第67話 閑話・エルナの餞別
出発の朝、まだ日が完全に昇りきらない時刻。
エルナの研究室には、煌々と灯りが灯っていた。徹夜明けらしい目の下の隈を隠すこともなく、エルナは机に向かい、最後の仕上げに没頭していた。
研究室の中は、いつも通り、様々な資料と道具で溢れかえっている。魔導連邦から持ち込んだ観測機材、これまでの実験記録、そして書きかけの論文――その中心で、エルナは一心不乱に、小さな装置と向き合っていた。
「あと少し……あと少しなのよ」
誰へともなく呟きながら、エルナは小さな魔道具の最終調整を続けていた。手のひらに収まるほどの大きさの、精巧な作りの装置。表面には、彼女自身が刻んだ細かな魔法陣が、淡い光を放っている。
扉が開き、クロエが顔を覗かせた。
「エルナ、まだやっていたの」
「もちろん。出発は今日なのよ。間に合わせないと」
クロエは呆れたように息を吐きながらも、その表情には、隠しきれない気遣いが滲んでいた。徹夜が続けば、エルナの体調に響くことを、クロエは誰よりもよく知っていた。二人で夜通し作業を続けた第41話の頃を思い出しながら、クロエは静かに歩み寄った。
「せめて、水分だけでも取って」
差し出されたカップを、エルナは片手で受け取りながら、もう片方の手は装置から離さなかった。
「見て、これ」
エルナは満足げに、完成した魔道具をクロエに差し出した。窓から差し込む朝日が、精巧な魔法陣を淡く照らし出していた。
「携行型の観測魔道具よ。大気中の魔力濃度、地脈の乱れ、そして――ある程度の距離までなら、聖剣の共鳴反応も感知できるように改良したの」
クロエは魔道具を手に取り、その精巧な作りに、思わず感嘆の声を漏らした。表面に刻まれた魔法陣は、細部まで緻密に描き込まれており、素人目にもその技術の高さが窺えた。
「これ、たった数日で作ったの?」
「まあ、ベースは前から研究してたものだけどね。でも、遠征隊が現地でどんな異常に遭遇するか分からない以上、できる限りの手を打っておきたかったの」
エルナの声には、研究者としての誇りと同時に、隠しきれない不安が滲んでいた。自分が同行できない遠征だからこそ、せめてこの魔道具が、皆の役に立ってほしいという想いが、その一つひとつの魔法陣に込められていた。
「私も、同行できればよかったのだけれど」
クロエが、ふとこぼすように呟いた。窓の外を見つめるその横顔には、研究者としての探究心と、遠征隊への羨望にも似た想いが、静かに滲んでいた。
「後方支援も大事な役目よ。それに、今回はあなたの解析能力が必要だもの」
「分かってる。それでも、少し」
クロエは言葉を濁した。研究者として、未知の遺跡や現象を、自分の目で直接確かめたいという欲求は、決して小さなものではなかった。これまで、遠くから届くデータをもとに解析を重ねてきたが、実際にその場に立って自分の目で確かめることの重みは、また別のものだとクロエは感じていた。
「もし機会があれば、次の遠征では、私が現地に赴く番かもしれないわね」
その言葉に、エルナは小さく笑った。
「その時は、私が後方に残ることになるのね」
「そうなるかもしれないわ」
二人は、そんな未来の可能性を、まるで当たり前のことのように語り合った。この街の仲間として、いつかそれぞれが違う形で大陸の未来に関わっていくことを、二人はごく自然に受け入れていた。
二人の間に、これから先の可能性を、静かに、しかし確かに見据える空気が流れていた。研究室の窓から差し込む朝日が、少しずつ強さを増していく。出発の時が、確実に近づいていた。
朝日が昇り始めた頃、遠征隊のメンバーたちが、出発の準備を整えるべく、街の広場に集まり始めていた。
旅装に身を包んだ面々の姿に、見送りに集まった街の人々からも、静かな注目が集まっていた。これから始まる遠征が、この街にとってどれほど重要なものか、多くの人々が、それぞれの形で理解し始めていた。
レイン、カイ、ガルド、リリア、ノア、アルドリッジ――そして、前日到着したばかりの魔導連邦の観測技師も、緊張した面持ちでその輪に加わっていた。
エルナは、完成したばかりの魔道具を手に、その場へと駆けつけた。
「待って! これを持っていって!」
息を切らしながら、エルナはレインに魔道具を差し出した。
「これは」
「携行型の観測魔道具よ。異変の兆候を、事前に察知できるようになってる。それに、緊急時には、こちらへの信号を送ることもできるわ」
レインは、丁寧な手つきでその魔道具を受け取った。手のひらに伝わるその重みに、エルナの想いの深さが、静かに込められているように感じられた。
「徹夜で作ったのか」
「そんなの、聞かないでよ」
エルナは目を逸らしながら答えたが、その頬には、隠しきれない疲労と、同時に確かな達成感が浮かんでいた。徹夜明けの体は重かったが、この魔道具が仲間たちの役に立つという確信が、その疲れを上回る力を、エルナに与えていた。
「使い方は、ここのボタンを押せば」
エルナが説明を始めると、遠征隊の面々が、興味深そうに周りに集まってきた。朝の光の中、小さな魔道具を囲む人々の輪が、静かに広がっていく。
「大気中の魔力濃度に異常があれば、こう光る。そして、もし本当に危険な状況になれば、こっちの赤い光が点滅する。その場合は、迷わず撤退を検討して」
「分かりました」
カイが真剣な表情で頷いた。エルナの説明は、これまでの研究の集大成であると同時に、遠征隊への確かな気遣いに満ちていた。
リリアもまた、丁寧にその使い方をノートに書き留めていた。医療班として、こうした緊急時の判断材料は、彼女にとっても重要な情報だった。
「ありがとうございます、エルナさん。とても心強いです」
「別に、当たり前のことをしただけよ」
エルナは照れたように視線を逸らしたが、その口元には、隠しきれない満足げな笑みが浮かんでいた。
アルドリッジもまた、興味深そうに魔道具を覗き込んでいた。
「素晴らしい技術ですね。帝国の魔導技師たちにも、ぜひ見せたいものです」
アルドリッジの丁寧な口調には、純粋な技術への敬意が滲んでいた。
「別に、見せてもいいけど。ちゃんと敬意を払ってくれるならね」
エルナの少し刺々しい返答に、アルドリッジは苦笑した。過去に成果を横取りされ続けてきた彼女の警戒心が、こうした何気ないやり取りにも、静かに滲んでいた。それでも、その警戒の奥には、対等な関係を望む、確かな誠実さがあった。
「もちろんです。技術というものは、正当な敬意の上に成り立つべきだと、私も考えています」
アルドリッジの真摯な返答に、エルナは少し驚いたように目を瞬かせた。帝国の文官という立場から、そうした言葉が返ってくるとは、あまり想像していなかったのだろう。その意外な誠実さに、エルナの警戒心も、わずかに和らいでいくようだった。
一通りの説明を終え、遠征隊のメンバーがそれぞれの最終準備に散っていく中、エルナはレインを、少し離れた場所へと呼び寄せた。周囲の喧騒から少し離れた木陰に、二人だけの静かな時間が生まれた。
「レイン」
「なんだ」
エルナの表情が、それまでの快活さから一転、真剣なものへと変わった。
「無理はしないで」
「分かっている」
「分かってない」
エルナは、いつになく強い口調で遮った。
「あなた、いつもそう言って、結局無理をするじゃない。この前だって、限界まで神眼鑑定を使って、鼻血流して倒れたじゃない」
その言葉に、レインは静かに口をつぐんだ。あの夜の記憶は、レイン自身にとっても、まだ鮮明に残っている。鼻血を流しながら崩れ落ちた自分を、エルナが真っ先に駆けつけて診てくれたことも、忘れてはいなかった。
「今回は、もっと危険な場所に向かうのよ。遺跡が、どんな脅威を隠しているかも分からない。もし、あなたにもしものことがあったら」
エルナの声が、わずかに震えた。研究者としての冷静さの奥に、それまで隠していた素直な心配が、静かに滲み出ていた。周囲の喧騒が遠くに感じられるほど、その瞬間の二人の間には、確かな緊張感が漂っていた。
「今度倒れたら、承知しないから」
その一言には、エルナなりの、精一杯の激励と愛情が込められていた。飾らない、不器用な言葉ではあったが、その真剣さは、誰の目にも明らかだった。
その真剣な物言いに、レインは思わず、小さく笑ってしまった。
「なんで笑うのよ」
「いや、すまない。お前がそこまで、はっきり言ってくれるとは思わなかった」
朝の澄んだ空気の中、二人の間に流れる時間は、これまでのどんな会話よりも、静かで確かなものだった。
「当たり前でしょう。あなたが倒れたら、この街がどうなると思ってるの。ミーナも、セリアも、皆、あなたを頼りにしているのよ」
エルナの言葉には、単なる心配以上の、確かな信頼が込められていた。研究者として、そして仲間として、この街を支える一人として、レインという存在の重みを、エルナは誰よりも理解していた。かつて魔導連邦で不遇な扱いを受け続けていた自分を、対等な立場でスカウトしてくれたレインへの恩義もまた、その言葉の奥には静かに息づいていた。
「約束する。今回は、無茶はしない。神眼鑑定も、必要な場面以外では、極力控える」
「本当ね」
「ああ」
レインの真摯な返答に、エルナはようやく、少し表情を和らげた。窓から差し込む朝日が、二人の間に、柔らかな光を落としていた。
「その魔道具、ちゃんと使ってよね。私の徹夜を無駄にしないで」
「もちろんだ。ありがとう、エルナ」
その言葉に、エルナは少し照れくさそうに顔を背けた。
「別に、お礼なんて。私は、私にできることをしただけよ」
そう言いながらも、その表情には、確かな安堵と、隠しきれない誇らしさが浮かんでいた。研究者として、そして仲間として、自分にできる精一杯のことを、この朝、エルナは成し遂げていた。
広場に集まった遠征隊の面々の準備が、少しずつ整っていく。ミーナが最終的な物資の確認を終え、セリアが各国への最後の連絡事項を確認している。ヴァルドが、留守を預かる者としての心構えを、静かにレインに伝えていた。
ミーナは、荷馬車に積まれた物資を一つひとつ確認しながら、時折、遠征隊のメンバーたちに声をかけていた。
「水は多めに積んであるから、道中で困ることはないはずよ」
「ありがとうございます、ミーナさん」
リリアの丁寧な返答に、ミーナは小さく微笑んだ。この数週間、それぞれの持ち場で積み重ねてきた準備が、今ようやく、確かな形となって結実しようとしていた。
クロエもまた、エルナの隣に並び、遠征隊を見送る準備をしていた。
「これで、いよいよ出発ね」
クロエの呟きに、エルナは静かに頷いた。朝の光が、二人の横顔を穏やかに照らしていた。
「ええ。私たちは、ここから支える番よ」
二人の視線は、遠征隊の背中を追いながらも、どこかその先――大陸中央部に横たわるという、まだ誰も見たことのない遺跡へと向けられていた。研究者として、いつかその真実を自分たちの目で確かめる日が来ることを、二人は静かに願っていた。
二人は、街の門へと向かう遠征隊の背中を、静かに見つめていた。カイの聖剣が、朝日を受けて淡く輝いている。ガルドの頼もしい後ろ姿、リリアの穏やかな佇まい、そしてレインの、静かながらも確かな決意を宿した歩み――それぞれが、この街の想いを背負い、大陸中央部という未知の地へと、確かな一歩を踏み出そうとしていた。
ノアとアルドリッジ、そして魔導連邦の観測技師も、それぞれの国の代表として、この隊列に加わっている。四つの国から集まった者たちが、一つの目的のために、こうして肩を並べて歩んでいく光景は、これまでのアーレントの歴史の中でも、初めて目にするものだった。種族も、立場も、これまで歩んできた道のりも異なる者たちが、一つの隊列としてまとまっていく様子に、見送る人々の間にも、静かな期待の色が広がっていた。
エルナは、徹夜で作り上げた魔道具が、遠征隊の誰かの手に握られている光景を見つめながら、静かに胸の内で祈った。どうか、無事に、皆が帰ってきますように――その願いは、言葉にすることのないまま、朝の澄んだ空気の中に、静かに溶けていった。研究室に戻れば、また今日から、遠征隊を支えるための日々が始まる。エルナはそう心に決めながら、遠ざかっていく隊列の背中を、いつまでも見送り続けていた。




