天使の香り【2】
日が西へ傾く前に、アンジェは家に帰る。
「まだ、いいだろ。日暮れまで、まだ時間はあるよ」
ククルが名残惜しそうに言った。
「夕飯の支度をしないといけないの」
「お母さんは夕飯の支度をしてくれないの?」
少女は小さく首を横に振って
「お父さんも、お母さんも働いているし、あたしの病気にお金も掛かるから、少しでも家の手伝いをしたいの」
「病気って、お金が掛かるのかい?」
「お医者に見てもらうには、お金がかかるわ」
ククルは家に帰るアンジェの後ろ姿を、何時も寂しそうに見送った。
彼女は途中で何度か振り返り、笑顔で小さく手を振った。
彼女は助けを求めなかった。
ククルは何時も見ているだけ。
一度、アンジェが画材道具を持ったまま、転んだ事があった。
さすがのククルも
「大丈夫かい?手を貸そうか?」
「いいわ、自分の事は自分でしたいから」
そう言って、アンジェは笑いながら、這いずるように片腕と片足で立ち上がった。
小さな森の入り口で、ククルとアンジェは毎日会い、会話を楽しんだ。
ククルの青い瞳は、アンジェの心に瑞々しい潤いを与え、アンジェの笑顔はククルに心の温かさを与えた。
しかし、一週間が過ぎた頃、何時もの場所にアンジェの姿は無かった。
「ここにいたんだね」
小さな病室の入り口にククルが立っていた。
アンジェはベッドから起き上がって
「ごめんなさい。朝起きたら、右足が動かなかったの」
そう言って、小さく微笑んだ。
窓から入る月明かりに、ククルの金色の髪は白く光っていた。
「右足が?・・・」
アンジェは小さく肯いて
「そのうち左腕も動かなくなる。そして、全身が動かなくなって、最後は心臓も動かなくなるのよ」
「死ぬって・・・事?」
アンジェは黙って小さく肯いた。
「でも、また会えるよね?」
「死んだら、もう会えないわ」
「二度と?」
「そうね、二度と会えないわ」
ククルは悲しい目をして口を噤んだまま、病室を飛び出していった。
アンジェは、夜空に輝くシルバーイエローの満月を静かに見上げた。
「母さん、彼女に会いに行けって・・・・彼女の命を取る事だったんだね」
ククルは家に帰ると、息を切って母親に尋ねた。
「そうだよ。お前の初仕事さ」
「どうして?・・・彼女はいい娘だよ」
「死ぬ人間に、良いも悪いもないんだよ。あたしら死神は、死んだ人間の魂をあの世に届けるだけさ。死に関与できるのは、それを導く悪魔と、それを救う天使だけなんだよ」
母親は涼しげな笑みを浮かべて言った。
「僕は嫌だ。アンジェはもっと生きるべきだ。死んでもいい奴なんて他にいくらでもいるじゃないか」
ククルは初めて母親に反抗した。
「あたしら死神には、そんな事は関係ないんだよ。それとも、お前、一生人々を苦しみから救う天使にでもなりたいのかい」
ククルは息を呑み込んだ。
彼女は続けた。
「天使なんかになったら、自分の寿命が尽きる何百年もの間、助けた人間の苦しみを背負い続けるんだよ」
母親はククルの頭を優しく撫でながら
「お前、そうなってもいいのかい?」
「でも、その苦しみに耐えれば、神様の側で働けるって・・・・」
ククルは呟くように言った。
「バカだね。何百人の天使がそうやって消えると思うんだい?あそこで働けるのは千人に一人さ。他の天使は、人間の苦しみを背負う事に耐え切れず、無の世界に消えて行くんだよ」
ククルの額から冷たい汗が流れていた。




