第2話 家を去る日
翌朝、グランフィール侯爵家の屋敷は、普段と変わらぬ静けさに包まれていた。
王都でも名高い広壮な屋敷。庭園には季節外れの花が温室で咲き誇り、廊下の赤絨毯は一夜にして磨かれたかのように艶めいている。
だが、その豪奢のど真ん中で、私は椅子に座り、淡々と書状を見つめていた。
王家の紋章入りの封蝋。
昨日の出来事を「公式」にした文書が、もう届いていたのだ。
開けば、婚約破棄の理由がご丁寧に並べられている。
「資質不足」「王妃として不適格」――まるで私が書いた辞職願みたいに簡潔だった。
「……早いわね」
思わず口から漏れる。
もっと数日はかかると思っていた。だが、王家にとって私はそれほど「急いで切り捨てる対象」なのだろう。
「エリナ」
低い声が部屋の外から響いた。父の声だ。
扉が開くと、グランフィール侯爵が姿を現した。
壮年の父は、相変わらず背筋が真っ直ぐで、冷ややかな視線を保っている。
「王太子殿下からの正式な文書だ。これを受けた以上、我が家としても対応せねばならん」
「対応、ですか」
「当然だ。無能を抱え続ければ、家の名誉に関わる。お前には今後、一切の援助はしない。……早急に屋敷を出ることだ」
その言葉は、思ったよりもあっさりとしていた。
叱責や嘆きではなく、ただの処理。
私にとって父はずっと「家の当主」であって、「家族」ではなかった。
だからこそ、この冷淡さに驚きはない。
「承知しました」
私は立ち上がり、深く一礼した。
続いて母が姿を現した。
香水の匂いを漂わせ、美しく着飾った姿のまま、細い指で扇を開く。
「まあ……恥ずかしいこと。けれど、私たちの名が地に堕ちないだけでも救いだわ。
エリナ、あなたにはせいぜい、静かに暮らしていただきたいものね。噂を増やすのだけはやめてちょうだい」
母の言葉は、鋭利な針のように胸を刺す。
だが、それでも私は笑みを崩さなかった。
「ご安心ください。……私はこれから静かに、自分の人生を歩きます」
「そう。それなら結構」
母はあっさりと踵を返し、去っていった。
残されたのは、私とミアだけ。
ミアはずっと私の部屋の隅で荷物をまとめていた。
小さな鞄に入れられるものは限られている。衣服を数着、針と糸、保存食、そして幼い頃から愛用していた小さな日記帳。
「エリナ様……本当に、行かれるのですか」
「ええ」
私は頷く。
「この屋敷に残れば、私はただの影になる。ならば、自分の場所を探す方がいい」
窓の外には、冬の陽射しが斜めに差し込んでいる。
王都の街路樹は葉を落とし、枝の先にだけ小さな芽をつけていた。
その芽の逞しさを思うと、不思議と胸に力が湧いた。
「森へ行くのですね」
「そう。王都の北西にある小さな森。地図に載っていた空き小屋が気になるの」
「噂では幽霊が出るとか……」
「幽霊より、王都の噂の方がよほど怖いわ」
そう言うと、ミアは小さく笑った。
やがて私たちは馬車に乗り、屋敷を後にした。
玄関前で見送る者は一人もいない。
けれど、心は不思議と軽かった。
昨日までの私は「王太子の婚約者」「侯爵令嬢」という肩書きに縛られていた。
今の私は、ただの「エリナ」。それだけで十分だった。
馬車の車輪が石畳を鳴らし、王都の門へ向かう。
通りすがりの人々がこちらを一瞥するが、すぐに興味を失って去っていく。
かつて私を取り巻いていた視線が、今は消えている。
解放感と同時に、少しの寂しさ。けれど、その空白は新しい何かで満たされるはずだ。
「ミア。王都を出たら、まずは森の入口を探しましょう」
「はい。……でもエリナ様、野宿などされたことは?」
「一度もないわ」
「でしたら、まずは私が」
「いいえ、ミア。あなたは……」
私は言いかけて、口をつぐんだ。
本当は「危険だから王都に残って」と言いたかった。
だが、ミアの瞳は強い光を宿していた。
彼女は私の決意を誰よりも知っている。ならば、私も彼女の決意を尊重すべきだ。
「……ありがとう、ミア」
私は微笑む。
「一緒に行きましょう」
馬車はやがて王都の外門に着き、重い扉が開かれる。
見慣れた城壁の外には、広がる大地と遠くの森。
冷たい風が吹き抜け、頬を撫でた。
それはまるで、私を歓迎するかのように感じられた。
王都を振り返る。
高い塔、きらびやかな屋根、幼い頃から慣れ親しんだ風景。
けれど、その景色に未練はなかった。
「さようなら、王都」
小さく呟き、私は視線を前へ向ける。
これから始まるのは、誰にも決められない私だけの物語。
婚約破棄された侯爵令嬢の、自由な旅路の一歩目だった。




