幕を下りた役者たち
ラグーナ公国の公王との会談を終えた私たちは、元いた居室に戻るとオロディア国王たちの追求から逃れられない為、そっと城を出て城下を散策していた。
さっき大きな芝居を打った夫の腕を掴んだ私は名のある役者の妻に見えるだろうか?
水面を滑る小舟が行き交う中、私たちは水路の側を歩きながら露店舟から手渡された海珠焼きという食べ物を食べていた。
「こえ、あふいほ!」
海珠とはこの国の象徴である水龍がその手に握る宝珠のことらしくて、その海珠のように小麦を水で溶かしたものと、いくつかの海産物をその中にいれて丸い型で焼き上げる。香ばしい匂いが辺りに立ち込めた頃、露店舟の主はニヤリとしながらその全てをクルクルと器用にひっくり返す。
出来上がったのは名前通り海珠のように丸い玉。
そこに秘伝のタレをかけたものが海珠焼きなのだが…。
「あつっ!ファニー、火傷してないか?」
そう言って私の唇をめくり、火傷の心配をしてくれるのは嬉しいんだけど…、めちゃくちゃ見られてる。
観光客が多い場所とはいえ、まさかこんな所で唇の中まで覗き込むとは思わなかった。
慌てて私から離れようとする彼の手を私は離さない。
今はこんなに美しい町を夫と二人きりで歩くこの時間がとても愛おしいから。
バツが悪そうにこちらを窺う夫の口に海珠焼きを放り込む。
これは町ゆく男女がそこら中でやっている行為だから問題なし…と。
時折すれ違う町の人に笑顔で話しかけられたり、礼を言われたりすることがある。
彼らはこの町が襲撃を受けたあと、夫がその復興に手を貸した人だったり、中には私がテティスの力を借りてその傷を癒した人たち。
そんな人たちがこのにぎやかな町の営みを楽しんでくれていることが嬉しくて、それに少し誇らしかった。
国を出た時からは想像もできなかった夫婦でのこんなひと時は目的地にたどり着いた。
水路沿いの小さな酒場。
城でもこの道のりの途中でも、雰囲気のいい酒場を聞けばみんなが揃ってここを薦めてくれた。
美しい看板娘がいる落ち着いた酒場だと。
――美しい看板娘はどうでもいいけど。
真っ白い壁に青い窓枠、軒先の硝子の灯り。
まだ辛うじて陽があるからか、外には丸い卓と椅子もあった。
外で景色を楽しみながら酔うのにちょうど良かった。
私たちはそのうちのひとつに腰を下ろし、卓札を見て心を躍らせる。
ここに来るまでに露店舟で少しお腹も膨れていたので、セビーチェという海の幸の料理と、目に留まったお酒を頼むことにした。
注文を受けたあの女性がそうだろうか?
後ろ姿だったので顔までは見えないけれど、店内にいるのはほとんどが鼻の下を伸ばした男たちばかりなので間違いない。
ふと卓の上の小瓶に活けられた小さな花が目に入った。
この国の色と同じ青い花。
「ね、ピエール。この花の名前ってなんだったっけ?」
「これか?確かミオソティスだな」
「よくそんなすぐに出てくるよね。でもそうだ。ミオソティスだわ」
昔祖母に覚えておきなさいと言われた花のひとつ。
確か花にはそれが意味する言葉もあるって…。
「私を忘れないで…」
「急にどうした?この花の言葉なら…真実の愛だろう?」
そう言って頬を赤らめて顔をそらした夫。
「どっちも正解よ?お待ちどおさまっ」
私たちの会話を繋げるように料理を持って来たのがその人だった。
――なんていい顔で笑うんだろう。
美しさでいうなら、オロディア王妃やセレナの方が…。
ただ彼女の魅力はそことは別のところにあった。
真っ直ぐ伸びた綺麗な姿勢と、絶えない笑顔。
声を掛けられる度に答える声は澄んでいて他の会話の邪魔にならない。
ここで愛される看板娘――
そんな噂の意味が、すぐに分かった。
思わず見とれながら料理を口に運ぶ。
――さっぱり爽やか。
私の大好きなネズの実の香り。
食べ歩いた料理の味が少し濃いめだったので、これは嬉しかった。
――まだまだっ。
悔しいけれどこの料理は認めるしかない。
ただ本当に認めるのは私たちが頼んだお酒次第ね。
私はいつの間にか彼女を試すような心持ちになっていた。
隣の夫はそれに気付いているのか何も言わず、ただ景色と料理と私を眺めていた。
だが彼にとってもこのお酒は特別なもののはず。
卓札に最近加えられたんだろう、まだ真新しいそのお酒の名は私たち、それにこの国の人にとっても特別な意味がある花の名前。
「お待ちどおさま…このお酒はね、最初の一杯目はサービスなの。でもその代わりにひとつお願い。海に向かってお祈りをしてから飲んでね」
彼女がそう言って卓に置いたお酒の名前は氷晶華。
火竜の襲撃を退けた、私たちの仲間が咲かせた氷の花。
この花の名前は私たちにとって本当に大事な名前。
そう思って卓に目を移す。
華奢な脚に支えられた、底が浅く口広のクープグラスに注がれた酒の色は水面の奥で揺れる青色。
グラスの底からは絶えず白銀の粒が湧き上がり、微かな音を立てると同時に小さく白い花を咲かせる。
そこに一輪だけ浮かべられた花はミオソティス。
――忘れないでの意味を持つ花。
――何も言えなかった。
夫の瞳を満たす雫が夕暮れの陽をぼやけて映した。
手が震えてグラスを手に取るのに手間取っていると、周囲の異変に気が付いた。
酒場の周辺。
この一帯を埋め尽くした人が優しく手を叩く音。
「まずこの町を救ってくれた英雄さんに飲んでもらわなきゃ、この名前は使えないわ。だから最初の一杯目はサービスなの」
いつ来るかも分からない私たちの為に作られた一杯。
味なんか全く分からなかった。
ただ私たちを称え、忘れないようにと想いが込められたお酒。
何も見えない。
ただ光が滲んで、景色は水面のように揺らいでいた。




