天使の香り【1】
少女は重い難病に侵されていた。
その昔、その時代の医学では原因が特定できず、治療は不可能だった。
全身の筋肉が麻痺して、感覚を失い、最後は心臓の筋肉もその機能を失い止まってしまうのだ。
彼女は最初に右腕の感覚を失った。
残った左腕で文字を書き、食事をした。
彼女は絵を描くのが好きだった。
町の展覧会で入賞した事もあった。
左腕ではどうにも上手く描けなかったが、それでも少女は絵を描き続けた。
その次に少女は左足の自由を失った。
それでも彼女は、右足だけで歩き回り、共働きの両親には負担をかけまいと家事の手伝いまでしていた。
医者に見てもらうだけでも大変なお金がかかるのだ。
町じゅうの医者に見てもらった少女は、隣の大きな町の大きな病院にも通ったが、治療法は解らなかった。
「なんだこれ、へったくそな絵だな」
家の近くの小さな森の入り口で絵を描いていたある日、その少年は少女に声を掛けて来た。
隣の家までは100メートルはある。そのまた隣まで100メートル。
町外れにある家々はそんな感じだったから、近くに住む親しい子供はいなかった。
「あなた、誰?」
少女は警戒する事も無く、その見知らぬ少年に話し掛けた。
「僕はククルって言うんだ」
「ククル?変った名前ね。あたしはアンジェリカ。みんなはアンジェって呼ぶわ」
少女は屈託の無い笑顔で少年を見つめた。
「あなたって、バニラの香りがするのね」
「そうかい?」
「うん。すごくいい匂い」
「それは、光栄だね」
少年はキラキラとした、涼しげな青い目をしていた。
「絵が好きなのかい?」
「うん」
「その割には、へただな」
少年の透き通るような金色の髪がサラサラと風でそよいでいた。
「あたし、本当は右利きなの。でも、もう右手は動かないの」
「へぇ、それで左手で描いてるのか」
少年は手を腰に当てて、首を傾げながら
「まぁ、それなりに味のある絵だよな」
「ありがとう」
アンジェの笑顔はククルの心に暖かい火を灯すような、そんな笑顔だった。
アンジェリカは学校に行っていなかった。もちろん、健康な頃はみんなと同じように学校へ通い、友達と遊んだ。
しかし、病気の症状が出ると、学校側から「来られると困る」
そう、言われたのだった。
身体の不自由になった彼女にとって、まだまだ偏見の多い時代だった。
次の日、アンジェリカが何時もの森の入り口まで来ると、ククルが立っていた。
「キミは、足も悪いのかい?」
少女はピョンピョンと杖をつきながら、右足だけで歩いて来たのだ。
「うん。左足も動かないの」
「それは、大変だね」
少年は木にもたれて、少女がイーゼルにキャンバスを立てかける様子を眺めていた。
「ククルは何処から来るの?」
「僕は、この森の奥に住んでるんだ」
「この森に人が住んでるなんて知らなかった」
「僕の家の周りにはバニラの花が咲いていて、それを乾燥させて食べるんだ」
「バニラの花を食べるの?」
アンジェは大きく瞬きをしながら言った。
「ああ、けっこう旨いよ」
ククルの瞳は、澄んだ青空を映しているようだった。
「だから、ククルはバニラの匂いがするのね」
アンジェはそう言って笑い
「ククルは、この森の奥で一人で暮らしてるの?」
「いや、母親と一緒さ」
「やさしい?」
「いや、鬼だね」
ククルは笑って言った。そして、アンジェも笑った。




