おいしいカレー屋教えてあげるよ
控室のドアが開く音とともに、リョウの声が響いた。
「おっ、お疲れー」
カンナとケイタがソファに腰掛け、ペットボトルの水を手に休憩中だった。
ライブの熱気がまだ空気に残っている。
「ミツキは?」
リョウが周囲を見渡しながら尋ねると、カンナが肩越しに答えた。
「須藤くんのところに行きましたよ。お礼したいって言ってました」
「須藤くん……ああ、マコトか」
リョウは眉をひそめ、少しだけ間を置いて呟く。
「お礼ねえ……」
その言葉に、ケイタが口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「気になりますか?」
リョウはわずかに顔をしかめ、視線を逸らした。
「いや、別に……」
ライブが終わり、観客の波に紛れてライブハウスの外へと歩き出す。
夜風が火照った頬を撫で、自販機の前で立ち止まる。缶コーヒーを買って、まだ胸の奥に残る音の余韻に浸っていた。
「マコトちゃん!おーい!」
呼びかける声に振り返ると、人だかりの向こうから美月さんが手を振りながら駆け寄ってくる。ステージ衣装のまま、髪を揺らして、笑顔で。
「どうだった?ライブ!」
目を輝かせながら、息を弾ませて尋ねてくるその姿に、思わず笑みがこぼれる。
「最高でした。新曲、すごくよかったです」
そう答えると、美月さんは一瞬照れたように視線を逸らし、「ありがと」と小さく呟いた。
そして、ふいに真っすぐこちらを見つめて、言った。
「本当にありがとう。あの曲ができたの、マコトちゃんのおかげなんだ」
「俺は何もしてませんよ?」
戸惑いながら返すと、美月さんは首を横に振る。
「隣にいてほしいって言ってもらえたら、嬉しいって教えてくれたじゃん」
その言葉に、胸の奥が少し痛む。
人の手柄を横取りしたような気がして、申し訳なくなってしまう。
「あれは……実は妹に聞いた言葉を言っただけで……」
言いかけた瞬間、美月さんが人差し指をそっと俺の唇の前に立てて、静かに遮った。
「違うよ。言葉は妹ちゃんのものでも、それを伝えてくれたのはマコトちゃんでしょ?」
「だから、ちゃんとお礼させてよ」
そう言って微笑む美月さんの顔が、街灯の下で眩しく見えた。
ライブの余韻と、彼女の言葉が、胸の奥で静かに響いていた。
「んでさ、明日ヒマ?」
突然の問いかけに、缶コーヒーを口に運ぼうとしていた手が止まる。
唐突すぎて、思わず聞き返しそうになったが、なんとか平静を装って答える。
「明日は予定ないですよ」
その瞬間、美月さんの目がぱっと輝いた気がした。
そして、なぜか急に芝居がかった口調で言う。
「カレーは好きかい?」
……え、誰?
一瞬戸惑いながらも、真面目に答える。
「ええ、カレー好きですよ」
すると、美月さんは小さく「やった」と呟き、いたずらっぽく笑った。
「お姉さんがおいしいカレー屋を教えてあげるよ。明日、一緒に行かない?」
その言い方が、あまりにも自然で、でもどこか照れ隠しのようで。
胸の奥が一気に熱くなるのを感じながら、気づけば即答していた。
「はい、行きます!」
自分でも驚くほどの勢いだった。
美月さんは目を丸くして、すぐに笑い出す。
「即答じゃん。じゃあさ、明日行くお店の場所送るから、連絡先交換しよ」
スマホを取り出して、連絡先を交換。すぐにカレー屋の情報がメッセージで届いた。
そのやりとりが、なんだか夢みたいで、画面を何度も見返してしまう。
「おい、ミツキ。早く着替えろよ、反省会行くぞ」
リョウさんの声が飛んできて、美月さんは「じゃあ明日ね」と手を振り、ライブハウスの中へと戻っていった。
残された俺は、缶コーヒーを手にしたまま、しばらくその場を動けなかった。
明日が、待ち遠しくて仕方なかった。
玄関を開けると、台所からいい匂いが漂ってきた。
陽葵がエプロン姿で夕飯の準備をしている。
「おかえりー。晩ご飯は?」
「食べてない」
そう答えると、陽葵は「あいあーい」と軽快な返事をして、鍋の火を入れ直す。
数分後、湯気の立つ料理がテーブルに並び、俺は席についた。
「いただきます」
箸を手に取ったタイミングで、ふと思い出して口にする。
「……あ、明日は昼ごはん外で食べるから」
その一言に、陽葵がぴくりと反応した。眉を上げ、目を丸くしてこちらを見る。
「え、何? お兄ちゃん、デートなの?」
飲みかけていた味噌汁が喉に引っかかりそうになり、慌てて手で否定する。
「ち、違うって」
「いやいや、その顔。そんなにニヤけてたらデートでしょ?」
……また頬が緩んでたのか。自覚がないのが余計に恥ずかしい。
「お兄ちゃん、デートに着ていく服とかあるの?」
「だからデートではないが。いつもの服じゃダメなのか?」
そう言うと、陽葵は大げさにため息をついてみせる。
「ちょっとは綺麗な格好していきなよー、 せっかくの外食なんでしょ?」
確かに、何を着ていけばいいか分からないけど……まあ、なんとかなるだろう。
「……これ、美味いな」
野菜炒めを口に運びながら、話題をそらすように言うと、陽葵は「もう」と呆れたように笑った。でもその顔は、どこか嬉しそうだった。
陽葵に言われて意識したせいか、なかなか寝付けなかった。
朝の光が差し込む部屋で、俺はスマホを握りしめていた。
検索履歴には「失敗しないデート方法」──人生で初めて打ち込んだワードだ。
……我ながら、必死すぎる。
「お兄ちゃん、遅れるよー!」
陽葵の声が階下から飛んできて、慌ててベッドから飛び起きる。
寝癖を直す暇もなく、トーストをくわえながら着替えに向かうと、陽葵が服を抱えて現れた。
「これ着ていきなよ。選んでおいたから」
「おお……いつの間に?」
差し出されたシャツとジャケットを受け取り、鏡の前に立つ。
……お、なんかオシャレっぽい。いつもの俺じゃないみたいだ。
「髪の毛も上げて行きなよ」
陽葵にそう言われて、洗面台の前に立つ。髪留めを手に、手早く髪をまとめる。
ライブに向かうときみたいで、なんだか“戦闘準備完了”って感じだ。
「……戦闘準備って何だよ」
思わず口に出した独り言に、すかさずツッコミが飛んできた。
「何ひとりで喋ってんの?気持ち悪いんだけど」
鏡越しに陽葵がジト目で睨んでくる。いつものことだ。
ワンショルダーの鞄を肩に掛けて、お気に入りのバスケットシューズを履く。足元まで決まると、気持ちも少しだけ引き締まる。
「デート頑張ってね」
陽葵がニヤニヤしながら言う。
「だからデートじゃ……」
否定しかけて、口をつぐむ。否定したいわけじゃない。むしろ、ちょっと照れくさい。
「いってきます」
そう言うと、陽葵はぱっと笑顔になって、
「行ってらっしゃい」
まるで応援するみたいに、明るく送り出してくれた。
美月さんに教えてもらった店の情報を頼りに、最寄り駅へ向かう。
駅を出た瞬間、スマホが震えた。
「今どこよ?」
美月さんからのメッセージ。現在地を送ると、すぐに返信が来た。
「すぐ近くにいるから合流しよ!待ってて!」
言われた通りに待っていると、人混みの向こうから美月さんが現れた。
こんなに人が多いのに、すぐに分かった。あの笑顔は、間違いようがない。
「お待たせー!」
眩しいくらいの笑顔に、ちょっとだけ心臓が跳ねた。
二人並んで、目当てのカレー屋へと歩き出す。
「カレー屋とか、普段行く?」
「いや、あんまり行かないですね」
そう答えると、美月さんが口元を少しだけ持ち上げた。ニヤリ、というよりは、ふふん、って感じ。
「普段はお家カレー派?」
「そうですね、だいたい家で食べてます」
「じゃあ、今日のカレーにはあんまり期待してない感じ?」
「そんなことないですよ。美月さんのおすすめですから!」
即答したけど、内心はちょっと違った。
家のカレーで十分満足してるし、わざわざ外で食べたいと思ったことはなかった。
でも——
美月さんと一緒なら、なんだって特別な気がする。
ビルの前で並んでいる時間すら、俺には特別だった。
美月さんの隣に立っているだけで、周囲の空気が少し違って感じられる。
彼女は何気なくスマホをいじったり、俺に話しかけたりしているだけなのに、通りすがりの人がちらりと視線を向ける。そのたびに、胸の奥がくすぐったくなる。
「俺、今、美月さんと並んでるんだ」
そんな当たり前のことが、どうしようもなく誇らしかった。
「ここのカレー食べたら、なんでみんなカレー屋に通うのか、わかるから」
そう言って笑う彼女の横顔は、ステージの上でギターを弾いていた時とは違って、ずっと柔らかい。
今の美月さんは、なんというか……手を伸ばせば届きそうで、でもやっぱり少し遠い。
そんな不思議な距離感が、心地よかった。
運ばれてきたランチプレートには、三種類のカレーとご飯、そして彩りのいいサラダ。
見た目からして、もう“いつものカレー”とは違っていた。
スプーンを手に取る指先が、少しだけ緊張している。
どう食べ始めればいいのか迷って、結局、目の前の美月さんの真似をして一口。
スプーンを口に運んだ瞬間――世界が静止した。
舌の上で広がるのは、ただ辛いだけではない、幾重にも折り重なったスパイスの旋律。
じんわりと熱を帯びながら、奥深くまで染み渡るような旨味。
「……うまい」
その言葉は、思考よりも先に口からこぼれていた。
脳が味を理解するよりも早く、心が反応していた。
「でしょ?」
美月さんが嬉しそうに笑う。
その笑顔が、カレーの味にさらなる深みを加えるような気がした。
「これは……もう、別の料理ですね」
口にした瞬間、今までの“カレー”という概念が崩れた。
家庭の味でも、学食の定番でもない。
これは“カリー”と呼ぶべきなのか?
いや、そんな言葉遊びはどうでもいい。
それくらい、俺は動揺していた。
「こんなに美味いものだったなんて……これは、また食べに来てしまうかも」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
美月さんは、そんな俺を見て、ふわりと微笑む。
その表情は、まるで自分の好きなものを誰かと共有できた喜びに満ちていて、俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。
食べ終えた後、ふと気づく。
あれだけボリュームがあったはずなのに、皿は空っぽだった。
それだけ夢中になっていたのだろう。
「めっちゃ早く食べたよね、そんなにおいしかった?」
美月さんが、ちょっと意地悪そうな笑顔で俺を見てくる。
その笑顔が可愛いとか思ってる場合じゃない。俺は今、反省会の真っ最中なのだ。
ハッと気づく。昨日、深夜に検索した「失敗しないデート方法」。
あれに書いてあったことを、俺は一つずつ思い出していた。
──店を予約しておく。
……してない。ていうか、店選んだの美月さんだった。
──相手の話をよく聞く。
……聞いてない。むしろ俺の「うまい!」しか言ってない。美月さんが聞いてくれてた。
──支払いはスマートに全部出す。
……出してない。お礼だからって、逆に出させてもらえなかった。
……え、俺、何もできてなくない?
検索した意味、どこ? 俺の努力、どこ?
そんな自分に内心ツッコミを入れていると、美月さんがふいに言った。
「あのさ、まだ時間ある?ちょっと相談したいことがあるんだけど」
その瞬間、俺の中で何かがパァッと光った。
これは……取り返せるチャンスでは!?
失ったポイント、ここで回収できるのでは!?
「もちろんです!そこのカフェに入りましょう!今度は奢らせてくださいね!」
勢いよく言った俺に、美月さんがじっと顔を見て、くすっと笑った。
「何でそんなに安心した顔してるの?」
……バレてる。完全にバレてる。
俺の内心、顔に出すぎ問題。
でもいいか、隣で美月さんが可愛く笑ってくれているから。
カフェのドアをくぐると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
午後の陽射しが窓辺の席をやさしく照らしていて、美月さんは迷わずそこへ向かう。
「クリームソーダ飲もうよ!」
席に着くなり、彼女は目を輝かせて言った。
その勢いに押されて、気づけば俺は「じゃあ、二つ」と注文していた。
やけにクリームソーダ推しだな……と思いつつ、グラスの中で泡が弾ける音を聞いていると、美月さんがストローをくるくる回しながら、ぽつりと口を開いた。
「最近、クリクリの曲、マンネリ化してない?」
――え?
言葉の意味を咀嚼する間もなく、心の中に小さな波紋が広がっていく。
彼女の瞳は、冗談とも本気ともつかない光を宿していた。




