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理不尽と決意のはざまで

屈辱と無力感――それは少年を押しつぶすような終わらない悪夢だった。

けれど、ある言葉をきっかけに、彼は新たな決意を抱き、自分の力を信じ始める。

これは、心に眠る強さを見つけ出す物語。少年の選んだ道を、ぜひ見届けてください。

あの時の匂いは、今でも鼻の奥に染み付いている。汚物の酸っぱい臭いと、濡れた靴底が頭に押し付けられる感覚。それはただの痛みじゃなかった。屈辱と無力感――俺を押しつぶすような、終わらない悪夢だった。


「なんで生きてるんだよ、こんなクズが。」


笑い声が頭上で響き、俺はただ耐えることしかできなかった。言い返せない自分が心底嫌になった。あの瞬間、俺の中で何かが壊れた気がした。だが、それ以上に…何かが目覚めた。


――汚物の匂いが鼻を突き、笑い声が耳を刺す。思い出すたびに、あの屈辱が蘇る。


いじめをする奴らは集団で行動する。それが「強い」と勘違いしているからだ。だが俺は気づいてしまった。あいつらは弱い。自分を守るために他人を攻撃しなければ立っていられないんだと。


これまで暴力を悪だと思い込んでいた。暴力とは、俺の父親そのものだったからだ。母親を支配し、家族を壊した父親。その記憶が、暴力を「悪」だと教え込んでいた。


だが、中学のトイレでの最悪な体験を経て、俺は考えが変わった。暴力そのものが悪なのではなく、それをどう使うかが問題なのだと。学ばせるための痛み、守るための力――それは必要な時がある。


幼い頃、俺は母親を守るため、父親に立ち向かったことがある。父親の拳が俺の顔面や腹を狙ってくるたび、俺はその攻撃を避ける術を必死で学んだ。硬式ボールを公園のコンクリートの壁に投げつけ、それを避ける練習を繰り返し、どこに力を入れれば父親のバランスを崩せるのかを考え続けた。


俺の中には、その時の「強さ」が眠っていたのだ。


トイレでの出来事の後、俺たちは職員室に呼び出された。そこでは先生たちが、俺を最初から加害者だと決めつけていた。


「凌央、お前がどうせ悪いんだろう?」

先生の口から吐き捨てられるように出たその言葉に、俺は何も言わなかった。反論しても無駄だと知っていたし、祖母にこれ以上迷惑をかけたくなかった。祖母は今、入院していることになっていたが、それも俺のついた嘘だった。


約30分後、呼び出された5人の親たちが職員室に駆け込んできた。彼らは自分の子どもに駆け寄り、こう言った。


「大丈夫だった?怪我はない?」

「こんな暴力的な子がいるから、こんなことになるんですよ!」

「学校はどう責任を取るつもりなんですか!」


親たちの言葉は、自分たちの子どもが加害者であることを棚に上げた無責任なものばかりだった。先生たちはそれを黙認し、事件を早く収束させるために警察を呼ぶという決断を下した。


学校に到着した私服警官の顔を見た瞬間、俺は驚いた。


「凌央…」


そう、優しく声をかけてきたその警官は、両親が逮捕されたあの日に俺を見ていた神崎刑事だった。


「ここでは話せないから、警察署で話そうか。」

神崎刑事の声は、あの日と同じように穏やかで優しかった。そのまま覆面パトカーに乗せられ、俺は人生で初めて警察署へ向かった。


署に到着する前、神崎刑事は俺に言った。


「そのままじゃ臭いだろう?家に寄ってシャワーを浴びてこい。」


神崎刑事の気遣いに少し戸惑いながらも、俺は自宅でシャワーを浴び、着替えを済ませて再び車に乗った。その間、彼は微笑みながら待っていてくれた。


警察署に着き、神崎刑事のいる部署に入ると、そこは普通の警察署とは違っていた。そこにいる刑事たちは一見すると反社会勢力のような風貌をしていたが、俺はそれを怖いとは感じなかった。幼い頃から見てきた大人たちと似た空気を纏っていたからだ。


警察署の一室に案内されると、神崎刑事は俺に向かい合うように椅子に座り、コーヒーの缶を差し出してきた。


「飲むか?」

「……ありがとう。」


差し出された缶を受け取りながら、俺は何も言えずにいた。神崎刑事の表情は柔らかいが、その目には何か深いものを感じた。


「凌央、話をする前に、少し俺の昔話をしてもいいか?」


彼はそう言うと、静かに語り始めた。


「俺の父親も警察官だった。正義感が強くて、誰よりもまっすぐな人だったよ。でも、俺自身はと言うと、ガキの頃から喧嘩が好きでさ。強くなることが楽しくて、毎日のように腕試しをしてた。何しろ、この拳には自信があったからな。」


神崎刑事は軽く拳を握り、懐かしそうに笑った。


「ただ、父親が警察官だったからな。いくら喧嘩が強くても、問題を起こすわけにはいかなかった。でも、高校生の時、仲間と一緒にいた場所で傷害事件が起きて、俺も警察に連れて行かれたんだ。その時だよ、父親が俺にこう言ったんだ。」


神崎刑事の目が、少しだけ険しくなる。


『力があるやつは、自分の拳を善として使え。力そのものが悪なんじゃない。悪として力を使うことが問題なんだ。』


彼の父親の言葉が、重く響いた。


「凌央、よく耐えたな。」


その一言で、俺は限界だった。目頭が熱くなり、気づけば大粒の涙が頬を伝っていた。


「誰もが『あの親だから…』って俺を決めつけてきた。俺は、父親みたいになりたくなかったのに…」


「わかってるよ。」


神崎刑事は、俺の目をしっかりと見つめて言った。


「お前はお前だ。そして、お前の拳もお前自身のものだ。それをどう使うかは、これからお前が決めることだ。」


彼の言葉は、俺の中で消えかけていた灯火に再び火をつけた。力は悪じゃない――それをどう使うかが重要なんだ。


「理不尽な力に屈するだけの俺で終わるつもりはなかった。守りたいものを守れる力、それを俺は自分の手で掴む。そう決めた瞬間、俺の中に眠っていた何かが確かに目覚めた。」


その言葉は、俺の中に小さな灯火をともした。人生で初めて、自分を認めてくれる大人に出会えた気がしたのだ。


中学1年の秋、あの日の屈辱から立ち上がり、俺は新しい生き方を始めた。思えば、あの時の俺はただの「弱い自分」を壊したかっただけなのかもしれない。けれど、その選択は間違っていなかったと今では思う。


そして季節は巡り、春――新学年が始まる朝。俺はふと窓の外に目をやった。校庭の桜が風に揺れ、花びらがひらひらと舞い落ちる。その光景は美しいはずなのに、なぜか俺の心には何も響かなかった。


「みんな、席替えするぞー!」

担任の森先生が教室に入ってくると、ざわついていたクラスが一気に静まり返った。黒板には新しい席順が貼り出されている。俺の名前の隣には、見慣れない名前が書かれていた。


「松原紗奈」。


「転校生が入るんだってよ。」

教室の隅から聞こえる話声。俺は無意識にその名前を追うように黒板の下に目を向けた。そして、彼女を初めて見た。


――まるで、一枚の絵のようだった。


長い髪をひとまとめにし、制服のシルエットがやけに整って見える。清楚、という言葉がぴったりだ。身長は俺より少し低いくらいで、スラリとした印象。けれど、その目はどこか冷静で、他人と距離を取るような光を宿していた。


「松原紗奈です。よろしくお願いします。」


彼女は黒板の前で簡単な自己紹介を済ませると、淡々とした仕草でこちらに向かってきた。その瞬間、教室のあちらこちらから声が聞こえてきた。


「紗奈ちゃん、めっちゃかわいい!」

「でも、なんか近寄りがたいよね。」


無関心を装いながらも、その視線は明らかに彼女に集中していた。だが、紗奈自身はそれに気づいているのかいないのか。ただ目立たないようにと振る舞う姿が印象的だった。


俺の隣の席が指定された彼女は、静かに歩いてきて席に座ると、一瞬だけこちらに視線を向けた。


「よろしく。」

俺が軽く声をかけると、彼女は一瞬驚いたように目を見開き、それから控えめに頷いた。


机に座ると、隣の彼からかけられたその一言――「よろしく」というたった一言が、妙に胸に響いた。

それは、これまでの学校生活では感じたことのない温かさを伴っていた。不覚にも心が軽くなるような感覚があったけれど、それと同時に、どうして自分はこんなことでほっとしているのだろう、と少し戸惑った。


新しい環境に馴染むことは、自分の中でずっと「演技」のようなものだった。目立たず、波風を立てず、ただ過ぎ去る日々に身を任せる――それが今の自分にできる精一杯の生き方だと思っていた。

でも、隣の彼が見せたそのさりげない優しさは、ほんの少しだけ心の壁にひびを入れた気がする。


「……よろしくお願いします。」

小さな声でそう返した自分に、どこか安心感のようなものがこみ上げてくるのを感じた。



それが、俺と紗奈の最初の会話だった――けれど、これがすべての始まりだった。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます!今回の話では、主人公・凌央が過去の苦しみから一歩踏み出す様子、そして神崎刑事との出会いが描かれました。彼の言葉が凌央にどのような影響を与えるのか、今後の展開をぜひ楽しみにしてください!紗奈の登場もあり、物語はさらに動き出します。次回もお楽しみに!

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