第十六話
マネージャーやスタッフの様子がおかしいことに小野寺友里恵は気づいていた。それが、皆一様に友里恵の前では不自然な笑顔になるので、最初は舞台上で何かトラブルがあったのだとばかり思っていたが、どうもそうではないらしい。
特に舞台の仕事では神経質になる友里恵に対してミスは絶対に許されない。たとえ小さなミスであろうが友里恵の逆鱗に触れたがため、降板させられた役者やスタッフは数知れないからだ。
そういえば、王子役の子の姿を昨日から見ていない。確か王子とのからみの演出が変更になったため昨日昼一からリハーサルするはずだったが、ドラマの撮影が押しているとかで結局ここへは来なかった。
「時田! ちょっと来て」
マネージャーの時田は呼びつけられるたびに、衣装や小道具のチェックなど今はどうでもいいような仕事を持って来るので、それも友里恵に不信感を抱かせる要因のひとつになっていた。
「子役はどうしたの!? 昨日からのスケジュールがめちゃくちゃじゃない!」
「その子役のことなんですが、サブでいくことになるかも知れませんよ」
「どういうこと? 王子役の大野翔平くんは演出家が直々にオファーした子でしょ? 何があったの? まさか出演拒否じゃないわよね……体調不良?」
友里恵の質問攻めから逃げるように時田は「じゃ、そういうことで」とだけ言い残して楽屋を出て行ってしまった。
時田の言う「サブ」とは、スポーツで例えるなら控え選手のことだ。メインキャストに不測の事態が起こった時のために、いつでも代役として同じ役を完璧にこなせる控えの役者。
ダブルキャストの場合はどちらかが代わりに出ればいいわけだが、今回のようにシングルキャストの場合は大抵サブがいる。特に子役となると普段の生活で何が起こるかわからないのでなおさらだが、千秋楽までメインに何事もなければ、もちろんサブの出番はない。
スポットライトを浴びる確率がたとえ限りなくゼロに近いとわかっていても、もしものためだけにサブはメインと同じ厳しい稽古に打ち込むのだ。
今回そのサブにスポットライトが当たる日がついにやってこようとしていた。時田の言い方だと確定ではないようなので、まだ本人には伝えられていないだろうが。
だが、サブといってもオーデションを勝ち抜いて選ばれた子だ。場合によってはとんでもない逸材に出くわすこともある。
友里恵は担当のヘアメイクを呼ぶと、時田には打ち合わせだと言って楽屋へこもった。
「友里恵さん、もう時間が無いんですから今から変更出されても応じかねますよ」
ヘアメイクの三輪は楽屋に入って来るなり友里恵にむけて先にジャブを出してきた。この時期に呼び出されるということは、友里恵から何がしかの変更要請があることを示しているからだ。
「三輪ちゃん、ちょっとここに座って」
めったにない友里恵の優しい声に、三輪は体を固くした。
「なんですか? なんなんですか? 今のは冗談ですよ! 出来る限りの変更はちゃんとしますから」
もし、三輪がベテランのヘアメイクで長年友里恵に仕える専属だったとしたら、この友里恵の態度に隠された意図を見抜いてさっさと話を切り上げたかも知れない。
「ねぇ三輪ちゃん、さっき時田から聞いたんだけど……何か大変なことになってるみたいね」
友里恵は三輪の顔を覗き込むと、わざと声のトーンを落としてそう聞いた。もちろん大変なことになっている「何か」を友里恵は知らない。
「ああ! 心配ですよね~。まさかこんなことが起こるなんて、ほんとに、なんて言ったらいいか……」
三輪も声をひそめてそう答えたものの、言葉の端では何やら楽しんでいる様子がうかがえる。
三輪のゴジップ好きは、この業界では有名だ。友里恵はそのことを知っていて三輪にカマをかけたのだった。
「私もびっくりしたわ。で、その後どうなっか三輪ちゃん知ってる?」
「桂木忍と大野翔平のほかにもうひとり、エキストラの子が誘拐されたっていう話ですよ」
「誘拐!?」
「あれ、その話じゃ……!」
ようやく三輪は自分が友里恵に誘導尋問されていたことに気づいた。
「誘拐ってどういうことなの!? 犯人はわかってるの!? なぜ誰も私に教えてくれないのよ!」
友里恵に掴みかかられても三輪には何の責任もない。
「ゆ、友里恵さんに余計な心配かけないためじゃないですか? それに事件が事件ですし」
確かに昨日の時点でこのことが友里恵の耳に入っていたら、もっと現場は修羅場になっていたかも知れない。また、三輪の言うように誘拐事件ともなれば人命が関わっている情報を軽々と話題にするものでもないだろう。
悔しいが、今の友里恵に情報をもたらしてくれるのは目の前の三輪しかいないのだ。
「犯人からは、まだ身代金の要求とかはないそうですよ」
「それじゃあ、忍さんと翔平くんが無事かどうかもわかってないのね……」
「そそそそんな、きっと無事ですよ!」
「エキストラの子も誘拐されたって言ってたけど、それは誰かわかってるの?」
「えっと……確か劇団「とび箱」の子で、文音ちゃんとかって言ってました。うちの姪っ子と同じ名前なんで……あ、友里恵さん!?」
友里恵はそこまで聞いたとたん楽屋を飛び出すと、衣装部屋の更衣室に入り鍵をかけた。
携帯のグループ検索でマネージャー欄を出し、その中のひとりに発信しようとする自分の指がおかしいくらい震えているのがわかった。
『はい、劇団「とび箱」の矢沢です』
相手はすぐに出た。だが、友里恵の方は第一声が出てこない。
『あの……小野寺友里恵さん?』
事務所も違えば担当も違う、ましてや誰もが知る大女優から直通で電話がかかってくることなど彰子以外にはないだろう。
「お久しぶりです。文音がお世話になっているのに、なかなかご挨拶できなくてごめんなさい」
『い、いえ、そんな……』
友里恵の元夫で文音の父、倉本武の後輩にあたる彰子は、もちろん友里恵とも顔なじみである。文音が劇団に入ったことも、ちょこちょこエキストラの仕事をしていることも彰子を通して友里恵は知っていた。
「ところで、文音は元気にしていますか? 矢沢さんにご迷惑かけていなければいいんだけど」
『……はい、文音ちゃん元気にしていますよ』
「安心したわ。今、文音はどこにいるんですか? 倉本の実家に連絡しても繋がらないものだから」
『あの、急用でしょうか? もしよろしければ私から本人に伝えておきますけど……』
「矢沢さん……誘拐されたのは文音なんですね」
単刀直入の問いに、電話の向こうで彰子が息を呑んだのがわかった。
『小野寺さん、落ち着いて聞いてください。犯人は先ほど捕まりました。でも、文音ちゃんたちはまだ見つかっていません』
「そ、それはどういうこと? まさか!!」
『いいえ違います! 自分たちで監禁場所から逃げ出して行方不明なんです。今、警察犬を使って探しているところですからきっとすぐに見つかりますよ』
友里恵は軽いめまいを覚えて、その場に座りこんだ。
ひとり娘……文音の顔が脳裏いっぱいに広がり、友里恵を恨めしそうな目で見つめてくる。
こんなことになるなら、もっと傍にいてやるんだった。もっと話を聞いてやるんだった。もっと抱きしめてやるんだった……。
後から後から後悔の念が友里恵の胸中に押し寄せては彼女を責め立てた。
思い出すのは最後に文音を連れて行った、ロケ先で見つけたススキ野原の風景だ。
小さな文音は背の高いススキに隠れてしまい、すぐに見えなくなってしまう。姿が見えず心配になった友里恵が「出ておいで」と呼びかけても、楽しげな笑い声が夕日に染まるススキの海から聞こえてくるだけで、友里恵はますます心細くなるのだった。
「もう! そんな意地悪するんだったら、お母さん先に帰っちゃうから」
そう言って背を向けた瞬間、友里恵の腰にしがみついて驚かせた文音の顔はススキの葉で切れたのか傷だらけだ。にもかかわらず友里恵を見上げているのは、傷などお構いなしの文音の嬉しそうな笑顔……。
今の友里恵は、あのススキ野原で文音を探していた時の自分だ。すぐ近くにいるのに捕まえられない文音をまたあの子の方から出てきてくれるのを待つしかないのか。
いや、違う。あの時だって探そうと思えば出来たのにそうしなかった。こちらから手を伸ばせば届いたのにそれをしなかったのは自分自身だ。文音はいつでも待っていてくれたのに!
文音が芸能界に入ったと彰子から聞いた時、ついにあの子も親の七光りを利用する知恵を付けたのかと少なからず落胆した。だが、後に彰子から自分が小野寺友里恵の娘だということは公表しないでほしいと文音に言われたと聞いた時、正直腑に落ちなかった。
今思えば、あれは文音の精一杯の意思表示だったのかも知れない。
文音は今もずっとススキ野原で、友里恵が自分を見つけてくれるのを待っているのだ。
わが子の気持ちを何もわかってやろうとしなかった、これは天罰に違いない。そして、今も私はこんなところにうずくまっている。
『小野寺さん、どうしました? 大丈夫ですか!?』
今頃気づいても遅すぎる後悔の涙があふれて止まらなかった。
『小野寺さん、文音ちゃんはきっと無事です。何か情報が入ったら、すぐに連絡しますから気をしっかりもって待っていてください』
「ごめんなさい……自分の不甲斐なさに絶望していただけ。私、本当に悪い母親ね」
『いいえ、文音ちゃんは小野寺さんの立場や気持ちをちゃんと理解しています。お母さんのことを愛していますよ』
「そんな、まさか」
『本当です。ずっと一緒にいるわたしが言うんですから間違いありません。あの子は本当にいい子ですよ。だから文音ちゃんが戻ったら、どうか抱きしめてやってください。お願いします』
ふと顔を上げると、更衣室の鏡には子供の帰りを心配して待つ母親の顔が映っていた。
~ つづく ~




