第十話 モノ
サンが目を覚ましたのは十分後であった。
彼女は覚醒するや否や部屋の中を走り回り、何やらぶつぶつと呪文を唱えたあと元の位置まで戻ってきて、もう一度リュックの中を覗き込んだ。
「・・・・・・無い」
そしてもう一度気を失った。
今度は泡も吹いていた。
彼女が再度目覚めたのはそれから更に十分後であった。
「やめなさい、サン」
再び走り回ろうとするサンを、エリーは羽交い締めにした。
サンはその中で藻掻く。
いま彼女に冷静な思考は無く、ただ本能の向くままに暴れるケダモノに豹変していた。
目は焦点が合っておらず、口は半開きのままである。
「ベルさんでしたっけ。貴方も手伝ってください」
「え・・・・・・あ、はい」
サンの柔らかな手脚はバタバタと音を立てて空を裂いている。
ベルはサンの暴れる脚を掴み取ろうとしたが、なかなか上手くいかない。
「あれっ、あれっ」
「落ち着いて」
彼女のか細い手が次々と宙を掴む。
サンのたくましい脚が宙を舞う。
「よし!捕まえ──」
ベルはサンの右脚を掴むことに成功した。
が、左脚は頬でキャッチする他なかったようだ。
「痛っ!」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないですよ!」
左頬の赤みは顔全体へと広がっていき、激しい怒りの表情を表した。
ベルはひりひりと痛む頬を押さえながら、涙目でサンの近くから離れた。
「やはり悪魔だ!こいつらは悪魔に決まって──」
「サン?」
しかし、ベルの身を挺した制圧は事態を鎮静したようだ。
サンは人の顔を蹴った事で落ち着きを取り戻し、目を瞬かせて辺りをキョロキョロと見回した。
まるで悪魔憑きが悪魔から解放されたかのようである。
エリーは即座にサンをその場に正座させ、自分も同じように座って彼女と向かい合った。
そして一度咳払いをする。
例の狂乱的循環から脱出したサンは、未だ感情の籠もっていない目でエリーを見上げていた。
「サン。落ち着いて聞くのよ」
エリーはその整った顔面を顰め、口を開けたり閉じたりしながら、心の中の言葉を吟味していた。
サンは黙って彼女を見ている。
「・・・・・・昔好きだったクマのぬいぐるみの話をしましょう」
「え?」
「小さい頃の私は来る日も来る日もその子と遊んでいたわ。すごく可愛くて、すごくいい匂いがしたのよ」
エリーはベルを置き去りにしながら、昔話を始めた。
「・・・・・・あのね、サン。信じられないかもしれないけど、大事なものって、無くなっちゃっても生きていけるの。だって、いま私はこんなに元気だし、時々モノの事を思い出して心が暖かくなるの。それって凄く幸せな事なのよ・・・・・・」
エリーは早口に捲し立てた。
モノとは、彼女の愛していたクマのぬいぐるみの名前である。
首に綺麗な鈴がついており、茶色い身体とつぶらな瞳のクマであった。
モノがこの世から消えたのは約十年前である。
エリーはその日もモノと出かけていた。
事件が起こったのは、高級中華料理店で昼食を済ませた後の事であった。
エリーは小さい腕にモノを抱え込み、ガラス張りの店内を歩いていた。
幼かった彼女は、会計をする母親のもとを離れ、入口付近の小さなテーブルにモノを置き、二人で会話を始めた。
「今日のフカヒレは微妙だったわ」
『そうかな?僕は美味しかったけど』
「あれは駄目よ。二週間前の時の方が遥かにマシだったわ」
という謎の会話が交わされたのであったが、重要なのはその次の瞬間であった。
新たな客が来店し、大きな扉が開いた。
入口付近に居たエリーは驚いて飛び退き、モノの座っている小さなテーブルに体をぶつけてしまった。
テーブルは大きく倒れ、地に落ちたモノは来店客の股の間を潜り抜けて外へと飛び出し、そのまま、道路の上に投げ出された。
車が往来する冷たい道の上に、彼は横たわっていた。
「モノ!」
慌てて走り出すエリーを来店客が止めた。
疾走する車の集団が、モノの身体を次々と掠めていく。
「モノ!モノ!」
彼女が三度叫んだ瞬間、物凄いスピードの車がモノを轢いた。
「・・・・・・」
そこから先の記憶を、エリーは持っていなかった。
「何が言いたいのって感じよね。ごめんなさい。私はただ、アンタに元気になって欲しいだけだったのよ。そんな暗い顔をしてるのは、サンじゃないわ」
エリーは続けた。
「それに、"偏見発見装置"は無くなっちゃったって決まったわけじゃないわ。まだハーバードにあるかもしれないし、誰かが警察に届けてくれてるかも──」
「"偏見発見装置"が無くなった?」
エリーは遂に、"偏見発見装置"の喪失を口にしてしまった。
「エリ姉、いまなんて──」
「違うのよサン。まだ希望はあるわ。いまから大学へ戻りましょう。駄目だったら警察に行きましょう」
「"偏見発見装置"が、無くなった・・・・・・?」
「サン。落ち着いて。気を確かにするのよ。貴方は強い子よ。強い子。いいわね」
エリーはサンを抱きしめて、優しく、何度も背中を擦った。
まるで聖母のような彼女の振る舞いは、いつもの傲慢な態度からは見ることのできない希少な姿であった。
サンはエリーの腕の中で、涙を流すこともなく、虚空を見つめていた。
ベルは・・・・・・棒立ちしていた。




