第25話 四大国の思惑
アーレントが独立に向けて動いているという情報は、思いのほか早く外部へと漏れ出していた。峠を越える商人たちの噂話一つが、遠く離れた大国の宮廷にまで届くには、さほど時間はかからなかった。
商人ギルドのネットワークを通じて、王国の残滓を巡る情報が飛び交う中、アーレントという名は既に、四大国それぞれの間で無視できない存在として取り沙汰され始めていた。独立宣言はまだ正式に行われていないが、その気配だけで、周辺の情勢はにわかに慌ただしさを増していた。
「思ったより早いな」
レインは届いた報告書に目を通しながら呟いた。事務所には、セリアとミーナ、そしてヴァルドの姿があった。
「商人は口が軽いものです。特に、鉱石と魔道具の話となれば、誰もが黙っていられません」
セリアが淡々と言うと、ミーナも苦笑交じりに頷いた。
「隠す気なんてもとからなかったけどね。それより、各国の反応が問題よ」
ヴァルドが腕を組みながら口を開いた。
「四大国それぞれが、この街にどう出るか。まずはそれを見極める必要があるな」
「既に、動きが出始めています」
レインは静かにそう言うと、手元に積まれた報告書の束を一つずつ確認していった。それぞれの国からの反応は、既に無視できない形で届き始めていた。
まず動きを見せたのは、帝国だった。王国を飲み込んだばかりの帝国には、まだ十分な余力が残っている。アーレントの持つ鉱石と物流の価値に目をつけた帝国上層部は、密かにこの街へ密偵を送り込んできていた。
「商人に扮した男が、鉱業部の周辺を頻繁にうろついているとの報告があります」
ダグラスが持ってきた情報に、レインは静かに神眼鑑定を発動させた。視界の中に、商人然とした男の姿がぼんやりと浮かび上がる。その男の背後に透けて見えるのは、帝国という組織の影だった。
「間違いない。帝国の密偵だ」
「捕らえますか」
「いや、泳がせておく方がいい。無理に排除すれば、帝国側に警戒心を与えるだけだ。こちらの手の内を知られない範囲で、逆に情報を掴ませる方が得策だろう」
レインの冷静な判断に、ダグラスは感心したように頷いた。この街は既に、単なる商会の延長ではなく、国家としての情報戦にも足を踏み入れつつあった。
「見せてもいい情報と、隠すべき情報を分けておく必要がある。ミーナ、鉱石の産出量については、実際より控えめな数字が伝わるように仕向けてくれ」
「了解。わざと少なめに見せるってわけね。……悪くない手だわ」
ミーナはにやりと笑い、すぐに部下たちへ指示を出しに向かった。密偵の存在は脅威であると同時に、こちらの情報操作の材料にもなり得る。レインはその両面を冷静に見極めていた。
数日後、その密偵らしき男が、酒場で何気なく鉱業部の話を聞き出そうとしている様子が報告された。だが渡された情報は、ミーナが意図的に薄めたものだった。男は満足げにその場を去っていったが、それが帝国側に伝わる頃には、実態とはかけ離れた数字として届くことになるはずだった。
「これで少しは、帝国の判断を遅らせられるだろう」
レインは静かにそう呟いた。情報という武器を扱うことにかけては、この街は既に一角の力を身につけつつあった。かつて鑑定士として、物の価値を見抜くことしかできなかった自分が、今では国と国との駆け引きにまで手を伸ばしている。その変化を、レイン自身、どこか他人事のように感じることがあった。
「あまり無理はしないでね」
ミーナが心配そうに言うと、レインは小さく笑った。
「無理はしていない。ただ、必要なことをしているだけだ」
魔導連邦からの動きは、また別の形で現れた。
「エルナ様に、魔導連邦から使節が来ています」
研究室に駆け込んできた助手の言葉に、エルナは露骨に顔をしかめた。
「今更、何の用よ」
現れた使節は、表向きは「研究者の安否確認」という名目を掲げていた。しかし、その言葉の端々には、エルナの研究成果を回収したいという思惑が透けて見えていた。
「エルナ殿。魔導連邦としては、貴殿の身の安全を大変案じております。ぜひとも、連邦にお戻りいただければと」
「安否確認なら、もう終わりでしょう。私は元気よ。それだけ」
エルナは取り付く島もなく使節を追い返そうとしたが、レインが静かに割って入った。
「エルナの意志を尊重します。彼女は今、アーレントの専属研究者として働いています。連邦へ戻る意思はないと理解していただきたい」
使節は表情を変えずに、それでも粘るように続けた。
「研究成果の一部だけでも、連邦との共有をご検討いただけないでしょうか。応分の対価はお約束します」
「研究は私のものよ。誰にも渡さない」
エルナがきっぱりと言い放つと、使節は困ったような笑みを浮かべた。
「エルナ殿は昔から、頑固な方でした。……しかし、連邦としても、これほどの才能を手放したことを、いまだに惜しんでおります。もし気が変わることがあれば、いつでも門戸は開いております」
「気が変わることはないわ」
エルナは即座に切り返した。傍で聞いていたクロエが、静かにエルナの肩に手を置いた。
「大丈夫。ここには、あなたの研究を正しく評価する人たちがいる」
クロエの短い言葉に、エルナはわずかに表情を和らげた。使節はそれ以上食い下がることなく、丁重に礼を述べて退出していった。だが、レインはその背中を見送りながら、この件が簡単には終わらないだろうと感じていた。
獣王国からの反応は、他の二国とは明らかに違っていた。届いた書簡には、高圧的な物言いも、探るような遠回しな言葉もなく、ただ率直な関心が記されていた。
「アーレントとの交易路の開拓に興味がある、か」
レインが書簡を読み上げると、セリアが感心したように言った。
「四大国の中でも、獣王国は最も実利主義だと聞いています。無駄な駆け引きを好まない気質なのでしょう」
書簡には、鉱石や魔道具といった具体的な品目への関心と、対等な条件での交易協定を結びたいという意向が、簡潔な言葉で綴られていた。飾り立てた美辞麗句もなければ、遠回しな探りもない。ただ純粋に、利益を分かち合える相手を求めているという姿勢が伝わってきた。
「悪くない相手だ。交渉の余地は十分にある」
レインは書簡を丁寧に折りたたみながら、静かに頷いた。四大国の中で、最初に手を組める可能性があるのは、おそらくこの獣王国だろうという予感があった。書簡の文面からは、駆け引きよりも実利を重んじる国民性が伝わってくるようで、レインはそこにある種の安心感すら覚えていた。
「セリア、この件は正式な交渉に進める価値がある。窓口を担ってもらえるか」
「もちろんです。……四大国の中で最初の対等な条約になるかもしれませんね」
セリアの声には、これまでにない前向きな響きがあった。帝国の圧力や、魔導連邦の思惑、残存貴族の火種とは違う、純粋な可能性がそこにはあった。
そして、最も厄介な火種となりつつあったのが、崩壊したアストリア王国の残存貴族たちの動きだった。帝国への反発を燃料に、彼らは崩れた王国の「後継」として、アーレントを担ぎ上げようとする動きを強めていた。
「セリア様こそ、正当な王位継承者。アーレントを新たな王国として立て、我々はその臣下として尽くしましょう」
そんな内容の書状が、既に複数の貴族家から届いていた。差出人の中には、かつて宮廷でセリアと親しかった家名も含まれており、その事実がセリアの心をわずかに揺らした。
セリアはそれらの書状に一通り目を通すと、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「私にその気はありません」
「セリア様」
傍らに控えるハインツが心配そうに声をかけると、セリアは首を振った。
「私が王座に戻れば、それこそ帝国に攻め入る格好の口実を与えることになります。それに――」
セリアはレインへと視線を向けた。
「私はもう、王国の後継者としてではなく、アーレントの一員として生きると決めています。この街の未来のために働くことが、今の私の役割です」
その言葉に迷いはなかった。だが、書状を丁寧に折りたたむセリアの指先に、わずかな緊張が滲んでいるのを、レインは見逃さなかった。かつて自分が生まれ育った国の残り火が、今もなお彼女の名を利用しようとしている。その事実は、決して軽いものではないはずだった。
セリアは書状の束を静かに脇へ寄せると、ふと窓の外へ視線を移した。
「不思議なものです。あの宮廷にいた頃は、自分の名がこれほどまでに重い意味を持つとは、あまり意識していませんでした。今になって、その重さを思い知らされています」
「重荷なら、下ろしてもいい」
レインの言葉に、セリアは小さく首を振った。
「いいえ。この名前を、正しい形で使うことが、私にできる恩返しだと思っています。担がれるためではなく、自分の意志で選んだ道のために」
「無理はしなくていい」
レインが静かに声をかけると、セリアは少し驚いたように顔を上げた。
「……いいえ、大丈夫です。これは、私自身が選んだ道ですから」
セリアの声には、静かな強さが戻っていた。レインは静かに頷き、以前セリアが用意していた返答の草案を思い出しながら言った。
「先に用意していた返答を、正式に送ろう」
セリアは頷き、丁寧に整えられた書状を取り出した。そこには、揺るぎない一文が記されていた。
「我々は誰の後継でもない。アーレントはアーレントとして立つ」
その一文が、残存貴族たちへの明確な拒絶として、各家門へと送られていくことになった。
夜、事務所の一室でレインは一人、神眼鑑定を静かに発動させていた。今度は個々の出来事ではなく、四大国それぞれの今後の動きを、俯瞰するように見渡すために。
視界の中に、四つの大国の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。帝国は、当面は外交的な圧力に留まりながらも、機会があれば取り込みを図ろうとするだろう。魔導連邦は、エルナの研究への未練を捨てきれず、何らかの形で接触を試み続けるはずだ。獣王国は、実利に基づいた対等な関係を求めてくるだろう。そして残存貴族たちは、今回の拒絶を受けてもなお、燻り続ける可能性がある。
それぞれの思惑が交錯する様は、まるで一枚の複雑な地図のようだった。どの国と、どのような距離感で付き合うか。その判断一つが、この街の未来を大きく左右することになる。レインは視界に浮かぶ光の筋を、一つ一つ丁寧に読み解いていった。四つの国それぞれの動きが、これから先どのように絡み合っていくのか、その全貌はまだ完全には見えない。だが、少なくとも今この瞬間に打つべき手は、はっきりと見えていた。
レインは手帳を開き、それぞれの国への対応方針を簡潔にまとめていく。
「帝国――当面は静観、機を見て交渉。魔導連邦――エルナの意志を最優先、対話の窓口は閉じない。獣王国――最初の同盟候補として関係構築を急ぐ。残存貴族――明確な拒絶を維持しつつ、火種の広がりに注意」
ペン先を止め、レインは小さく息をついた。四大国という巨大な存在を相手に、この小さな都市国家がどう渡り合っていくか。その戦略の骨子は、既に見えている。あとは、それを一つ一つ、着実に実行していくだけだった。
ふと、手帳の別のページに目をやると、そこには第一話の頃から書き溜めてきた予言の数々が、今もそのまま残されている。錆びた剣、孤児の少年、拾われた獣人の少女――そのすべてが、今この瞬間の礎になっている。未来を見通す力は、決して万能ではない。だが、見えた未来をどう形にしていくかは、結局のところ、自分たち自身の手にかかっているのだと、レインは改めて実感していた。
「これからが、本当の意味での外交戦になる」
呟いたレインの視線の先には、夜のアーレントの灯りが、変わらぬ温かさで揺れていた。かつて一介の鑑定士に過ぎなかった自分が、今では国と国との狭間で、この街の未来を背負っている。その重さを噛みしめながらも、レインの胸に迷いはなかった。手にした力を、正しく使うだけだ。それだけを胸に、レインは静かに手帳を閉じた。
*
獣王国の宮廷では、辺境の新興都市アーレントについての報告が、意外なほど好意的に受け止められていた。実利を重んじるこの国にとって、鉱石と魔道具を持つ新しい交易相手の誕生は、純粋な好機として映っていた。宮廷に集った重臣たちの間では、既に交渉団の派遣についての具体的な議論が始まっていたという。四大国それぞれの思惑が交錯する中、アーレントの外交戦は、静かに、しかし着実に幕を開けようとしていた。




