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追放された鑑定士ですが、本当の能力は"未来の価値"が見えることでした。王国が滅びてももう遅いので、辺境で商会を作ります  作者: まつたけひめ
第4章

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第58話 閑話・ミーナの決算報告

 夜も更けた未来商会の帳場に、灯りが一つだけ灯っていた。


 ミーナは山のように積まれた帳簿と伝票を前に、算盤を弾く手を止めることなく動かし続けていた。難民の受け入れが本格化してから、物資の出入りは以前の比ではないほど激しくなっている。食料の調達量、仮設住居の資材費、雇用先の割り振り――すべてを正確に把握し、帝国との緊張が続く中でも商会の経営基盤を揺るがせないようにする。それが、今のミーナに課せられた役目だった。


 「……あと少し」


 誰へともなく呟き、ミーナは伝票の束をめくる。窓の外はとうに暗くなり、街の喧騒も静まりつつあった。それでも、帳場の灯りだけは、まだしばらく消えそうになかった。難民受け入れの拡大に伴い、これまで以上に細かな計算が必要になっている。少しでも見落としがあれば、翌日の物資配分に響きかねない。


 狐の耳が、疲れを訴えるように小さく垂れる。それでもミーナは、手元の作業を止めなかった。数字と向き合っている間だけは、余計なことを考えずに済む。それが、いつしかミーナにとっての、ある種の逃げ場のようなものになっていた。


 鉱業部から届いた採掘量の報告、流通部が管理する交易路ごとの物資移動記録、そして日に日に増えていく難民受け入れのための支出――それぞれの帳票を照らし合わせながら、ミーナは頭の中で全体の資金の流れを組み立て直していく。以前であれば、こうした作業も苦にならなかった。むしろ、数字が思い通りに動いていく様を見るのが好きだった。だが最近は、帳簿を開くたびに、どこか息が詰まるような感覚がつきまとうようになっていた。


 窓辺に置かれたランプの灯りが、揺れる度に帳簿の紙面に影を落とす。書き込まれた数字の列は、単なる記録ではなく、この街に生きる一人ひとりの生活そのものを映し出す鏡のようなものだった。米俵一つ、薬草一束、住居一棟――そのすべてが、誰かの明日に直結している。その重みを、ミーナは誰よりもよく理解していた。





 かつて奴隷市で売られていた頃、ミーナは自分の未来など、考えたこともなかった。ただ、その日その日を生き延びることだけを考えていた日々。誰かに「お前には商才がある」などと言われても、鼻で笑って終わりだっただろう。


 それが今、こうして一国の経済を支える立場にいる。都市国家アーレントの物流、鉱業、農業、銀行――その根幹を担う未来商会の実務を、事実上一人で背負っている。誇らしいという気持ちがないわけではなかった。だが同時に、その重みが、日を追うごとに肩にのしかかってくるのも事実だった。


 難民の数は増える一方だ。帝国との緊張は緩む気配を見せない。世界崩壊現象という、得体の知れない脅威も迫っている。そのすべての土台となる経済基盤を、自分が支え続けなければならない――そう思うと、算盤を弾く指先が、ふと止まってしまう瞬間があった。


 商会がまだ小さかった頃は、失敗しても取り返しがついた。蹄鉄の即興商売、フィルネ草の買い付け、廃坑の採掘権交渉――一つひとつの判断が、良くも悪くも自分たちの経験として積み重なっていった。だが今は違う。ミーナの判断一つが、何百人もの暮らしに直結する。街の規模が大きくなればなるほど、その重みは加速度的に増していくように感じられた。


 特にこの数週間は、帝国との緊張という新たな不確定要素が加わり、これまでの経験則だけでは判断がつかない場面が増えていた。物流のどの部分を優先的に確保すべきか、いざという時のための備蓄をどこまで積み増すべきか――そのどれもが、正解のない問いだった。誰かに答えを求めたくても、この街で経済の全体を見渡せる立場にあるのは、結局のところミーナ自身しかいない。その孤独感が、静かに胸を締め付けていた。


 「大丈夫。今までも、乗り越えてきたじゃない」


 自分自身に言い聞かせるように呟き、ミーナは再びペンを取る。だが、その声は、いつもより少しだけ小さく、頼りなかった。





 扉が静かに開いたのは、それからしばらく後のことだった。


 「まだ起きていたのか」


 レインだった。手には温かい茶の入った器を二つ持っている。執務を終えた後、帳場の灯りがまだついているのに気づき、様子を見に来たのだろう。仕事着のまま、少し眠そうな目をしていたが、その足取りに迷いはなかった。


 「レイン様こそ。もう真夜中よ」


 「お前が根を詰めすぎていないか、気になってな」


 レインは近くの椅子を引き寄せ、腰を下ろした。器の一つをミーナの前に置く。湯気が、静かな帳場の空気にほんのりと立ち上った。香草を煮出した、体を温める類の茶だった。


 「ちょうど、月次の決算をまとめていたところなの。難民受け入れの費用が想定より膨らんでいて、他の事業とのバランスを取り直さないといけなくて」


 ミーナは伝票の束をレインに見せながら、努めて明るい声で説明を続けた。だが、レインはその声の端に滲む疲労を、見逃さなかった。


 差し出された伝票をぱらぱらとめくりながら、レインは静かに目を通していく。数字の羅列だけを見れば、それはただの帳簿の一部に過ぎない。だが、その一枚一枚の裏側に、街の人々の暮らしと、ミーナが日々背負っている重責が滲んでいることを、レインはよく理解していた。


 「無理はしていないか」


 「無理なんて、していないわ。これくらい、いつものことよ」


 ミーナは笑ってみせたが、その笑顔はどこか固かった。レインはそれ以上問い詰めることなく、ただ静かに茶をすすりながら、ミーナが自分から話し出すのを待っていた。長い付き合いの中で、こういう時は急かさない方がいいと、レインは学んでいた。


 帳場には、算盤の音も止み、しばらく穏やかな沈黙だけが流れていた。窓の外では、夜警の足音が遠くから聞こえてくる。その静けさの中で、ミーナはようやく、胸の内にしまい込んでいたものを、少しずつ言葉にし始めた。


 しばらくの沈黙の後、彼女はふと、手を止めた。


 「……正直に言うと、少し、怖いの」


 「怖い?」


 「商会の帳簿を任されてから、ずっと数字と向き合ってきた。最初はただ、目の前の商売を成功させることだけを考えていればよかった。でも今は、この街の暮らしそのものが、私の帳簿の一行一行にかかっている。もし私が判断を誤ったら、難民の人たちの食事が滞るかもしれない。鉱業部の給金が払えなくなるかもしれない。そう考えると、算盤を弾く手が、時々震えそうになる」


 言葉にしてしまうと、それはミーナ自身も驚くほど、率直な弱音だった。かつて奴隷だった自分が、今や国家の経済を一手に担う立場にある――その事実の重さを、こうして誰かに打ち明けたのは、初めてのことだった。





 レインは黙って、ミーナの言葉に耳を傾けていた。


 器を両手で包み、しばらく間を置いてから、静かに口を開く。


 「ミーナ。お前は、一人でこの街の経済を背負っているわけじゃない」


 「でも……実際に、帳簿を動かしているのは私だし」


 「帳簿を動かしているのはお前だ。だが、その判断を支えているのは、お前だけじゃない。ダグラスが情報を集め、鉱業部と流通部の責任者たちが現場を回し、俺自身も、神眼鑑定で見える限りのことを、お前に伝えている。お前が一人で抱え込む必要はない」


 レインの声は、いつも通り静かだったが、そこには確かな温かさがあった。


 「思えば、ここまでの道のりも、決してお前一人で歩いてきたわけじゃなかっただろう。廃坑での鉱石発見も、フィルネ草の買い付けも、辺境伯との交渉も、そのすべてに、俺やヴァルド、そして今この街にいる皆の力が、少しずつ関わってきた。商会が大きくなったのは、お前一人の才覚だけじゃない。お前が、周りの人間を信じて頼ることができる人間だったからだ」


 レインは、ミーナが金貨四枚で解放されたあの日から、彼女がどれほどの苦労を重ねてきたかを、誰よりもよく知っていた。記録を失った過去、雇い主に裏切られた経験――それでも人を信じることをやめなかったミーナの強さこそが、この商会を、そしてこの街を、ここまで導いてきた原動力の一つだった。


 「それに、もし判断に迷うことがあれば、いつでも俺に言えばいい。俺たちは、対等なパートナーだと、あの奴隷市で交わした約束を、忘れたわけじゃないだろう」


 その言葉に、ミーナは目を瞬かせた。金貨四枚で解放され、対等なパートナーとして商会設立を持ちかけられた、あの日のことを思い出す。あの瞬間から、ミーナの人生は大きく変わった。だが、対等であるということの意味を、今夜ほど強く感じたことはなかったかもしれない。


 「一人で抱え込むな」


 もう一度、レインが静かに繰り返した。


 「弱音を吐くことは、弱さじゃない。むしろ、それを誰にも言わずに抱え込み続けることの方が、危ういと俺は思う」


 ミーナは、しばらく黙って器の中の茶を見つめていた。湯気がゆっくりと立ち上り、消えていく。その様子を眺めながら、張り詰めていた何かが、少しずつ緩んでいくのを感じた。


 「……ありがとう。少しだけ、楽になった気がする」


 「それでいい」


 レインは小さく頷き、茶を一口飲んだ。帳場には、しばらくの間、穏やかな沈黙が流れた。


 「明日からの分は、少し手伝おうか」


 「レイン様に帳簿仕事なんて任せたら、鑑定の方が疎かになるでしょう。大丈夫、私の仕事よ」


 ミーナは笑って首を振った。先ほどまでの固い笑顔とは違う、いつもの快活な表情が戻っていた。


 「それに、レイン様には、レイン様にしかできない仕事があるでしょう。世界崩壊現象のことも、帝国との駆け引きのことも。私は私の持ち場で、精一杯やる。それでいいのよ」


 「そうか」


 「ただ……時々、こうして顔を見せてくれるだけで、十分よ」


 「それくらいなら、いつでも」


 レインもまた、静かに笑みを浮かべた。その表情には、商会の主としての顔でも、都市国家の代表としての顔でもない、かつて辺境への道を共に歩んだ、あの頃と変わらない気安さがあった。





 その夜、ミーナは残りの帳簿仕事を、いつもより少しだけ軽い気持ちで片付けることができた。数字の一つひとつに宿る重みは、変わらず存在している。だが、それを一人で背負っているわけではないという実感が、算盤を弾く手に、確かな落ち着きを与えていた。


 帳場を出る前、ミーナは窓の外に広がる夜のアーレントを見渡した。仮設区画の灯りが、静かに揺れている。あの灯りの下で眠る一人ひとりの暮らしを、自分の帳簿が支えている。その事実は、重責であると同時に、誇りでもあった。


 ふと、レインが去り際に残した言葉を思い出す。「弱音を吐くことは、弱さじゃない」――その一言が、これからも自分を支えてくれる気がした。数字だけを追いかけていると、時々、自分がまるで感情のない計算機になったかのような錯覚に陥ることがある。だが実際には、その数字の向こうに、確かな人々の暮らしがある。そのことを忘れずにいれば、きっとこれからも、正しい判断を下し続けられるはずだ。


 この街に来たばかりの頃、ミーナはただ、自分と、拾ってくれたレインの暮らしが立ち行くことだけを考えていた。それが今では、何百人もの人々の暮らしを支える立場になっている。その変化の大きさに、時折めまいすら覚えることがある。それでも、今夜レインと交わした言葉が、その重さを一人で抱え込む必要はないのだと、静かに教えてくれた。


 「かつて奴隷だった私が、国の経済を支えているなんてね」


 誰へともなく呟き、ミーナは小さく笑った。その声には、もう先ほどまでの怯えは滲んでいなかった。


 灯りを落とし、帳場を後にする。廊下の向こうから聞こえてくる自警団の見回りの足音が、いつもと変わらぬ、この街の穏やかな夜を伝えていた。明日もまた、忙しい一日が待っている。それでも、ミーナの足取りは、来た時よりも幾分か軽やかだった。


 自室へ向かう廊下の途中、ミーナは一度立ち止まり、窓の外に広がる星空を見上げた。かつて奴隷市の格子越しに見た夜空と、今この場所から見上げる夜空は、同じもののはずなのに、まるで違って見える。それはきっと、隣に信頼できる仲間たちがいるという、確かな安心感のせいなのだろう。


 「明日も、頑張らないとね」


 小さく呟き、ミーナは自室へと続く廊下を歩き出した。その足音は、静まり返った未来商会の建物の中に、穏やかに響いていった。

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