第17話 王国崩壊の足音
最初に異変を察知したのは、商人たちの動きだった。
カルベン峠を行き交う荷馬車の数が、ここ数週間で明らかに変わっていた。増えているのではない。王都の方向から来る荷馬車が、極端に減っていた。王都へ向かう商人も少なくなり、代わりに手荷物だけを抱えた旅人が、ぽつりぽつりとアーレントへ流れ込んでくるようになっていた。
商人の足が止まるとき、その背景には必ず何かがある。
レインはそのことを、誰よりも早く、誰よりも正確に把握していた。
*
ある夜、商人ギルドから一通の急報が届いた。
ミーナが封を開き、文面を読むうちに、その表情が次第に引き締まっていった。
「レイン様。帝国との国境付近で、不穏な動きがあるようです」
「詳細は」
「アストリア王国と帝国の間で、交易路の通行権を巡る交渉が決裂したとのことです。王国側が帝国の使節団を無礼討ちにしたという噂もあり、現地の商人たちは国境付近から一斉に撤収し始めているようで」
レインは静かに目を伏せた。
使節団への無礼討ち。それが事実であれば、外交的な失策どころの話ではない。帝国のような大国に対して、それほどの侮辱を与えれば、返ってくる反応は一つしかない。
「国王が直接命じたのか」
「詳細は不明です。ただ、最近の王宮では、国王の側近への権力集中が進んでおり、外交判断が一部の人間に偏っているという話は以前からありました」
「そういうことか」
レインは手帳を引き出し、静かにページを繰った。
第一話で見た光景が、今も鮮明に脳裏に残っている。神眼鑑定が初めてアストリア王国そのものを対象にしたとき、浮かび上がってきた数字――『あと十七ヶ月と二週間』。それが、この王国の寿命だった。
あれから、既に数ヶ月が経過している。
残りの時間は、着実に削れていた。
*
「ミーナ」
「はい」
「難民が来る。早ければ、今月中にも」
ミーナは一瞬、目を丸くした。だがすぐに、商人の顔に戻った。
「どのくらいの規模で」
「今の段階では小さい。百人か、二百人か。だが、これは始まりに過ぎない。王都の政情が悪化するにつれて、数は増えていく。最終的には、それが街の人口を大きく押し上げることになる」
「それは……つまり、都市昇格の追い風にもなりますね」
「ああ。だが、受け入れの体制が整っていなければ、逆に街の秩序を乱すことになりかねない。食料、住居、仕事――その三つを用意できるかどうかが、鍵になる」
ミーナは手元の書類に素早く書き込み始めた。
「食料は、農業部門の収量から計算して……住居は、街の外縁部に仮設の宿泊施設を作る手もありますね。それと、雇用については、鉱業部と流通部に新規の人手を受け入れる余地がどのくらいあるか、確認します」
「頼む。ただし、無理に急がなくていい。一週間かけて整えれば十分だ」
「分かりました」
ミーナは立ち上がりながら、少し間を置いてから言った。
「レイン様は、これもずっと前から見えていたんですね」
「見えていた、というよりは……いずれこうなると分かっていた、という方が正確だ。予言というより、必然の話だ」
「必然、ですか」
「外交を軽んじ、内部の権力争いを放置し、勇者への依存を深めた国が、どうなるか。神眼鑑定がなくても、見えていた人間には見えていただろう」
ミーナは静かに頷いた。そして何も言わずに部屋を出た。
レインは一人、執務室の窓から夜のアーレントを眺めた。
街の灯りは、以前より確かに増えている。人が増え、仕事が増え、声が増えた。その一方で、王都の方角には、重たい闇が広がっているように感じられた。
*
レインの予測は、ほぼ正確だった。
それから十日ほどのうちに、王都方面から流れてきた旅人が、百人を超えた。
彼らの多くは、商人や職人の家族だった。王都の物価が急騰し、治安が悪化し、帝国との国境封鎖の噂が広まったことで、「もうここにはいられない」と判断した人々だ。
未来商会の受け入れ体制は、ミーナが手際よく整えていた。街の外縁部に設けられた仮設の宿泊施設は、簡素ではあるが清潔で、温かい食事が提供された。働ける者には、鉱業部や流通部での仕事が紹介された。子どもを持つ家族には、街の中心部にある広場の近くに優先的に住居を案内した。
難民を迎える、という経験を、アーレントの街は初めて持った。だが、それを「負担」として扱うのではなく、「街の発展の一部」として組み込んでいく――そういう視点で動けたのは、ひとえにレインとミーナの判断があったからだ。
「ありがとうございます」
受け入れ窓口に設けられた机の前で、子どもを二人連れた女性が、ミーナに深く頭を下げた。
「夫が帝国との国境近くで商いをしておりまして、今は連絡が取れない状況で……子どもを連れて逃げるしかなくて」
「大丈夫ですよ。ここには仕事もあります。お子さんたちも安全に過ごせます」
ミーナは柔らかく微笑みながらそう言った。
その様子を少し離れたところから眺めていたレインは、静かに目を細めた。
元奴隷として、自分が誰かに助けられることの意味を知っているミーナだからこそ、難民の一人一人に向ける言葉が、自然に温かくなるのだろう。
レインは視線を転じ、難民の中に交じっている顔ぶれを、静かに観察した。神眼鑑定を発動させる。職人の腕を持つ者、教育を受けた者、農業の経験者――それぞれの持つ技術や才能が、視界の端に浮かび上がってくる。
人が来る。人の中に、価値がある。
それは、この街にとって、ただの悲劇ではない。
*
同じ頃、商人ギルドを通じて、セリアに関する新たな情報がレインの元に届いた。
第12話でセリアの安否を気にかけてから、レインは商人ギルドの伝手を使って継続的に情報収集を続けていた。直接接触するタイミングは、神眼鑑定が示す「その時」が来るまで待つつもりだった。
しかし今回の報告は、これまでとは重さが違った。
ミーナが静かに文面を読み上げた。
「王宮内で、第一王女セリア様の護衛が全て解任されたとのことです。表向きの理由は『経費削減』ですが……実質的には、セリア様を無防備な状態に置くということです」
「身辺の安全が、完全になくなったということか」
「そうなります。加えて、セリア様の住む宮殿の一角が、近々別の用途に転用されることが決まったという話も入ってきています。つまり、居場所そのものが失われつつある」
レインは黙って窓の外を見た。
静観する、と決めていた。だが、その条件は「セリアの安全が保たれている間」という前提の上にあった。護衛の解任、居場所の喪失――それは、もはや静観できる段階を超えている。
「……動く」
低く、しかし迷いのない声でそう言った。
「え?」
「セリアを保護しに行く。時期を早める」
ミーナはしばらくレインを見つめた後、静かに頷いた。
「分かりました。では準備を」
「ああ。ただし、大がかりな動きは避ける。目立てば、王宮側に気づかれる。少人数で、静かに動く」
「護衛はどうしますか。私だけでは、万が一の時に」
レインはしばらく考えた。
「心当たりがある。当たってみる」
ミーナはそれ以上は聞かなかった。レインが「心当たり」と言うとき、それは既に神眼鑑定によって確かめられた見通しがあるということだ。
レインは手帳を開き、ペンを走らせた。
『帝国との緊張激化。国王の外交判断ミス、連鎖中。難民の流入が始まる。受け入れ体制、ミーナに一任。セリア王女の状況、臨界点に到達。静観を終える。近日中に王都近郊へ向かい、保護を実行する』
書き終えてから、レインは手帳の別のページを開いた。
第1話で書き記した一行が、そこにあった。
『王国崩壊まで、あと十七ヶ月と二週間』
その一行の横に、レインは今日の日付を書き込み、残りの時間を計算した。
――あと、十ヶ月足らず。
予言が現実へと近づいている。霞のように遠かったものが、今は輪郭を持った脅威として、確かに迫ってきている。
王国は崩れる。それは変わらない。
だが、崩れる前に救い出せるものがある。セリアも、そして今この街に流れ込んできた難民たちも、その崩壊に飲み込まれる必要はない。
レインは静かに手帳を閉じた。
窓の外では、アーレントの夜が静まり返っていた。だがその静けさの奥に、王国という大きな建物が軋み始める音が、遠くから、確かに聞こえてくるようだった。
次に動く時は、もう間もなくだ。
レインはそう思いながら、明日の準備へと気持ちを切り替えた。
*
翌朝、執務室を訪ねてきたのはカイだった。
扉を叩き、中に入ってきたカイは、以前より少しだけ背が伸び、顔つきも引き締まっていた。腰には相変わらず、あの錆びた剣を下げている。
「レインさん、少しいいですか」
「どうした」
「難民の人たちのこと、なんですけど」
カイは少し躊躇うように間を置いてから、続けた。
「受け入れ施設の周辺で、夜中に騒ぎがあったって聞きました。怖い思いをした人が出たって。俺、冒険者として夜間の見回りを手伝えないかと思って」
レインはカイを見た。
特別な使命感を掲げているわけでも、手柄を立てたいわけでもなさそうだった。ただ、目の前で困っている人がいて、自分に何かできることがあるならしたい、というだけの話だ。
「ギルドに掛け合ってみろ。夜間警備の依頼として正式に出してもらえるよう、俺から話を通しておく」
「本当ですか。ありがとうございます」
「ただし、無理をするな。お前はまだEランクだ。大事なのは、長く続けることだ」
「はい。分かってます」
カイは頷き、部屋を出ていった。
レインはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
この街に来た難民は、街の人間にとって見知らぬ他人だ。その他人のために自分の時間を使おうとする者が、こんなに自然な顔で出てくる。
それがこの街の、少しずつ変わっていく姿なのかもしれない。
レインは窓の外を眺めた。
朝のアーレントは、今日も動いていた。難民の受け入れ窓口には既に列ができ始めており、ミーナとその補佐たちが手際よく対応している。鉱業部の方向からは、採掘道具を積んだ荷馬車が出発していく音が聞こえてくる。研究室からは、早くも何かを実験しているらしいエルナの独り言が微かに漏れてきていた。
この街は、確かに生きていた。
王国が崩れていく一方で、この辺境の地には、新しいものが着実に育ちつつある。
レインはその光景を胸に刻み、今日やるべき仕事へと向かった。




