三十五話 『よちよち歩きの赤ん坊』
コルネリアも、当主が直々に呼び付けたタレムに対して、それ以上の抵抗はしなかった。
いや、出来なかったのだろう。
「(死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね)」
と、怨念の様な呟きは漏れていたが……。
そしてそれは、タレムが庇うロッテに対しても同じである。
(いや~ぁ……っ。何て言うか、奥様って、誰かに似てるよな……誰だっけ?)
タレムがそんなことを思いながら屋敷に入る……と。
「にぃ……にぃ……にぃ!」
長い廊下の奥から、クリーム色の髪を持つ赤ん坊が、よちよち歩きで向かって来た。
「タルシスちゃん!」
コルネリアの実子であり、正真正銘アルタイルの名を継ぐ、次期当主タルシス・アルタイルだ。
その姿を見たコルネリアが慌てて近寄り赤ん坊を宝物のように抱き上げ……
「にぃ……っ。にぃ……っ!」
「タルシスちゃん? どうしてこんな所に? お部屋に行きましょうね」
タルシスの事をあやしはじめた。
「にぃ……っ。にぃ……っ。うっ。うっ、うぇええん」
「タルシスちゃん!? どうしたのでちゅか? お腹が減りましたか? うんちでちゅか? ママが何でもしてあげますわよ?」
「「……」」
その様は……一瞬前まで、タレムに呪詛を唱えていた人間と同じだとは思えない。
(……あっ! 機嫌を悪くした時のマリカちゃんに似てるんだ!)
そんなことはありません! と、マリカが聞いたら、怒りだし、「ユルサナイユルサナイユルサナイ……」と呪詛を唱え始めるだろう事実にタレムは、気づいたが……
(ん? ……いや、マリカちゃんにも似てるけど。もっと、ピタリと当てはまる子がいたような……誰だっけ?)
やっぱり違うなと、思い直した。
「うぇええんっっ。にぃぃぃ~~っ!」
「タルシスちゃん!? 本当にどうしたんでちゅか?」
そんなくだらない事を考え終わってしまうまで、コルネリアに抱かれたタルシスが泣き止む事はなく、腕をブンブンと乱暴に振り回す。
その手が、コルネリアの身体を殴りつけているが、気にする様子はない。
……これが、本物の息子に向ける母の愛なのだろう。
「大奥様。……若様は、御主人様の事をお求めなのではありませんか?」
「奴隷は黙りなさい!!」
「っ……御主人様」
『うぇええええええええんっ! にぃ……にぃ』
「ああっ。タルシスちゃん! どうして、泣いているんですの? さっきまではあんなに健やかに眠っていましたのに……」
「……」
タレムのすぐ後ろに付いていたロッテの進言を、コルネリアが切り捨てるが、タルシスは泣きわめく。
そんな様子を見ていたタレムは、
「タルシス……久しぶりなのに俺が分かるのか?」
と、言って、タルシスの前に人差し指を差し出した。
……ロッテに背中を掴まれ、その言葉を信じたのだ。
すると……
「にぃっ。えへ……えへへっ。にぃ♪」
タルシスは、タレムの人差し指を掴むと、泣いていたのが嘘の様に笑い出す。
「タルシス……お前」
「キャハハ♪ にぃ♪ にぃ♪」
タレムの指で遊ぶタルシスの笑顔に、タレムは帰ってきて良かったと少しだけ思うことが出来た。
……ロッテとタルシス。二人も、純粋に帰りを待ち望んでいた人が居てくれた。
それが、どれだけ嬉しいことかは、タレムにしかわからないだろう。
「……嘘っ!」
しかし、そんなタレムと同じだけの心激を、真逆の方向で受けたコルネリアは、真っ青な顔になっていた。
そして、
「私のタルシスちゃんを奪わないで! 触るな! 触るな! 疫病神っ!!」
「……っ」
強引にタレムからタルシスを引きはがし、距離をとった。
コルネリアの腕の中で再びタルシスが泣き出すが、それ以上に、コルネリアが涙を流していた事にタレムは戦慄する。
「どうしてオマエは! 私からすべてを奪うの!? どうして!?」
「……奪う?」
タルシスを大切そうに抱いたまま、ぽろぽろと泣き崩れ、床に膝をつけるコルネリアの言葉は、タレムには実感の無いことであった。
「オマエのせいで全て狂った! オマエが全て奪った! あの人の公爵という地位も名誉もすべて!」
「……っ!」
……十年前の事だ。
今のタレムに記憶は無いが、タレムが関わったシャルル暗殺の一件で、アルタイル家は公爵から男爵まで降格した。
それを、コルネリア言っているのだ。
「オマエが来てから、あの人も変わってしまった! オマエが! オマエが! オマエが居なければ!」
「……」
これは毒だ。
タレムにとっては先ほどの、呪詛よりも猛毒だ。
「それなのに、何でオマエだけ、呑気な顔をしてるのよ! あの人は出世の道も断たれたっていうのに、何でオマエは出世してるのよ!」
「……」
この言葉の毒だけだけで、視界が揺れ、吐き気が込み上げる。
帝国史上、何百年も続いていたアルタイルの名をタレムがおとしめてしまった。
……拾ってもらった身だというのに、である。
それは、タレムにとって、大きなトラウマとなっているのだ。……例え、記憶が無いとしても。
「そこまで奪ったのに……まだ、足りないの?」
「……だから、奪うって何を? 俺は何も――」
「私から、クラリスを!」
「……」
「タルシスちゃんを!」
「……っ」
「タルシスちゃんから! アルタイル当主の席すらも! オマエは奪う積もりですの!」
「は……? え……? ……あ? ちょっと待って……俺は」
中途半端に事実も混じっているせいで、タレムの脳は処理をしきれない。
こういう時こそ魔法を使えば良いのだが、それも余りの動揺で頭が回らなかった。
だから、時間を使って整理する。
……確かに、クラリスの事は、何時かこの家から連れ出すつもりである。
だが、赤子を母から奪う様な惨い事を、本物の親を持たないタレムが、するつもりも、はずも無い。
コルネリアの様な義母を持つからこそ、実母が如何に大切かタレムには分かるのだ。
ましてや、奴隷に堕ちる所を拾ってくれた大恩あるアルタイル家から、
「当主の座なんて奪うわけ……」
「嘘っ! だまらっしゃいっ! そのつもりで、家を出て、武功を上げたくせに! タルシスちゃんを差し置いて! 社交界にも出てる癖に! この恩知らずがぁ!」
「――っ! ……そんな……っ。俺は……そんなつもり……」
……なかった。と、コルネリアに言った所で、信じてはもらえないだろう。
タレムの行動は確かに、タルシスから当主の座を奪うつもりであると疑われても仕方がない。
だが、だ、それは、形の上で飲み込めるだけであり、アルタイルに恩を返そうとした行動が、反逆として映ったと言われたことを心は飲み込めない。
(嘘……だろ? だってアレはお父様の命令で……。それに、まだ幼いタルシスを貴族の悪意から護ろうと思っただけなのに……それなのに)
タレムがやったすべての行動が否定されてしまったのだ。
「出ていけ……アルタイルから、あの人から、私から、タルシスから、もう、何も奪わないでよ!」
「……っ。そ……んな」
「御主人様……」
豪雨に打たれた様に、タレムはよろめき無言で俯く。
そんなタレムの腕をロッテが心配そうに引くが無反応。
……そんな時だ。
『こんな所で、何を騒いでいるんだ?』
タレムの父、アルタイル家の現当主にして、アルザリア帝国百人騎士長。《ユリウス・アルタイル》男爵が、現れたのである。




