【第32話】〜エピローグ
成美が寺澤の胸に飛び込むように、突然抱きついてきた。
「もう、お別れだわ」
しがみ付くような腕の力に、確かな人の温もりを感じた。
「うん・・・・・ そうか」
寺澤も彼女の身体の感触を確かめるように、両腕で包み込んだ。
あんなに煙たく思ったのに、いざ別れるとなると寂しいと言うのが本心だった。
それは、恋人同士の別れとは違う。
むしろ、肉親との別れに似ているかもしれない。
「元気でね」
成美は寺澤の胸に顔を埋めたまま言った。
「キミも・・・ ってのは変か・・・」
寺澤の言葉に、成美がフッと笑った。
彼女の熱い息遣いが、寺澤の胸に伝わる。
海風がベイブリッジを走り抜け、二人の髪が大きく靡いた。
寺澤の背中に回した成美の手に力が入って「ありがとう。また助けてもらったね」
彼女がそう言った瞬間、寺澤の腕の中から全ての感触は消え、何も無くなった。
確かに感じた温もりは、彼の心と身体に僅かな余韻だけを残して去って行ったのだ。
「また・・・」その言葉に彼は確信した。
彼女は、寺澤少年が「孤独」から救い出した少女なのだ。少女の記憶が、高校生に成長した成美から抜け出したに違いない。
寺澤は閉じていた目を見開いて、長い夢でも見ていたかのように大きく息をついた。
彼のシャツに着いた、穂のかに甘い香りが鼻孔を擽った。
ヘッドライトの光が近づいて来て路肩に寄ると、寺澤の後ろに一台の車が止まった。
若い男女が車から外へ出て来て、女性の方が
「ああ、綺麗な眺め」
そう言って、欄干の手すりに身体を寄りかける。
「なんか、甘ったるい匂いしない?」
茶髪の男が言った。
「何の匂いだろう」
「なんか、ケーキの匂いみたいだよな」
「ねぇ、知ってる?天使ってバニラの香りがするんだって」
女性が言った。
「ほんとかよ」
男が笑った。
「昔、絵本でよんだもん」
そんな会話が寺澤の耳に聞こえて来た。
「バニラは天使の香り・・・ か」
寺澤は、フッと笑って夜空を見上げた。
赤く点滅するベイブリッジの航空誘導灯の先には、さっきと何も変わらない月が、静かに彼を見下ろしていた。
「ここは、駐停車禁止です。速やかに車を移動させて下さい」
パトカーが橋の上をゆっくりと走りながら、マイクで警告を発していた。
意識が戻って二日目の夕方、成美の病室には佳代と美鈴がお見舞いに来た。
「なぁんだ、意外と元気なのね」
病室に入った佳代が、第一声に言って笑った。
「髪、切られちゃったんだね」
美鈴が、成美の髪を見て言った。
「後頭部をしこたまぶつけたからね」
「痛かった」
「一瞬だけ。後は気を失ったから」
「髪はすぐに伸びるよ」
佳代が口を挟んで微笑んだ。
「ケーキ買って来たよ」
美鈴がそう言って布団の上にケーキの入った箱を置いた。
「なんか、入院してると太りそう・・・」
成美が笑うと、他の二人もつられて笑った。
開け放たれた病室の窓から流れ込む、梅雨の晴れ間に吹く暑い風が、夕暮れに冷やされて涼しくなっていた。
10日間の入院で、成美は退院した。
デンが、自分の事を忘れてはいないか、彼女は不安な思いで門を潜った。しかし、そんな心配は不要だった。
デンは大きく身体ごとシッポを振りながら、全身で成美に会う喜びを表現していた。
彼女は誰かを待つ者の気持ちをよく知っている。
昔、自分が母親の帰りを待ち続けていた頃を思い出して、彼女は心持ち大きくなったデンの体を強く抱きしめた。
* * * * *
「洗濯ものは、あたしが干しとくからお母さんはもう出かけていいよ」
「悪いわね、じゃぁ、行ってくるから。今夜は美香さん所に泊まるから戸締り宜しくね」
「はいはい、いってらっしゃい」
不思議なもので、納得した理由を知ってしまうと、両親が家にいない事も平気になる。
どうせ・・・・ と言う言葉で全てを片付けていた自分が、今は何処にもいない。
退院してからは、父も、母も、その都度家に帰って来られない理由、帰宅が深夜になる理由を言ってくれるようになった。
成美は久しぶりに部屋の掃除をした。
床に掃除機を掛けて、本棚にダスキンモップを掛ける。
クローゼットのハンギングしている服を、春物から夏物に取り替えていく。
梅雨明けには、まだしばらくかかると朝の天気予報で言っていたが、今日も空は青々と晴れ渡り、夏の日差しにレースの白いカーテンはハレーションを起こして模様を消している。
彼女は机の二段目の引出しを開けて、種類ごとにきれいに分類されたたくさんの薬を眺めていた。
成美は何かを決意したように、キッと口を強く結ぶと、引出しの中の薬をまとめて鷲づかみにして、一気にゴミ箱へ投げ捨てた。
【エピローグ】
夏空が広がっていた。
張り出した高気圧に押し出された梅雨前線は、太平洋へ消えていた。
サンシャインビルの向こうには、入道雲が大きく立ち昇っている。
今日は学校が終業式なのか、早い時間に高校生の姿を大勢見かける。
「タバコ吸わないでね」
窓を開けてタバコを咥えた寺澤に雪絵が言った。
彼は渋々と一度咥えたタバコをBOXに戻した。
寺澤と雪絵は、秋冬物の商品を作る工場の下見に朝一で行って来たのだ。
「ハンズで買い物がある」と言う雪絵の要望で、池袋駅の前を通っていた。
パルコの前の大きな交差点の信号で、車は止まっていた。
「あっ」
寺澤は思わず声をあげた。
雪絵がその声に反応して、寺澤の視線を追うと、横断歩道を友人達と楽しげに歩く、安二崎成美の姿があった。
それは、寺澤を知らない成美だった。
いや、もし、小さい頃出会っている少女が本当に成美だったとしたら、まったく知らない相手ではないのかも知れない。しかし、それは何百ページあるか知れない長い人生の内のほんの1ページに過ぎないのだ。
そして、バニラの香りを漂わせて彼の前に現れた彼女も・・・・
成美は横断歩道でチラリと車内の寺澤を見たが、そのまま車の前を通り過ぎて歩道を歩いて行った。
寺澤はサイドミラーに映る成美の後ろ姿を見つめた。
「青だよ。信号」雪絵が言った。
「あ、ああ」
寺澤は社用車のアクセルを踏み込んだ。
「気になる?」
雪絵は少しだけ、悪戯な笑顔で寺澤に声を掛けた。
「別に」
バックミラーに映る成美の後ろ姿は次第に小さくなって、駅の構内へと消えていった。
バニラEND
少しでも、とびとびでも、読んでくれた方々に大変感謝いたします。場面変化のカット割が多いので少し読み難いかもしれませんね。この物語は二人の主人公が平行線を辿って話が進んでいます。その橋渡し役が、寺澤の部屋に現れる成美なのです。寺澤豊の前に現れた成美は天使だったのでしょうか。おそらく安二崎成美の守護天使です。「守護天使って何?」って、つまり、日本で言う、守護霊ですかね。じゃぁ、守護霊でいいじゃんって感じですが、なんか守護天使の方がメルヘンチックじゃないですか。守護霊っていうと、バニラの香りよりも線香の香りがしそうじゃないですか・・・・




