第3話 森の小屋
王都を離れて三日。
街道を進み、宿場町を越え、さらに小道を辿っていくと、やがて木々が道を覆い隠すようになった。
森の入口だ。
「……ここから先は、人通りがほとんどありませんね」
ミアが小声で呟く。
鳥の声が頭上から降り注ぎ、乾いた落ち葉が足元でぱりぱりと砕ける。
王都の喧騒とはまるで別世界。
私は胸いっぱいに深呼吸をした。
「静かね。でも、落ち着く」
「エリナ様、まさかこの森に本当に住むつもりでは……」
「ええ。本気よ」
地図に記された小さな白い空白。そこにぽつんと描かれていた「小屋」の文字。
地図師の筆が投げやりに残した記録にすぎない。
けれど、私はそれに惹かれた。
誰も目を向けない隅にこそ、私の居場所がある気がしたからだ。
森を進むと、やがて木立の間に古びた影が見えた。
崩れかけの屋根、半分折れた扉。
だが、確かにそこには小屋が存在していた。
「……あった」
胸の奥がじんと熱くなる。
「本当に……」
ミアが目を丸くした。
「こんな場所に、本当に家が」
近づくと、扉がかすかに風で揺れ、ぎい、と軋んだ。
中を覗けば、埃が積もり、蜘蛛の巣が天井を覆っている。
床板はところどころ沈み込み、窓は割れていた。
それでも――私には宝物に見えた。
「ここが……私の家」
思わずそう口にしていた。
王都の大理石の屋敷よりも、この荒れ果てた小屋がずっと魅力的に思えたのだ。
ミアは眉を寄せながらも、黙って荷を下ろす。
「では、まず掃除からですね。埃で肺をやられてしまいます」
「お願い」
私も袖を捲り上げ、持ってきた布で窓を拭き始めた。
時間を忘れて動き続け、気づけば夕暮れが迫っていた。
床の埃は払われ、窓から差し込む光が室内を柔らかく染めている。
まだ穴だらけで不便な小屋だけれど、それでも「住める場所」へと変わり始めていた。
「やればできるものですね」
ミアが額の汗を拭う。
「ね」
私も息を整え、床に腰を下ろす。
裸足の足裏に感じる木の感触が妙に心地よい。
荷を解くと、少量の乾パンと干し肉、簡単な調理具が出てきた。
外で焚き火を起こし、鍋に水を入れて煮立たせる。
火花がぱちぱちと弾け、夜の森に小さな明かりが灯った。
「不思議ね。たったこれだけなのに、すごく贅沢に思える」
私は木椀を両手で包み、湯気を吸い込んだ。
塩気のあるスープが舌に広がり、身体が温まっていく。
「王都の晩餐より、美味しいです」
ミアが笑う。
「ええ、本当に」
私は頷いた。
煌びやかな食堂で食べる料理よりも、今はこの一杯の方が何倍も心に沁みた。
ふと、森の奥から風が吹き抜ける。
木々がざわめき、葉が揺れた。
その音は、まるで「ようこそ」と言っているように聞こえた。
――あの日、庭の芽が震えたときと同じ。
自然が何かを告げている。
私だけが、それを感じ取っている。
「エリナ様?」
ミアが不思議そうに首を傾げる。
「ううん。……なんでもない」
私は微笑んだ。
けれど、胸の奥はざわついていた。
この森には、ただの空き小屋以上の何かがある。
それは直感だった。
もしかすると、この森こそが――私の運命を変える場所なのかもしれない。
夜空を見上げれば、王都では見えなかったほどの星が瞬いている。
冷たい風に肩をすくめながらも、私は確かに感じていた。
「ここから始めよう」
小さな声で、誰に向けるでもなく誓った。
婚約破棄された令嬢の物語は、今ようやく本当の始まりを迎えたのだ。




