第19話 勇者アレンの末路
セリアがアーレントに来て、十日ほどが経った。
彼女はその間、誰に言われたわけでもなく、静かに仕事を始めていた。街の行政記録に目を通し、辺境伯との折衝に関する書類を整理し、都市昇格に向けた申請書類の不備を洗い出す――そういう仕事を、誰かに命じられるより早く、自分から動いてこなしていた。
ミーナが報告に来たのは、そんなある朝のことだった。
「レイン様。商人ギルドから急報が入りました」
「勇者パーティーか」
レインは手を止めずに答えた。ミーナが少し驚いた顔をする。
「……なぜ分かったんですか」
「そろそろだと思っていた」
レインは筆を置き、静かにミーナを見た。
「内容は」
「はい。勇者アレン殿が、昨日未明、単独でシュバルツ洞に向かったとのことです」
*
アレンが動いたのは、夜明け前だった。
パーティーの宿舎を抜け出した彼の荷物には、一人分の携帯食料と、磨き上げた勇者の剣だけがあった。リリアにもガルドにも告げず、もちろんクロエにも知らせず、たった一人でシュバルツ洞へと向かった。
アレンの中で、何かが限界を超えていた。
最初の大敗から、既に数ヶ月が経つ。その間、パーティーの空気は最悪で、ガルドの不満は続き、クロエは何度も席を外し、リリアは疲弊したまま回復できずにいた。王国からの信頼は揺らぎ、貴族たちの目も冷たくなり始めている。功績を立て直さなければならない、という焦りは、日に日に膨らんでいた。
だが、最も深くアレンを追い詰めたのは、別のことだった。
かつて自分が追放した鑑定士の名前が、王都でも聞かれるようになっていた。辺境の商会を立ち上げ、街を発展させ、鉱石産業を動かし、難民を受け入れている。追放したはずの男が、確実に大きくなっている。
そのことが、アレンには耐えられなかった。
――俺が結果を出さなければならない。それも、誰の力も借りずに。
シュバルツ洞の入り口に立ったアレンは、剣を抜き、暗い洞窟の奥へと踏み込んでいった。
*
アレンが洞窟に入ったことは、残されたリリアとガルドが気づいたのは、夜が明けてからだった。
書き置きが一枚、宿の机の上に残されていた。
『俺は一人でやり遂げる。心配するな』
ガルドは書き置きを読み、床に叩きつけた。
「馬鹿野郎が……!」
リリアは蒼白な顔で立ち尽くした。
二人は急いでシュバルツ洞へと向かった。洞窟の入り口には、アレンの足跡がはっきりと残っていた。だが、それ以外の痕跡も残っていた。引きずられたような跡、崩れた岩の欠片、そして――血の滴り。
洞窟の中に踏み込んで、ほどなく二人はアレンを見つけた。
崩れ落ちた岩棚の陰で、アレンは倒れていた。鎧は大きく砕け、左腕が不自然な角度に曲がっている。意識はあった。だが、立てる状態ではなかった。
「……来るな、と言っただろう」
「うるせえ!」
ガルドがアレンの体を引き起こしながら怒鳴った。
「こんな状態で一人でいたら死んでたぞ! 俺でも分かる!」
「リリア、治癒を……」
「今します」
リリアが治癒魔法を発動させる。だが、アレンの傷は想像より深かった。洞窟の奥に潜む魔物と正面からぶつかり、体ごとはじき飛ばされ、岩肌に叩きつけられた痕跡が、体のあちこちに刻まれていた。
三人は、かろうじてシュバルツ洞を脱した。
撤退という言葉すら、生ぬるかった。
*
この一件は、今度こそ隠せなかった。
シュバルツ洞の周辺で働く採掘業者や警備の冒険者たちが、血まみれで運ばれる勇者の姿を目撃していた。噂は翌日には街に広まり、三日もしないうちに王都の貴族たちの耳に届いた。
国王は激怒した。だが、今回ばかりは怒りの向け先が定まらなかった。隠蔽を命じようにも、目撃者が多すぎる。アレンを庇おうにも、擁護できる材料がない。
貴族たちは静かに、しかし決定的に、勇者という存在から距離を置き始めた。
「もはや勇者パーティーには期待できない」
「王国の守護を、一人の若者に依存しすぎていたのでは」
「帝国との関係が悪化している今、別の手を考えるべきではないか」
王宮の空気は、静かに、しかし取り返しのつかない形で変わっていた。
アレンは重傷を負い、しばらくの静養を余儀なくされた。その間、勇者パーティーとしての活動は完全に止まった。ガルドは怒りとも呆れとも言えない様子で、荷物をまとめて宿を出た。行き先は告げなかった。
そして翌日、クロエがリリアのもとに来た。
「私は、このパーティーを離れます」
感情のない、静かな声だった。
「……そう、ですか」
リリアは疲れ切った顔で頷いた。引き留める言葉は、出てこなかった。
「あなたはどうするんですか、クロエ」
「自分で決めます」
それだけ言って、クロエは部屋を出ていった。
*
アーレントの未来商会に、一人の女性が訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。
白い法衣を旅装に変えた、まだ若い女性。だが、その瞳には深い疲れと、それでも前を向こうとする意志が混在していた。
応接間に通されたその人物を見て、ミーナが小声でレインに言った。
「……聖女のリリア様ですね」
「ああ」
「来ましたか」
「来ると思っていた」
レインはそう答え、リリアと向き直った。
「遠いところをよくいらっしゃいました。未来商会のレインと申します」
「リリアです。……元、勇者パーティーの聖女をしていました」
「元」という一言に、リリアが自分の立場をどう捉えているかが滲んでいた。
「今日は、何のご用件でしょう」
レインが静かに聞く。
リリアはしばらく、手元を見ていた。それから顔を上げ、まっすぐにレインを見た。
「レイン様に、謝りたかったんです」
「……謝る?」
「私はずっと、レイン様の鑑定眼が本物だと分かっていました。パーティーにいた頃から。あなたが見ている未来は、きっと正しいと思っていました。でも……追放される時、私は何も言えなかった」
リリアの声が、わずかに揺れた。
「言えば、もしかしたら止められたかもしれない。でも怖かった。アレン様に逆らうことが、パーティーの空気を壊すことが。だから黙っていた。ずっと、後悔していました」
沈黙が落ちた。
レインはしばらくリリアを見てから、静かに答えた。
「謝罪は受け取ります。ですが、あの時のあなたの判断を責めるつもりはありません。あの場では、あなたにできることは限られていた」
「でも――」
「過去の話をしに来たわけではないでしょう」
リリアは少し息をのんだ。
「……はい。お力を貸していただきたいのです」
「具体的には」
「パーティーは事実上解散しました。アレン様は重傷で、ガルドさんも去り、クロエさんも離れた。私には今、行くところも、やることも、何もありません。ただ……治癒の力だけは持っています。それを、役に立てる場所で使いたいと思っています」
リリアは深く頭を下げた。
「使っていただけますか」
レインはしばらく答えなかった。
神眼鑑定を、静かに発動させる。
【リリア・ライトウィング】
現在の状況:勇者パーティー離脱。精神的な疲弊が深いが、本質的な意志は折れていない
隠された才能:治癒魔法の水準は聖女の中でも最上位。加えて、医療・薬草の知識も深い
将来の価値:未来商会の医療部門において、エルナの研究と組み合わさることで、この世界の治癒技術を大きく前進させる可能性を持つ
――やはりか。
レインは小さく息を吐いた。
「分かりました。商会に来てください」
「本当に……いいんですか」
「条件があります」
「何でしょう」
「過去のことは、ここでは問いません。ただし、前を向いて仕事をする気がある人間だけを、我々は受け入れています。あなたにその気があるなら、歓迎します」
リリアは目を伏せ、短く、しかし確かな声で答えた。
「あります」
「では、よろしく」
ミーナが横から穏やかな笑顔を向けた。
「長旅でお疲れでしょう。まず部屋に案内しますね」
*
その夜、レインは一人で執務室に座り、手帳を開いた。
神眼鑑定が示していた通りの展開だった。アレンの単独行動、大敗、パーティーの解散、リリアの来訪――それらは全て、数ヶ月前から手帳に書き留めていた未来の断片が、一つひとつ現実になっていく過程に過ぎなかった。
レインはペンを取り、静かに書き記した。
『勇者アレン、シュバルツ洞に単独で再挑戦。重傷を負い撤退。ガルドはパーティーを離脱、クロエは正式に離脱。勇者パーティー、事実上解散。リリア、未来商会への合流を申し出る。受諾』
書き終えてから、レインは手帳を閉じずに、しばらくそのページを眺めた。
アレンに対して、今この瞬間、どんな感情があるか。怒りか。それとも優越感か。
正直なところ、どちらでもなかった。
あの追放の日のことは、今も記憶に残っている。「お前の鑑定は役に立たない」と言い放ったアレンの顔も、「役立たずに税金は使えん」と言った国王の言葉も。あれらは確かに、レインの中に何かを残した。
だが、その「何か」は怒りではなかった。
むしろ、その追放がなければ、今のレインも、未来商会も、このアーレントの街もなかった。ミーナとの出会いも、カイとの出会いも、エルナやセリアやリリアとの縁も、全ては追放という出来事から始まっていた。
神眼鑑定は、未来の価値を見る力だ。だが今になって思えば、あの追放もまた、何かの価値を持った出来事だったのかもしれない。
レインはそこで思考を止め、静かに手帳を閉じた。
感傷に浸る時間は、今はない。
王国崩壊まで、残りの時間はさらに削れている。やるべきことは、まだいくつもある。セリアの政治顧問としての体制作り、リリアの医療知識とエルナの研究を組み合わせた新事業の検討、カイの成長の後押し、クロエの行方の把握――それらが、これからの商会を支える柱になる。
レインは立ち上がり、窓の外を見た。
アーレントの夜は静かだった。だが、その静けさの中に、確かな動きが宿っていた。
街は眠っていても、何かが育ち続けている。
それがこの街の、今の姿だった。
レインは灯りを落とし、今日の終わりを迎えた。




