数えるのか? ヴァルドへの報告に連れていかれて、すぐ別れただろ」


「無事だったかと、腹が減ったとは聞いた」


「大事なことは伝えたな」


 残った林檎も食べ終えると、アレンはセラへ気づいた。


「悪い。二人で回ってたのか」


「ええ。途中までは」


 セラが答える。


「全員で回ればいいと言った」


「なるほど」


 アレンはルークを見て、それからセラの手首に巻かれた銀色の紐を見た。


「何だ」


「いや。俺も何か食おうと思ってたところだ」


「今食べただろ」


「これはお前の分だ」


 アレンは屋台へ向き直り、焼いた林檎を三本注文した。


「三本も食べるんですか?」


「戻ってから、朝飯が足りなくて」


「今朝は宿で四人分食べていたよ」


 後ろから落ち着いた声がした。


 アレンの表情がわずかに固くなる。


 人混みの間を、ヴァルドが歩いてきた。


 短い黒髪のこめかみに白いものが混じり、日に焼けた額には新しい傷が残っている。祭りの日でも、身につけているのは飾りのない濃茶の上着と、使い込まれた長剣だけだった。一代限りの爵位を与えられた男には見えない。


 道を空けた人々が歓声を上げる。


 ヴァルドは片手を上げて応じたが、足は止めなかった。人々の顔より先に、広場へ入る道と屋台の隙間、舞台の上を見ている。


 遠征中と変わらない。


「ヴァルド」


 ルークが名を呼ぶと、男の目がこちらへ向いた。


「ようやく名前を覚えたか」


「聞く機会がなかっただけだ」


「百日以上、隊長で通したからな」


 ヴァルドの視線が、ルークの胸元へ下がる。


「銀が馴染んできたな」


「まだひと月も経っていない」


「日数の話じゃない」


 そう言って、ヴァルドはルークの肩を軽く叩いた。


「昇格の報告は読んだ。次の遠征では働いてもらう」


「そのつもりだ」


「次はアレンと同じ小隊になる。出発前に一度組んでおけ」


「右でも振れるようになった」


 アレンが串を持ったまま口を挟む。


「お前はまず手を空けろ。模擬戦は昼からだ」


「まだ一刻ある」


「食いすぎて動けなくなっても待たないぞ」


 ヴァルドはそれだけ言い、領主の使者が待つ舞台へ向かった。


 その背中へ何度も声が飛ぶ。


 英雄。竜殺し。名誉男爵。


 呼び方は増えているが、本人はどれにも振り返らなかった。


 広場の舞台では、白い布をかけられた台がヴァルドを待っていた。


 領主が布を取り払うと、子どもの頭ほどある黒い岩が現れた。割れた面に、細い銀色の筋がいくつも走っている。銀鉱山の最初の試掘で切り出された鉱石だった。


 派手に磨かれた銀杯や硬貨とは違う。土と石がこびりつき、光を受ける場所もわずかしかない。それでも、その筋を一目見ようと人々が背伸びをした。


 領主は、鉱山までの道を二年かけて整えること、途中へ新たな宿場を設けること、採掘に関わる者の家族が移り住める村を造ることを発表した。


 読み上げられる計画のたび、別の場所から歓声が上がる。


 鉱夫には坑道が、商人には街道が、農民には新しい村が見えている。同じ鉱石を見ながら、それぞれが違う未来を考えていた。


 最後にヴァルドが壇上へ呼ばれた。


 領主から渡された銀の杯を持たされ、しばらく黙って人々を見渡す。長い演説を期待していた者たちが静まるまで、少し時間がかかった。


「竜を倒した場所へ、今日から人が住み始める」


 ヴァルドの声は大きくない。それでも広場の端まで届いた。


「道を造った者も、荷を運んだ者も、その途中で死んだ者もいる。今日ここへ戻れなかった者の分まで祝ってくれ。それが、この先も道を延ばす力になる」


 杯を一度掲げる。


 最初に応じたのは、遠征へ参加した冒険者と職人たちだった。次に広場全体から杯が上がり、木杯のぶつかる音が幾重にも重なる。


 ルークも屋台で受け取った果実水を掲げた。


 隣のセラは、舞台ではなく、遠征帰りの者たちを見ていた。


「ユアンさんにも、見せたかったですね」


「ああ」


 それ以上の言葉は続けなかった。


 祝うことと、死んだ者を忘れないことは、同時にできる。


 ヴァルドの杯が下がると、鐘が七度鳴った。


 広場の西側で、模擬戦の準備が始まった。


     ◇


 昼の鐘が鳴ると、中央広場の西側がロープで囲まれた。


 普段は荷車の待機場所として使われる空間に砂が敷かれ、四隅には治療師と水桶が置かれている。見物人は広場だけでは収まらず、周囲の建物の窓や屋根にまで上っていた。


 模擬戦の規則は単純だった。


 降参するか、審判が決着と判断すれば終わり。急所へ刃が届くと判断された場合も同じ。ただし、使う武器は普段のものとし、防具も外さない。


 冒険者同士の稽古では珍しくない規則だが、今日の相手はS級である。


 審判を務めるギルド長が、開始前に念を押した。


「祭りの余興だ。死人を出した者は、階級にかかわらず牢へ入れる」


「分かっている」


 ヴァルドは長剣を抜いた。


 鍔の一部が欠け、柄には何度も巻き直された布が残っている。竜の首を落とした剣だと紹介されると、見物人の歓声が一段大きくなった。


 最初に試合場へ入ったのは、遠征へ参加していたB級の槍使いだった。


 長い間合いを保ち、穂先を細かく動かす。ヴァルドが前へ出るたびに足を引き、踏み込める場所を限定しようとしている。


 ただ距離を取っているのではない。石突きで砂へ浅い線を引き、その内側へヴァルドが入ったときだけ強く突く。退いたように見せながら、自分の槍がもっとも速く届く間合いを持ち運んでいた。


 一度目の突きを、ヴァルドは剣の腹で外へ流した。


 二度目は穂先へ触れず、首を傾けただけでかわす。槍使いはすぐ石突きを返し、脇腹を狙ったが、ヴァルドは柄を左腕で受け止めた。そこから剣を振れば決着できたはずなのに、一歩退いて間合いを戻す。


 見物人へ、槍使いの攻防を見せている。


 そう気づいたのか、槍使いの顔から笑みが消えた。


 三度、四度と突きが続く。肩を狙った直後に足元を払い、避けた先へさらに穂先を置く。B級として未踏域へ出るだけの技量が、一連の動きへ表れていた。


 それでもヴァルドは、槍使いが作った線の内側へ一度も踏み込まない。


 外から回り込むわけでもない。線のすぐ手前に立ち、届きそうで届かない距離を保ったまま、相手に牽制を繰り返させている。


 七度目で、槍使いが自分から半歩前へ出た。


 その瞬間だけ、石突きが地面から浮いた。


 七度目の牽制で、ヴァルドが穂先の追えない角度へ踏み込んだ。


 槍使いは柄を短く持ち替えて追おうとした。しかし、長い武器を回すためには肘を引かなければならない。ヴァルドはその肘の後ろへ立っていた。


 槍使いが振り向いたときには、剣の腹が肩へ添えられている。


 歓声が遅れて上がった。


 次に出たのは、丸盾と片手斧を持つB級だった。


 こちらは追わなかった。盾を正面へ置き、足を止める。ヴァルドが近づけば盾で受け、弾いたところへ斧を打ち込むつもりらしい。


 ヴァルドが剣先で盾の縁を二度叩いた。


 男は動かない。


 三度目だけ、音が低くなった。


 盾の中央へ剣を打ちつけられ、男が踏ん張る。次の瞬間、ヴァルドは剣を引くのではなく、盾を下へ押し込んだ。力に耐えようと固めていた男の肩がわずかに下がる。


 ヴァルドの足が盾の外へ出た。


 斧が横へ振られる。剣では受けず、男の手首へ自分の柄頭を当てた。握りが緩んだところへ肩を入れ、盾ごと身体を回す。


 男は倒れなかった。


 だが、正面を守っていたはずの盾が、見物人の方へ向いている。無防備になった背中へ、ヴァルドの剣先が止まった。


 三人目は二本の短剣を使った。


 間合いへ入る速さは、それまでの二人より明らかに上だった。片方でヴァルドの剣を絡め取り、もう片方を喉元へ走らせる。最初の攻撃を外されても離れず、肘、膝、短剣の柄まで使って手数を途切れさせない。


 ヴァルドはしばらく片手だけで防いでいた。


 短剣が上着の袖をかすめる。


 観客が沸き、使い手もさらに前へ出た。


 そこでヴァルドの左手が動いた。


 相手の右手首をつかみ、二本の短剣が交差する位置へ押し込む。互いの刃がぶつかり、ほんの一瞬だけ両手が止まった。


 ヴァルドはその間に身体を入れ替え、使い手の首筋へ剣の腹を当てていた。


 三人とも、得意な戦い方を崩されたのではない。


 槍使いには踏み込ませ、盾使いには守らせ、短剣使いには攻めさせた。そのうえで、本人が最も自信を持つ動きを、決着へつながる一手に変えている。


 ヴァルドは力で武器を弾かない。相手が攻撃へ移る直前、その動きに必要な場所へ先に立つ。剣を振る回数は少ない。それでも、挑んだ者は自分から刃の届く場所へ入ったように追い詰められていく。


「ルーク」


 名前を呼ばれた。


 ロープの内側へ入ると、観客の声が一つの大きな音へ変わる。


 セラは最前列にいた。隣に立つアレンが、焼いた肉の串を持ったまま片手を上げる。


「肩は治ってるんだろうな」


「問題ない」


「なら、一本くらい取ってこい」


「無茶を言うな」


 鞘をセラへ預け、剣を抜く。


 向かいのヴァルドは、剣先を下げたまま立っていた。構えらしい構えがない。左右どちらへも動けるように足を置き、肩から余計な力だけが抜けている。


 審判が手を上げた。


「始め」


 ルークはすぐには踏み込まなかった。


 ヴァルドの肩、肘、腰、膝、足の向きへ順に目を走らせる。どこにも力の偏りがない。前へ出る兆しがない代わりに、後ろへ退く兆しもなかった。どの方向へも同じ速さで動ける姿勢を保ち、ルークが先に選ぶのを待っている。


 相手を見て、崩れないように戦うだけでは足りない。


 グレンとの稽古で教えられた言葉を思い出す。


 相手に好きなことをさせない。戦いの流れを、自分で決める。


 ヴァルドに通じるとは思えない。それでも、ただ反応して負けるつもりはなかった。


 先ほどの槍使いが残した足跡が、試合場の左側にある。何度も踏み直された砂は、見た目より柔らかい。強く踏み込めば、足がわずかに沈むはずだった。


 ルークは右へ一歩動き、剣先をヴァルドの手元へ向けた。


 反応を見るための小さな動きに、ヴァルドの視線だけが下がる。足はついてこない。


 ならば、動かす。


 左足で地面を蹴り、胴へ斬り込んだ。途中で手首を返し、肩へ軌道を変える。


 ヴァルドの剣が下から上がった。


 刃同士が触れた瞬間、ルークの剣先が外へ流される。強く打たれたわけではない。こちらが振る力の向きへ、わずかに角度を足されただけだった。


 ルークは逆らわなかった。流された剣を引かず、その勢いを使って身体を回す。足を入れ替え、左から首筋へ斬り返した。


 今度はヴァルドが半歩下がる。


 刃は上着の手前を通った。


 届かなかったのではない。避けさせた。


 ルークは追うと見せて、正面へは出なかった。左へ回り込み、ヴァルドと立つ場所を入れ替える。柔らかくなった砂が、相手の背後へ近づいた。


 剣先を低く下げ、右の腿へ狙いを移す。


 ヴァルドが剣を立てた。腿を守るなら刃は下がる。そこから切っ先を跳ね上げれば、空いた手首へ届く。


 ルークが踏み込む寸前、ヴァルドの右足が動いた。


 後ろへではない。斜め前へ出て、ルークの剣がもっとも速く届く場所を自分から潰しにくる。


 予想と違う。


 それでも、動き出した身体は止めなかった。握りを緩め、剣を短く持ち替える。振るための間合いがないなら、切っ先を押し込めばいい。


 互いの肩が触れそうな距離で、ルークはヴァルドの脇腹を突いた。


 ヴァルドは左肘を下げ、刃の腹へ当てた。切っ先が逸れ、そのままルークの横を抜けようとする。


 ルークは空いた左手で相手の上着をつかもうとした。


 指先が布へ触れる前に、ヴァルドの柄頭が胸当てを叩く。


 浅い一撃だった。息は詰まったが、まだ足は動く。


 ルークは下がらず、肩をぶつけて間合いを保った。左足でヴァルドの進路を塞ぎ、剣を引き戻す。ここで離れれば、また相手の距離になる。


 ヴァルドの口元が、ごくわずかに動いた。


 次に来るのは剣ではない。


 腰の沈みからそう読んで、ルークは蹴りを避けた。だが、ヴァルドは足を上げなかった。沈めた身体をそのまま前へ運び、肩で押してくる。


 ルークの踵が、柔らかな砂へ入った。


 自分が使うつもりだった場所へ、先に追い込まれていた。


 足が半分沈む。


 ヴァルドの剣が右から迫った。


 ここで受ければ、踏ん張れない。剣ごと押し切られる。


 ルークは剣を合わせず、自分から膝を折った。頭上を刃が通過する。沈んだ足を抜くより先に地面へ左手をつき、低い姿勢からヴァルドの膝裏へ剣を走らせた。


 観客の声が大きくなる。


 刃が届く。


 その直前、ヴァルドの膝が消えた。


 男は後ろへ退かず、ルークの剣をまたぐように一歩前へ出ていた。視界から脚が外れ、濃茶の上着が目の前を塞ぐ。


 剣を返すには近すぎる。


 立ち上がるよりも早く、ヴァルドの柄が胸当ての中央へ突き込まれた。


 今度は息が完全に止まった。


 片膝をついたルークの首筋へ、長剣の腹が添えられる。


「そこまで!」


 審判の声が響く。


 ルークは剣を下げた。


 胸当ての中央が鈍く痛む。まともに打ち込まれていれば、立ってはいられなかった。


「場所を使おうとしたのは悪くない」


 ヴァルドが剣を引く。


「最初から気づいていたのか」


「途中でな。お前が何度も左へ回りたがったから分かった」


「最後は、俺が使うつもりだった場所を使われた」


「そこまで分かるなら、次は奪い返せ」


 ルークは胸当ての痛む場所を押さえながら頷いた。


 試合場を出ると、アレンが串の残りをセラへ預けていた。


「一本取れとは言ったけど、あそこから三手目へ行くとは思わなかった」


「届かなかった」


「ヴァルド相手なら十分だ。俺だって、まだ勝ったことはない」


「まだ、か」


「今日が最初になるかもしれない」


 アレンは笑い、試合場へ入った。


 歓声が一段高くなる。


 若くしてA級へ上がった剣士と、現役のS級。


 アレンは左腰から長剣を抜き、右手で握った。


「右で行くのか」


 ヴァルドが尋ねる。


「遠征で使えるようになった。試してくれ」


「後悔するなよ」


 開始の合図と同時に、アレンが踏み込んだ。


 砂が後ろへ弾け、剣がぶつかる音が広場の壁へ跳ね返った。


 一合目から、ルークとの試合とは速さが違う。


 アレンの長剣は、片手で振るには重い。それを右手だけで振り切り、受けられた反動を次の斬撃へつなげている。ヴァルドが右へ抜ければ、柄を左手へ渡して逆側から追い、剣を振り抜く前にまた右手へ戻した。


 持ち替えるたびに踏み込む足が変わり、斬撃の角度も入れ替わる。


 左右どちらが本来の利き手なのか、初めて見る者には分からないはずだった。


 ヴァルドは三度受け、四度目を避けた。


 空を切った長剣が砂の近くまで落ちる。普通なら持ち上げ直すまで攻撃が途切れる。アレンは落ちた勢いのまま手首を返し、下からヴァルドの脇腹を狙った。


 剣の軌道を途中で折るような一撃だった。


 ヴァルドが初めて大きく退く。


 切っ先が上着の前をかすめ、布の表面を浅く裂いた。


 広場が沸いた。


「よし!」


 誰かの声に、アレン自身も笑った。


 だが、足は止めていない。


 ヴァルドが体勢を整える前に、今度は左手で肩口へ斬り込む。受けられると同時に身体を寄せ、鍔元で相手の剣を押さえた。空いた右手が柄頭へ伸び、両手で一気に押し切ろうとする。


 ヴァルドは競り合わなかった。


 剣を押さえられたまま手首を返し、互いの鍔を噛み合わせる。アレンが力を込めた瞬間だけ腕を引くと、支えを失った長身がわずかに前へ傾いた。


 ヴァルドの膝が腹へ向かう。


 アレンは柄から右手を離し、掌で膝を受けた。衝撃に身体を浮かされながら、左手の剣を横へ払う。


 ヴァルドは首を反らして刃をかわした。


 二人の距離が離れる。


 そこまでに交わされた攻防を、見物人はどれほど追えただろう。遅れて上がる歓声の合間に、武器を持つ冒険者たちだけが息を詰めていた。


 アレンが剣を右手へ戻す。


 次の踏み込みは、先ほどまでより遅かった。


 疲れたわけではない。


 速さを見慣れた相手に、わざと遅い一撃を置いたのだ。


 ヴァルドの剣が受けに上がる寸前、アレンの腕から熱が立った。


 闘気が身体を巡り、長剣へ流れ込む。


 遅かった刃が、一息で加速した。


 正面から受ければ、並の盾ごと割られる。


 ヴァルドは剣を合わせなかった。アレンの踏み込みへ自分の足を差し入れ、肩で胸元を押す。


 力の行き先を失った身体が前へ流れた。


 アレンは倒れながら地面へ左手をつき、片足を振る。ヴァルドがそれを跳んで避ける間に立ち上がり、今度は剣を両手で握った。


 見物人が沸く。


「楽しそうですね」


 セラが言った。


「昔から、強い相手と戦うとああなる」


「ルークさんも同じ顔をしていましたよ」


「俺は笑っていない」


「自分では分からないんですね」


 試合場では、アレンが両手で長剣を構えている。


 ここまでのように、相手の位置へ合わせて持ち手を変えるつもりはないらしい。右足を踏み出し、上段から真っ直ぐ振り下ろした。


 速く、重い。


 ヴァルドは半身になってかわす。


 長剣が地面へ届く前に、アレンは腕だけで刃を止めた。身体を回し、横薙ぎへつなげる。ヴァルドが後ろへ跳び、着地する場所へ三撃目が追った。


 その切っ先から逃げながら、ヴァルドの剣が初めて淡い光を帯びる。


 闘気だった。


 アレンの三撃目を、正面から受ける。


 金属音が弾け、二人の足元から砂が円を描いて広がった。近くの見物人が顔をかばい、吊られていた七芒星の旗が一斉に揺れる。


 アレンの長剣が止まった。


 力で負けたのではない。受けられた瞬間、刃の向きをわずかに傾けられ、闘気の流れを剣の外へ逃がされていた。


 アレンはすぐに剣を引こうとした。


 ヴァルドはその動きに合わせて一歩入り、長剣の鍔を自分の柄で押し上げる。アレンの両腕が胸の前へ浮き、守りが開いた。


 剣先が胸当てへ止まる。


「そこまで!」


 アレンは数秒、剣先を見下ろしていた。


 やがて息を吐き、長剣を肩へ担ぐ。


「やっぱり遠いな」


「右は悪くない。持ち替えも、遠征で使えるところまでは来ている」


「左なら、もう一合いけた」


「次に試せ」


 二人が剣を下げると、広場を揺らすほどの拍手が起きた。


     ◇


 模擬戦はそこで終わると思われた。


 審判が前へ出ようとしたとき、ヴァルドが剣を下げたまま口を開く。


「もう一人いる」


 見物人のざわめきが広がった。


 ヴァルドは人垣の後ろへ目を向ける。


「ラウル」


 灰色の外套を着た男が、屋台の柱のそばに立っていた。喉元は、七本の細い溝が刻まれた黒い金具で留められている。


 いつからいたのか、ルークにも分からなかった。


 周囲の視線が一斉に集まる。それでもラウルの表情は変わらない。


「俺は見物に来ただけだ」


「剣は持っている」


「冒険者だからな」


「なら上がれ」


「C級を祭りの最後に出しても、盛り上がらないぞ」


 ヴァルドは少し間を置いた。


「三年の遠征で、何度もお前の判断を借りた。腕も見ておきたい」


 その説明で納得した者もいるらしい。


 竜を見つけた遠征に参加した冒険者なら、階級が低くても試す価値はある。周囲から、やってみろという声が上がり始めた。


 ラウルはヴァルドを見た。


 二人の間に、言葉のない時間が流れる。


 先に目をそらしたのはラウルだった。


「祭りの余興だからな」


「分かっている」


 ロープをくぐり、試合場へ入る。


 ラウルは外套の裾を腰帯へ挟んだ。開いた前から、フロンティアでよく見る革鎧がのぞく。腰から抜いた剣にも特徴はない。刃の幅も長さも、C級の剣士が使うものと変わらなかった。


 ルークは人垣の隙間から、ラウルの足元を見る。


 右足を半歩後ろへ引いている。


 前へ出るためではない。左右だけでなく、後ろへもすぐ動ける立ち方だった。


「始め!」


 ヴァルドが先に出た。


 速くはない。


 正面から剣を振り、ラウルが両手で受ける。金属音が一つ鳴り、ラウルの身体が半歩押された。


 押された先で、ラウルは右足を引いた。剣を受けた姿勢のまま力に耐え、それから遅れて足を動かしたように見える。


 不自然ではない。


 ただ、受ける寸前までラウルの足は止まっていた。どれほど押されるか、初めから知っていたようでもあった。


 二合目は肩への斬撃だった。


 ラウルは剣を立てて防ぎ、今度は一歩下がる。


 三合目を避ける際、足が砂へ取られたように体勢を崩した。


 見物人から笑いが漏れる。


 ルークは笑えなかった。


 遠征中のラウルは、崩れた斜面でも足を滑らせなかった。夜の森で薄影豹に襲われたときも、足場を確かめるより先に安定した場所へ立っていた。


 今の砂は固く、深さも均一だ。


 滑る理由がない。


 ヴァルドも同じ場所を見たらしい。


 追撃せず、剣を中段へ戻した。


 ラウルはよろめいた身体を立て直し、わずかに息を吐いた。握り直した指の動きには、焦りらしい硬さがある。だが、呼吸の間隔は試合前から変わっていない。


 ヴァルドの四合目が来た。


 ラウルは受け損ね、剣の腹で肩を打たれた。片膝をつき、すぐに立ち上がる。


 歓声が上がる。


 C級がS級の攻撃に耐えている。それだけで、観客には十分な見世物になっていた。


 しかしヴァルドの顔から、先ほどまでのわずかな笑みが消えている。


 五合目は突きだった。


 ラウルは剣の腹で横へ流し、反撃に出る。ヴァルドの胸を狙った切っ先は浅く、踏み込みも半歩足りない。遠征へ加わったC級なら、試す価値のない攻撃だ。


 ヴァルドがその剣を受けた。


 弾かず、鍔元で押さえ込む。


 ラウルの剣が動かなくなった。引けばヴァルドの刃が喉へ届き、押せば身体ごと崩される。見物人にも窮地が分かったのか、どよめきが広がる。


 ラウルは柄から左手を離し、ヴァルドの手首をつかもうとした。


 ヴァルドが剣を引く。


 解放されたラウルは二歩下がった。


 逃げ方まで、C級の剣士として正しかった。


 力で振りほどけないなら、片手を捨てて別の手を試す。相手が離れたら、深追いせずに間合いを戻す。そのどれも、ギルドの訓練所で教えられる動きだった。


 だからこそ、ルークには引っかかった。


 ラウルは片手を離す前、ヴァルドの左足を見ていた。


 そこを蹴れば、もっと簡単に拘束を外せたはずだ。ルークに見えるものが、ラウルに見えていないとは思えない。


 ヴァルドが六合目を仕掛ける。


 剣先を肩へ向け、途中で腿へ落とした。ラウルが下段へ剣を回すと、ヴァルドは攻撃を止めて頭上へ振り上げる。


 三つの軌道が、ほとんど間を置かずにつながった。


 ラウルは最初の二つを防ぎ、最後だけ横へ転がって避ける。長剣が砂を叩き、細かな粒が外套へ降りかかった。


 立ち上がるまでの時間も、ぎりぎりだった。


 遅ければ追撃を受ける。早ければ余裕があると知られる。その境目を、ラウルは一度も外していない。


「なんだ、あいつ」


 近くで見ていたB級の槍使いが、小さく呟いた。


「弱いのか、しぶといのか分からん」


 見物人は笑ったが、アレンは剣の柄から手を離さなかった。


 ヴァルドが攻撃の間隔を変えた。


 早い斬撃を二度続けたあと、三度目を振らずに待つ。


 ラウルも動かない。


 誘われていると気づけば、C級でも止まれる。ヴァルドが確かめたいのは、そこではないらしい。


 剣先を下げ、自分の左肩をわずかに空けた。


 見過ごせない隙だった。


 ラウルが踏み込む。


 正面から肩を狙った剣は、半ばで向きを変えた。刃を返してヴァルドの手首へ走る。


 それまでに見せた攻撃より、わずかに速い。


 ヴァルドが手首を引くと、ラウルは追わなかった。外した剣を大きく泳がせ、失敗を取り繕うように後ろへ下がる。


 一瞬の速さに気づいた者が、どれほどいるだろう。


 ヴァルドは見逃さなかった。


 七合目で、大きく踏み込んだ。


 剣がラウルの脇腹へ向かう。


 ラウルは後ろへ跳び、切っ先を外套の内側へ滑らせた。反撃に見えたが、ヴァルドは身体をひねるだけでかわす。


 そのままヴァルドの剣が下から返る。


 ラウルは外套を翻して身を引いた。刃が裾をかすめ、腰帯へ挟んでいた布が外れる。


 灰色の外套が元の長さへ戻った。


 二人の距離が開いた。


 ヴァルドは追わなかった。


 長剣を一度振り、刃についた糸くずを落とす。その短い間にも、ラウルは呼吸を整えるふりをしていた。肩を上下させ、剣先をわずかに揺らしている。


 先ほどのアレンは、十数合を打ち合ったあとに本当に息を乱していた。


 ラウルの額には、汗すら浮かんでいない。


「続けるか」


 ヴァルドが尋ねた。


「審判が止めるまではな」


「そうか」


 次の一歩で、ヴァルドの剣速が上がった。


 首、胴、腿。


 一つの斬撃を受け終える前に、次の刃が別の場所へ迫る。ラウルは剣を左右へ回し、受けるたびに後退した。刃が重なる金属音だけが、ほとんど一つにつながって聞こえる。


 試合場の端まで、あと三歩。


 ラウルが左へ逃れる。


 ヴァルドは追わず、正面から剣を突き出した。


 届かないはずの距離だった。


 ラウルはそれでも身体を反らし、切っ先を避ける。革鎧の表面に細い跡が残った。


 ヴァルドが深く踏み込んでいれば、届いていた。けれど足は手前で止まっている。


 今の攻撃は、ラウルが距離を見誤るかどうかを試したのだ。


 ラウルは罠へかからなかった。


 代わりに、自分からヴァルドへ斬り込んだ。追い詰められ、逃げ道を作ろうとした一撃に見える。


 ヴァルドは剣を横へ払う。


 ラウルの手から剣が離れ、砂の上を滑った。


 見物人から声が上がる。


 それでもラウルは慌てなかった。落ちた剣へ飛びつかず、両手を上げながら後ろへ下がる。


 降参するのか。


 審判が動きかける。


 ラウルの踵が、砂に埋もれていた剣の柄へ触れた。


 足先で柄を跳ね上げ、宙へ浮いた剣を右手でつかむ。


 拾い方だけなら、酒場の芸にも見えた。広場から拍手と笑いが起きる。


 ルークは、ラウルの手ではなくヴァルドを見ていた。


 剣を弾き飛ばしたとき、ヴァルドは追撃できた。拾い直した今も、ラウルの胸元は空いている。


 それでも攻めない。


 互いに何かを待っている。


 歓声が止み始めた。


 何かが変わった。


 ヴァルドは同じように剣を下げている。立つ位置も、呼吸も変わらない。


 それでも、試合場の近くにいた冒険者たちが黙った。


 アレンが、右手を剣の柄へ置く。


「おい」


 審判がヴァルドへ声をかけた。


 返事はなかった。


 ルークはラウルを見た。


 後ろへ引いていた右足の踵が、わずかに浮く。


 まだヴァルドは動いていない。


 肩も、腰も、剣先も止まっている。


 そのはずなのに、ラウルの重心だけが右へ移った。


 次の瞬間、ヴァルドの姿が消えた。


 知覚が引き伸ばされる。


 観客の声が遠のき、舞い上がった砂が空中へ止まる。


 ヴァルドの左足が地面を捉え、膝が前へ出る。腰の回転が肩へ伝わり、下げていた剣が斜めに走る。


 狙いは、ラウルの首だった。


 止める軌道ではない。


 ラウルの右足は、すでに剣の届く線から外れている。


 避けられる。


 そう見えた。


 ところがラウルは、すぐには身体を逃がさなかった。


 腰を遅れて回し、肩だけを剣の近くへ残す。


 ヴァルドの刃が、灰色の外套を裂いた。


 布が宙へ散る。


 ラウルは大きく体勢を崩し、砂の上を転がった。


 誰かが悲鳴を上げる。


 時間が元へ戻った。


 アレンと審判が同時に試合場へ踏み込もうとする。


 その前で、ラウルが片膝をついた。


「降参する」


 声は乱れていなかった。


 裂けたのは外套だけで、肩に血はない。


 ヴァルドは剣を振り抜いた姿勢のまま、ラウルを見ている。


 広場へ安堵の息が広がった。遅れて、まばらな拍手が起きる。


「運がよかったな」


「今のを避けたのか」


「S級も、さすがに寸前で止めたんだろう」


 周囲の声が耳へ入る。


 違う。


 ヴァルドは止めていない。


 ラウルも、辛うじて避けたのではない。


 剣が動く前から、安全な場所を選んでいた。それを隠すために逃げる動きを遅らせ、外套だけを斬らせた。


 ヴァルドが剣を収めた。


「……悪かった」


 ラウルへ向けた声だった。


 続いて、審判と見物人へ顔を向ける。


「俺の行き過ぎだ。今日の試合は、ここまでにしてくれ」


 広場が静まる。


 ヴァルドはもう一度ラウルを見た。


「少し、頭を冷やしてくる」


 そう言い残し、ロープの外へ出る。


 英雄を呼び止める者はいなかった。


 ルークの前を通り過ぎたところで、ヴァルドの足が止まる。


「来い」


 短く言われ、ルークはあとを追った。


 広場の裏手へ回ると、歓声とざわめきが建物に遮られた。積み上げられた木箱の向こうには誰もいない。


 ヴァルドが振り返る。


「今の回避、お前にはどう見えた」


 ルークは、空中へ止まって見えた砂と、剣が走るより先に動いた右足を思い返した。


「剣が動く前には、もう避ける場所にいた」


 ヴァルドは黙って聞いている。


「早く避ければ、誰にでも分かる。だから動くのを遅らせて、外套だけ斬らせた」


「そうか」


 それだけだった。


「ラウルが何者か、知っているのか」


「知らない」


「だから殺すつもりで斬ったのか」


 ヴァルドの目がわずかに細くなる。


「確かめたかった。やり方を間違えた」


 言い訳はしなかった。


「三年、一緒にいたんだろ」


「何度も助けられた。だからこそ、知らないままにはしておけないと思った」


 広場の方から、模擬戦の終了を告げる声が聞こえた。


 ヴァルドは一度そちらを見てから、歩き出す。


「少し歩いてくる。アレンには先に戻れと伝えてくれ」


「ラウルを追うのか」


「今の俺が行けば、また間違える」


 ヴァルドはそれ以上答えず、人の少ない北通りへ消えていった。


 ルークが試合場へ戻ると、破れた外套の切れ端だけが砂の上へ残されていた。


 ラウルの姿は、もうどこにもなかった。



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