第十四話
「お父さーん、文音です! お父さーん!」
相変わらずどこもかしこも開け放たれた小さな家を前に、文音は翔平の心中が手に取るようにわかっていた。
(さっきまで監禁されてた小屋と同じじゃん!)
二人の痛い視線を背中に感じながら、それでも文音は武を呼び続けるしかなかった。
「お父さ……」
「おーい! 文音、こっちです! ちょっと来てください!」
家の裏手から父の声が返ってきた。
文音たちが裏に回ると、なにやら大きな木の古株と格闘している武の姿があった。テコの原理で動かそうとしているが、かなりの根を持つ古株らしくビクとも動く気配がない。
「ちょうどいいところへ来てくれました。おや、お友達が一緒とは珍しいですね」
「お父さん、またそこに何か建てる気?」
武が古株を動かそうとしている場所には、何本かの楓とライラックの低木があった。ライラックは別名リラと呼ばれ、優しい香りの小さな花が枝の先に咲く落葉樹だ。文音がテレビで見て欲しくなり苗木を植えたのはいいが、なぜか一度も花を咲かせたことがなく、ただの雑木と化していたのだった。
「文音のライラックは無事ですよ。ちゃんと植え替えときましたから。それより、こいつを動かすのを手伝ってくだ……さ……いっ!」
この家には通信設備が無いので、文音たちが行方不明になっていることを武は知る由もない。
「こんな大きな根っこ、動かないよ」
「いえ、もう少し大きな石を支点に使えば動くと思います」
文音の横から忍の声がした。
「きみは……桂木忍さん」
「はい! 覚えていてくれたんですね、倉本さん」
(覚えていてくれた? それって、どういうこと?)
今の忍の言葉から、二人は以前からの知り合いだということがわかる。
いくら辺鄙なところで生活しているとはいえ、メディアで活躍する忍のことを武が知っているのは理解できたが、なぜ忍は武だとわかったのだろう。
昨夜、忍から舞台美術をやっていた頃の武のファンだったと聞いた文音だが、あの頃とはすっかり風貌が変わった武を本人だと見抜いた忍の眼力に驚いた。
「それはわかっているんですが、これ以上大きな石が見つからないんですよ」
「じゃあ、四人の力を合わせて頑張りましょう! 文音ちゃん、翔平くん」
二、三歩離れて見ていた翔平は突然名前を呼ばれて、さらに三歩後退した。
「翔平、あんたも男だったら昨日からのヘタレキャラを挽回するくらいのいいところ見せなさいよ!」
「ヘタレって言うな! これくらいボクひとりで十分だよっ」
そう言うと翔平はテコの棒に乗っかったまではよかったが、呆れて見守る文音たちの方へ染みの広がるカーゴパンツの尻を向けたままブラブラともがくことしかできなかった。
「ところで、文音たちは何の用でここへ来たんですか? その姿は撮影中というわけではありませんね」
「そうだ! そのためにここへ来たんだ。お父さん、助けて!」
「助ける? とりあえず家の中へ入って詳しい話を聞かせてください」
台所を兼ねた土間に椅子を並べると、文音たちはここへたどり着くまでの出来事を武に話した。
開け放たれた戸口と窓から入ってくるそよ風を頬に感じ野鳥のさえずりを聞いていると、今朝までの悪夢が嘘のように思えてくる。
話しているうちに興奮して時間軸が前後する文音に代わり、言葉足らずのところは忍が補足してくれた。ただ、文音がいちばん武に聞いて欲しかったのは忍の格闘シーンだったが、そこは話してはいけない気がしたのでグッと我慢した。
ひと通り話を聞いた武は、無事に脱出できたから良かったものの、くれぐれも自分たちだけの判断で危険な橋を渡ってはいけないと忍に向かって釘を刺した。それは話を端折ったにもかかわらず、まるで忍のファイティングを見ていたかのように感じたのは文音の思い過ごしだろうか。
「ご心配おかけしてすみません。あの、警察に連絡していただけますか?」
思い出したように忍が言った。
「そうしたいのですが、ここには電話が無いし携帯も圏外なんです」
「車があるじゃん。お父さんが街まで送ってよ」
「それが、今朝からエンジンがかからないんですよ。どうやらバッテリーが上がってしまったようで……」
ええぇー! タイミングが悪いにも程がある。
「それじゃ、歩いて行くしかないの? 街に着くまでにヤツらに見つかったらどうするのよ!」
それでなくても今まさに近くまで追って来ているかも知れないのだ。
「とりあえず、お風呂に入って着替えましょう。そして食事をしてから考えればいいじゃないですか」
相変わらずマイペースな父の言う通り、危機を脱したとは言えないが、ここは一旦落ち着いて考えた方がいいかも知れない。
いつもなら文音が風呂を沸かすところだが、念のため外の焚口は武に任せて文音は食事の準備にとりかかることにした。
「文音ちゃん、何か手伝うことある?」
「特にないですけど、忍さんは玄米ご飯って食べられますか? ……翔平は大丈夫だよね!」
「なんでボクは強制的なんだよ! しょうがないから食べてやるよっ」
「食べたことないけど食べてみたいとは思っていたの。もしかして、これで炊くの?」
忍が驚いて指差したのは、土間の中央にある「かまど」だった。
「炊飯器で炊くより断然美味しいですよ」
文音は手際よくかまどに火をつけると、次は惣菜作りに取りかかった。
今はちょうど野菜の端境期で夏野菜もまだ収穫時期ではない。大根の間引き菜と豆腐を味噌汁の具にして、人参の間引き菜で胡麻和えを作った。これに文音自慢の目玉焼きが加われば、質素だがヘルシーな食卓の出来上がりだ。
「本当に文音ちゃんて、いろいろ知ってるだけじゃなくて何でもできるのね」
かまどの火加減を調節している文音の背に向かって忍が言った。文音はあえて忍が口にしないことが心苦しかったので、自分から口火を切ることにした。そうでもしないと、せっかくの食事が台無しになりそうな気がしたからだ。
「忍さんにはバレちゃいましたね。倉本武があたしの父親だってこと。そしたら母親が誰かもわかりますよね」
「うん。最初はびっくりしたけど、文音ちゃんが倉本さんの娘さんだってわかった時は嬉しかった。尊敬する人を間違っていなかった自分を褒めてやりたい気分! それに文音ちゃんて、よく見るとお父さんにそっくりだよ」
一瞬、文音の背中がブルーに陰ったのを忍が気づくはずもない。自分ではわかっていたことだが忍にこうもはっきり父親似だと断言されると、どうして母親の友里恵に似なかったのかと恨めしく思わずにはいられない。せめて目元だけでも似ていれば少しは可愛かったかも……いや、できれば口元も……鼻も……と、考えるだけ不毛だ。
「忍さんは、よく父のことがわかりましたね。今じゃすっかり農家のおじさんって感じなのに」
「すぐにわかったわ。あの頃の倉本さんと何も変わってないもの」
文音には、とても業界で手腕をふるっていた頃の武と同一人物には見えないのだが、忍は同じだと言う。
「あの、父と忍さんて……」
「私がどうしていいかわからない悩み事を抱えていた時、相談に乗ってもらったことがあるの」
へぇ、あのマイペースで自己中の父が人の相談に乗るとは。
「その悩み事は解消したようですね」
風呂の焚口から武が戻ってきた。
「はい。倉本さんがいなくなって、またいろいろ悩みましたがなんとか……苦しい時は倉本さんの言葉を思い出していました」
「お父さん、忍さんになんて言ったの?」
「それは秘密です」
武の答えに、忍はこれまでにない笑顔を見せた。
文音はその笑顔を見ただけで、忍が本当に武の言葉で救われたことがわかった。それだけで充分だ。
「ねぇ、納豆は無いの? ボク一日一食は納豆食べるのが習慣なんだよね」
武の過去を知らない翔平は、もちろん文音が小野寺友里恵の娘だということにも気づいていない。
「あ、そ。じゃ買いに行けば?」
「チェッ、無いなら無いって言えよ」
「納豆ですか……それもいいですね」
武が土間の戸口に立ったまま、また何かにインスパイアされたらしくじっと考え込んでいる。どうせ今の翔平の言葉で、納豆も自分で作ってみようと思ったのだろう。いったいどこまで自給自足の経験値を上げれば気が済むのだ。
「お風呂沸いたの? こっちももうすぐ食事ができるから。翔平、あんた先にお風呂入ってきなよ。着替えはお父さんの出しとくから」
「それじゃ翔平くん、入り方の説明をしましょうか」
「説明? ここの風呂は入るのに説明がいるの?」
首をかしげる翔平を連れて武が風呂場へ向かうのを見送りながら、文音はこらえていた笑いが限界に達し、外に声が漏れることも忘れて爆笑せずにはいられなかった。
ここの風呂は五右衛門風呂と呼ばれるものだ。湯船に浮いている板に乗り、それを沈めなければ足の裏を火傷してしまう。言葉にするのは簡単だが、初心者はバランスをとるのが以外と難しいのだ。
「それにね、忍さん。五右衛門風呂って沸かしたての最初がチョー熱いんですよ!」
忍に説明しながら熱い湯船と板に格闘している翔平を想像すると、文音はますます笑いが止まらなくなった。
「忍さん、翔平が上がったら一緒にお風呂入りましょう」
「……」
(あれ? もしかして忍さん、他人とお風呂に入るの苦手なのかな?)
「文音、忍さんにはひとりでゆっくり入ってもらいなさい」
翔平の風呂指導によほど手こずったのか、風呂場から戻って来た武は全身ずぶ濡れだった。
「えー! だって忍さん、五右衛門風呂の入り方わからないでしょ?」
下を向いたままの忍は本当に困っているようだ。考えてみれば、文音のような一般人が国民的美少女女優と風呂を共にすること自体恐れ多いことなのかも知れない。
「わかった、ごめんなさい。忍さんの立場も考えないで無理言って」
「そ、そんなこと!……文音ちゃんは何も悪くないの。私の方こそ……」
「着替えは私のを用意しておきましょう」
「なんでお父さんの? あたしのがあるじゃん」
「文音の服は小さいでしょう」
そんなはずはない。文音は体形が似ているというので忍のスタンドインをしているのだから。
文音は、どうも来た時から忍に対する武の態度が気になっていた。まるで二人だけしか知らない秘密を守ろうとしているように思える。その証拠に文音が折れた時、忍が感謝の眼差しを武に送ったように見えたのだ。
さっき文音に話してくれた、忍が武に相談したという悩み事と関係があるのだろうか。
「ひっでー風呂だった! まるで拷問、釜ゆでの刑じゃん!」
文音が思った通り、大げさな言葉と共に翔平が戻ってきた。トップバッターの翔平が湯船をかき混ぜてくれたおかげで、ちょうどいい湯加減になっていることだろう。
「倉本さん、お願いがあるんですが」
「はい、なんですか?」
その時の文音には、まだ忍の要望の意図が全く理解できなかった。
~ つづく ~




