62.彼らのマリー ★
何もなかったかのように、しかし少し機嫌良く書類仕事に戻ったオーギュストを、デジレはぼんやりと眺める。そして、はっと思い出した。
「殿下……もう一つお詫びしなければいけないことが」
「ん? どうせたいしたことないんだろう」
「私にだけ秘密だと教えてもらった、殿下が好きな相手、気付かれてしまいました」
オーギュストが顔を上げた。驚いた顔をする彼に、デジレは申し訳なくて項垂れる。
折角信頼して秘密を打ち明けてくれたのに、それを裏切るかたちになってしまった。デジレはそんな自分が許し難かった。
「ふうん。まあ、噂もあるからな、そうたいしたことにはならないだろうが。誰に気付かれたんだ?」
デジレの想定外にあっさりとした口調でオーギュストは言いながら、執務の手を止めない。
デジレは断罪される罪人のように俯いて、はっきりと言った。
「マリーに、気付かれました」
「……は?」
ほんのしばらくオーギュストが黙ったと思うと、乱暴に席を立つ音がした。性急に足を動かす音が聞こえ、デジレの前で止まった。
「マリーに、ばれただと」
怒りを抑えている声に、デジレがますます身体を硬くする。
オーギュストが彼を無理矢理立たせた。デジレの目の前に、目をきつく眇めた主人の顔がある。
「何をしているんだ! デジレ!」
「も、申し訳ございません」
「嘘が下手なデジレが隠しきれるとは思わなかったが! よりによって本人にばらすな!」
胸ぐらを掴みそうな勢いで、オーギュストが詰め寄る。しかし、デジレはきょとんとした。
「え、本人には、ばらしていませんが?」
「何をとぼけたことを、マリーに気付かれたと言っていただろう!」
「はい、マリーに気付かれたと言いました」
「だからマリーに……」
ふと、オーギュストは怒気を抑えた。
デジレは不思議そうに彼のアメジストの瞳をじっと見る。長年の付き合いで、嘘は言っていないことはすぐに気付くだろう。
実際、オーギュストの瞳から怒りが消え、戸惑いが生まれた。
「……マリーは、マリーローズだろう」
「え、いえ。私が言っているのはマリー・スリーズです」
「何?」
オーギュストが唖然として、ふらりとデジレから距離を取る。デジレは首をひねった。
「お前、いつの間に……。マリーローズのことを、マリーと呼んでいただろう」
「あ、そうですね。二人ともマリーと呼ぶとややこしいですね」
今気付いたというような反応をしたデジレは、腕を組んで考え始めた。そんな彼の様子を抜けた顔で眺めていたオーギュストは、無意識にごくりと喉を鳴らした。
「……まあ、スリーズ嬢に気付かれたならさほど問題ないか。口止めはしたんだろうな」
「はい、もちろん。軽く気付かれてしまった私が言うのもおかしいですが、彼女なら秘密を漏らさないかと」
「全くだ。どうせ噂になっているために彼女に聞かれて、お前が動揺して気付かれたんだろうが」
「……よく、おわかりで」
見事に秘密を悟られた経緯を当てられ、隠しきれると思っていなかったとまで言われたと思い出せば、デジレは深く落ち込んだ。
こういう結果になってしまったが、これでもデジレはずっとオーギュストの秘密を守ってきて、多少話題として触れられても何も知らないと流してきた。そもそも話題に深入りすることは滅多になかった。
マリーといた時は、気が緩んでいたのかもしれない。言い訳なので、デジレは心の中に留めた。
「近頃、三人で会っていないな。マリー、もちろんマリーローズの方だが、特に会っていない。今度久し振りに場を設けるか」
オーギュストが、呟きにしては小さくない声でぽつりと言う。簡単な提案であるのに、デジレには彼が大事に挑むような真剣さを感じた。
デジレがとりあえず頷くと、すっかり元の様子に戻ったオーギュストがアメジストの目を向けてくる。
「そうだ、ここ最近雰囲気が違うなと思えば、香水を変えたのか。いつも、あのすっとするレモンのような香りを付けていただろう」
「ああ……、そうですね」
なんとなく、デジレは腕を鼻に近付ける。
いつものシトラスではなく、ハーブを合わせた渋みがある、しっとりした雰囲気の香りがする。よく世間の男性たちが好んで纏っている香りだ。
しかし、デジレには落ち着かない香りだった。ここ最近付けてみても、どうも慣れない。落ち着いた大人の雰囲気を醸し出すはずなのに、使用者の本人がこれでは意味がない。
そう思うと、シトラスの香りについていきなり叫んで邸に逃げ込んでしまった、マリーの姿が脳裏によぎる。
「……嫌いではない、とは、どういう意味なのでしょうか」
「香水について言われたか? 嫌いでない、なら好きに近いだろう。好かれている順に、好き、嫌いでない、好きでない、嫌いだ」
「好きに近い……」
果たして、あのマリーの行動はそういう意味があったのだろうか、とデジレは首を傾げる。シトラスの香りのハンドクリームを気にしていたのだから、香り自体は好きなようだった。ただ、デジレの纏うシトラスの香りについてはじめて触れたかと思えば、あの反応だった。
難しい顔をして悩み始めたデジレを、オーギュストは笑う。
「なんだ、くちびるの君にそう言われたのか? で、今日も会いに行くって?」
「いえ、会いませんよ。ここ最近は会っていません」
「それならその香水、今付ける必要ないだろう。彼女が前の香りが嫌なのかと思うなら、会う時にだけ変えれば良いことで、会わない時まで変える必要はない」
オーギュストの言うことはその通りで、デジレはまた今の香りを嗅ぎ直す。やはり慣れない香水は、自分が自分でないように思える。
この香りは嫌いではない、とデジレは思う。しかし、いつものシトラスの香りの方が好きだ。ただ今は、自分の好みだけでなく、それを感じる相手のことも気になってしまう。
近々の夜会に復帰する時、どうするか。またデジレは考え込んだ。
 




